元三大師として愛される慈恵大師良源ご自作のお像を祀る 比叡山の麓「求法寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

元三大師として愛される慈恵大師良源ご自作のお像を祀る
比叡山の麓「求法寺」を訪ねる

2023年9月2日 訪問
まだ暑さの残る9月2日、比叡山の麓、坂本にある求法寺を訪問しました。
「9月2日」に訪問したのには理由があります。9月3日の慈恵大師良源の誕生日の逮夜日である9月2日は、求法寺走井堂にて秘仏御本尊の慈恵大師像(元三大師像)がご開帳される日だからです。今回はご開帳の法要に参加し、武覚超ご住職とお話させていただきました。
求法寺走井堂は、今から約1200年前に第四世天台座主の安恵和尚の里坊として開かれたお堂です。のちに第十八世天台座主となる慈恵大師良源は、12歳の時に滋賀県の浅井郡(現在の長浜市あたり)からこの地にやってきて、このお堂で比叡山への入山・修行の決意を固めたと言われています。このことから、「法を求める寺」=「求法寺」と名付けられたといわれています。日吉大社の石橋の前に位置し、その地名から「走井堂」と呼ばれるようになりました。現在のお堂は今からおよそ300年前、江戸時代の正徳四年(1714)の建築で、滋賀県指定の重要文化財となっています。柱を省略し、たくさんの人が一度に参拝できるようになっているそうで、元三大師の信仰の深さがうかがえます。

元三大師は比叡山中興の祖とも称される高僧で、延暦寺の伽藍の再建や経済基盤の獲得、法会の制度整備など比叡山繁栄の基礎を作り上げました。
また、元三大師は疫病を退散させた、小さな姿に変身した、といった伝説から厄除けの大師として衆生の信仰も集めるようになり、私たちにとって身近な存在となりました。疫病を退散させた時に鏡に映った姿であると伝わる「角大師」や三十三体の小さな元三大師像を描いた「豆大師」のお札は、求法寺や延暦寺をはじめ、各地の天台宗寺院で授与されています。

慈覚大師坐像は毎年1月3日の元三大会と、9月2日の誕生会の法要の時間のみご開帳されます

そんな元三大師像のご開帳の法要は、護摩木を燃やす護摩供の形式で行われました。参列者は外陣に並んだ椅子に坐ります。非常に多くの方が参列されていて、外陣は満席状態でした。中にはお堂の外から参加されている方もいらっしゃいました。
参列者は『観音経』などのお経を読み上げ、如意輪観音の御真言を唱えることで法要に参加します。元三大師は如意輪観音の化身であると考えられていることから、如意輪観音の御真言を唱えるそうです。

護摩の火は天井に届きそうなほど高く燃え上がり、かなりの迫力がありました。護摩供が終わると、参列者は内陣に入り、元三大師像のすぐ目の前にまで行ってお参りをさせていただきます。元三大師さまは凛々しいお顔をされていて、背筋が伸びるような気持ちになります。みなさん思い思いに祈りを捧げていらっしゃいました。
法要が終わると、武ご住職からの法話がありました。法話の中では、元三大師がどのような人であったかが歴史学者でもあるご住職からお話され、古くから伝わる求法寺走井堂の歴史を伝える「縁起」も読み上げられました。

■法要を終えて

法要を終えて、私たちは武ご住職と交流をさせていただきました。
まずは「伝教大師最澄」について。武ご住職は天台宗の仏教学者でもあり、多くのご著書も出されています。武ご住職は、後々の時代で語られた伝教大師最澄のことだけではなく、伝教大師最澄ご本人が残した記録や当時の史料に当たることでその存在を感じてほしいと言います。

学生から「武ご住職が若い世代に知ってほしい最澄さんの魅力はなんですか?」という質問があると、「慈悲のお心です。最澄さんが説いた『道心』とは、自利利他、つまり自ら悟りを求めるという逞しい心、そして自らが悟りを得たのちは、人々のために教えを説き続ける、思いやりの心です。そういう心をもって活動していってほしいですね。」とお話されていました。
続いて法要についてお話しました。初めて護摩供を見た学生の多くは、燃え盛る火の迫力に驚いたようです。武ご住職は、法要を単なる「儀式」と捉えるのではなく、どんな意味があるのかを知ってほしいといいます。学生たちの中には、初めて参加した法要の衝撃から、もっと天台宗や仏教の法要について「学びたい」という気持ちが芽生えた人も多かったようです。伝統行事を未来に繋いでいくためには、ただ参加するだけではなく、その行事の意味を学ぶこと重要だと気付かされました。

坂本に伝わる祈りの歴史の深さ、そして仏教行事の奥深さを再認識した訪問になりました。

(文・京都大学大学院2回生)
求法寺
〒520-0113
滋賀県大津市坂本5丁目2−33