いろり端
探訪「1200年の魅力交流」
和歌にも詠まれた名鐘「雪野⼭⿓王寺」を訪ねる
2023年7月29日 訪問
滋賀県のほぼ中央に位置する⻯王町。その名前の由来にもなったお寺が⿓王寺です。
1300 年以上にわたって歴史を紡いできた⿓王寺には、この地域の祈りの歴史が詰まっていました。通常は閉堂されている龍王寺ですが、今回は特別にご住職にご案内いただきました。
1300 年以上にわたって歴史を紡いできた⿓王寺には、この地域の祈りの歴史が詰まっていました。通常は閉堂されている龍王寺ですが、今回は特別にご住職にご案内いただきました。
「このお寺の歴史は、実は伝教⼤師最澄が⽇本に天台宗を伝える前にまで遡ります。⿓王寺は奈良時代の和銅三年(710)に⾏基菩薩によって建⽴されたものと、お寺では伝わっています。」
⿓王寺の本堂の背後には、「雪野寺跡」という遺跡が残されています。発掘調査の結果から、⾶⿃時代にまで遡るお寺がこの地に存在したことが確認されています。奈良時代に流⾏した、粘⼟で作られた塑像の仏像の破⽚や⽡も発⾒されています。
⿓王寺の本堂の背後には、「雪野寺跡」という遺跡が残されています。発掘調査の結果から、⾶⿃時代にまで遡るお寺がこの地に存在したことが確認されています。奈良時代に流⾏した、粘⼟で作られた塑像の仏像の破⽚や⽡も発⾒されています。
「戦国時代には戦乱に巻き込まれ、⼆回焼失しています。その頃には、⾜利将軍家や近江の有⼒者、六⾓⽒の⽀援も受けていたようです。江⼾時代になって、現在の景観が整いました。」
お寺の歴史を学んだ後は、本堂をご案内いただきました。
お寺の歴史を学んだ後は、本堂をご案内いただきました。
本堂では、毎年中秋の名⽉(旧暦8月15日)の⽇にぜんそく平癒の「へちま封じ」の祈願が⾏われています。なぜ「へちま」なのでしょうか。
「へちまを使うのは、かつて咳⽌めの薬として使われていたからです。へちま封じの祈願では、お札をご祈願してお渡しします。持ち帰って埋めてもらい、49 ⽇間、お祈りをしていただきます。」
「このぜんそく封じの祈願は、天台宗の中の流派の⼀つ、安楽律法流の中で伝わっていたものです。江⼾時代までの住職の名前には安楽律法流の僧侶の称号である「沙弥」がついていました。」
この祈願のために⿓王寺にお参りする⼈も多いそう。かつては本堂に収まりきらないほどの⼈々がお参りに来たそうです。このご祈願を通してぜんそくが治ったという⽅々の⾔葉が嬉しいと、ご住職は笑顔で話してくれました。
続いてお祀りされている仏様をご案内いただきました。
「へちまを使うのは、かつて咳⽌めの薬として使われていたからです。へちま封じの祈願では、お札をご祈願してお渡しします。持ち帰って埋めてもらい、49 ⽇間、お祈りをしていただきます。」
「このぜんそく封じの祈願は、天台宗の中の流派の⼀つ、安楽律法流の中で伝わっていたものです。江⼾時代までの住職の名前には安楽律法流の僧侶の称号である「沙弥」がついていました。」
この祈願のために⿓王寺にお参りする⼈も多いそう。かつては本堂に収まりきらないほどの⼈々がお参りに来たそうです。このご祈願を通してぜんそくが治ったという⽅々の⾔葉が嬉しいと、ご住職は笑顔で話してくれました。
続いてお祀りされている仏様をご案内いただきました。
「ご本尊は薬師瑠璃光如来で平安時代後期の作です。普段、お厨⼦はしまっていますが、中秋の名⽉の⽇、ぜんそく封じの祈願の際には、お厨⼦を開きます。」
お厨⼦の両脇には本堂と同じ時期、およそ350 年前に造られた⽇光・⽉光菩薩像があり、さらにその両脇に6 体ずつ、鎌倉時代に造られた国指定の重要⽂化財の⼗⼆神将像が安置されています。⼗⼆神将像はそれぞれ⼗⼆⽀の動物を頭に載せており、日本で数少ない国の重要文化財の中で、十二神将がすべてそろっていることはとっても貴重だそうです。
また⼗⼆神将像の後ろには御本尊と同じ頃、平安時代後期の作とされる地蔵菩薩、観⾳菩薩もお祀りされています。薬師如来の脇侍として、地蔵菩薩、観⾳菩薩を配置しているのは珍しいそうです。
お厨⼦の両脇には本堂と同じ時期、およそ350 年前に造られた⽇光・⽉光菩薩像があり、さらにその両脇に6 体ずつ、鎌倉時代に造られた国指定の重要⽂化財の⼗⼆神将像が安置されています。⼗⼆神将像はそれぞれ⼗⼆⽀の動物を頭に載せており、日本で数少ない国の重要文化財の中で、十二神将がすべてそろっていることはとっても貴重だそうです。
また⼗⼆神将像の後ろには御本尊と同じ頃、平安時代後期の作とされる地蔵菩薩、観⾳菩薩もお祀りされています。薬師如来の脇侍として、地蔵菩薩、観⾳菩薩を配置しているのは珍しいそうです。
本堂の中央には、醫王殿(いおうでん)と書かれた大きな額がかけられていました。
これは天明7年(1787年)に宣楽院公尊法親王が書かれたものだそうです。ぜんそく封じの祈願など医を司るお薬師様をご本尊としていることで、醫(医)王殿ともいれており、この額は龍王寺の象徴でもあります。
これは天明7年(1787年)に宣楽院公尊法親王が書かれたものだそうです。ぜんそく封じの祈願など医を司るお薬師様をご本尊としていることで、醫(医)王殿ともいれており、この額は龍王寺の象徴でもあります。
本堂の拝観を終えて、庭にある梵鐘を⾒せていただきました。この梵鐘は奈良時代から平安時代初期のものであると考えられており、重要⽂化財に指定されています。この鐘には興味深い伝説が残されています。
「奈良時代に⼤和国(奈良県)から⼩野時兼という⼈物が、⾃らの病を治すために⿓王寺の薬師如来に祈願にやってきました。そこで美和姫という美しい姫君と出会い、⼆⼈は結婚します。しかしそれから三年を過ぎたころ、美和姫は⾃分が本当は⼈間ではなく、御沢神社(東近江市にある神社)の主であるということを明かし、別れを告げます。そして、⾃分の形⾒として⽟⼿箱を時兼に与え、100 ⽇後に開けるよう伝えますが、時兼は想いを抑えられず、99 ⽇⽬になって美和姫に会うために御沢神社に⾏ってしまいます。しかし美和姫の正体は恐ろしい姿の⼤蛇でした。
時兼は驚いて逃げ帰り、⽟⼿箱を開けてしまいます。すると紫雲とともに梵鐘の姿が浮かび上がりました。それを寄進したものがこの梵鐘である、と伝わっています。
⿓王寺の池と御沢神社の池は繋がっているとされていて、どちらも⽔が⽩く濁っているという特徴があります。この梵鐘の上部の⿓頭と呼ばれる⿓の形をした輪の部分は、⽩い布で包まれているのですが、⽂化財の調査のためにこれを外したところ、⼤⾬が降ったそうです。」
「奈良時代に⼤和国(奈良県)から⼩野時兼という⼈物が、⾃らの病を治すために⿓王寺の薬師如来に祈願にやってきました。そこで美和姫という美しい姫君と出会い、⼆⼈は結婚します。しかしそれから三年を過ぎたころ、美和姫は⾃分が本当は⼈間ではなく、御沢神社(東近江市にある神社)の主であるということを明かし、別れを告げます。そして、⾃分の形⾒として⽟⼿箱を時兼に与え、100 ⽇後に開けるよう伝えますが、時兼は想いを抑えられず、99 ⽇⽬になって美和姫に会うために御沢神社に⾏ってしまいます。しかし美和姫の正体は恐ろしい姿の⼤蛇でした。
時兼は驚いて逃げ帰り、⽟⼿箱を開けてしまいます。すると紫雲とともに梵鐘の姿が浮かび上がりました。それを寄進したものがこの梵鐘である、と伝わっています。
⿓王寺の池と御沢神社の池は繋がっているとされていて、どちらも⽔が⽩く濁っているという特徴があります。この梵鐘の上部の⿓頭と呼ばれる⿓の形をした輪の部分は、⽩い布で包まれているのですが、⽂化財の調査のためにこれを外したところ、⼤⾬が降ったそうです。」
この鐘について詠んだという柿本⼈⿇呂や和泉式部の和歌も伝わっており、1000 年以上前から⾬をもたらす⻯を祀る有名な鐘であったそうです。1007 年には、この鐘のことを知った⼀条天皇から「⿓寿鐘殿」の額を賜り、「雪野寺」から「⿓王寺」へと改称されました。この鐘がなかったら、「⻯王町」という名前もなかったかもしれませんね。
⿓王寺には、へちま祈願をはじめとする⼈々の祈りの場が濃密に残されているように感じました。地域の⼈⼝減少もあり、お祈りに来られる⽅も⾼齢の⽅が多いそうです。しかし、かつてへちま封じのお祈りに来た⽅々のお⼦さんやお孫さんが祈願に訪れることも少なくないそうです。1300 年以上続いてきた⿓王寺の祈りの歴史がこれからも受け継がれていって欲しいなと思いながら、拝観を終えました。
(文・京都大学大学院2回生)
(文・京都大学大学院2回生)
雪野⼭⿓王寺
〒520-2521
滋賀県蒲生郡竜王町川守41
〒520-2521
滋賀県蒲生郡竜王町川守41
人から人へと紡がれてきた
大切な想いや魅力について語り合う
地域で育まれてきた歴史や文化を語り合い、
新しい価値と出会います