近江国最古の寺院、湖東三山「釈迦山百済寺」を訪ねる
TOP > いろり端 > 滋賀県東近江市 百済寺

いろり端

探訪「1200年の魅力交流」

近江国最古の寺院、湖東三山「釈迦山百済寺」を訪ねる

2023年7月29日 訪問
滋賀県東近江市に位置する天台宗の古刹「百済寺(ひゃくさいじ)」は西明寺、金剛輪寺とともに「湖東三山」と称されています。1400年以上の長い歴史の間、さまざまな歴史や出来事に積み重ねながら、山の上から地域を見つめ見守り続けていた寺院でした。今回、案内していただいたのは濱中亮成ご住職です。

百済寺の歴史

 「百済寺は延暦寺の末寺となっています。ただこのお寺が開かれたのは延暦寺より古く、604年に聖徳太子により創建されました。百済寺という名の通り、百済から来た渡来人のために作られた寺院であったともされ、百済と密接な関係があったと伝えられています。これは一つの仮説ではあるのですが、中国の魏晋南北朝時代の南朝に梁という国がありました。その皇帝に蕭衍(しょうえん)という人がいました。この人は何度も出家し、捨身をしようとするほど、厚く仏教に帰依していた人物です。そのたびに家臣がお寺から連れ戻されており、皇帝大菩薩ともいわれるほど非常に優秀な人物でしたが、侯景の乱という戦いが起き、捉えられ餓死していました。その蕭衍の孫とされている人物は百済に逃げられていたとされており、後に日本に来たという記録が残っています。これらのことから南朝―百済―日本という仏教伝播のルートがあり、百済寺に蕭衍の孫も来ていたのではないかと考えています。」
本坊喜見院(きけんいん)には聖徳太子の軸が掛けられていました。
「こちらには聖徳太子の軸があります。これは江戸初期のものかと思います。聖徳太子と延暦寺を開かれた伝教大師は非常に密接な関係性があります。伝教大師は聖徳太子のことを尊敬しておりまして、伝教大師は聖徳太子のひ孫であったとも言われています。」
つづいて織田信長による焼き討ちのお話を伺いました。
「百済寺は1573年に織田信長によって焼き討ちの被害を受け、全山が焼失しています。
その経緯ですが、当時百済寺は六角氏と強い関係を持っていました。織田信長が近江の国に侵攻した際に、守護であった六角氏に警護を命じましたが、これに反発した六角氏はその命をはねのけたため信長に攻められました。六角氏は全く歯が立たず、太郎坊にある箕作城が一日ほどで落城したそうです。
その後浅井氏・朝倉氏により延暦寺の焼き討ちが行われ、再びこの地に来た織田信長が一つの要求をしてきました。それは百済寺を織田信長の祈願寺院にするということでした。それを守れば所領は安堵しますが、地域の武士へ請を押し付けてはならないことや竹木を採取してはならないことを命じるという御触書が出されるということになるとのことでした。その目的は安土を拠点とした織田信長が、とても大きな力と広大な敷地を持つ百済寺を自分の権威を保つために活用したかったのだと考えられます。百済寺は、織田信長につくか六角氏につくか日和見的な態度をとっていたようです。六角氏は信長に全く歯が立たなかったことに加え、有力な家臣である後藤氏親子の暗殺により求心力を失い一旦本城の観音寺城から追い出されているほどで、あえて六角氏を見方するとは考えにくいとも考え、米の支援くらいなら大丈夫かと六角陣に届けたところ、焼き討ちされてしまったようです。」
「こうして天正年間に百済寺の焼き討ちが行われましたが、その直後の絵馬が今も残っています。この絵馬には天正十七年六月と書かれていますので、おそらく焼き討ちの後と思われます。百済寺は祈願道場でもありますので、これは農作物の五穀豊穣を願うために寄進された絵馬のようです。左が白い馬で右が黒い馬がですが、白の絵馬は晴れを願うときに使われ、黒の絵馬は雨を願うときに使われたそうです。絵をよく見ると、夜中この馬が暴れ出して困るため、絵に縄の絵を描き加えたところおとなしくなったという逸話も残っています。」

本坊には、狩野派の描いた中国風の屏風や堆朱の机、龍泉窯の青磁器等豪華な工芸品もありました。
「井伊直茂公という彦根藩の跡継ぎであった人がいました。その人は彦根藩から勘当され、一度は延暦寺に行った後に百済寺の方に移られました。寛永年間に百済寺でお亡くなり、お葬式は百済寺の近くの永源寺で行われました。実は井伊家の菩提寺は百済寺でも永源寺でもありません。難しい推測になるのですが、直茂公は非常に有能で傲慢な方であり、自分が将軍だといわんばかりの態度をとっていたそうです。この時代は親藩大名でもお取りつぶしが行われたため、井伊家の行く末を案じ井伊直茂公は勘当されたのではないかと考えています。その証のように寛永年間に亡くなられたのですが、お墓ができたのは享保年間と一世紀ほど後になります。つまり、ほとぼりが冷めるまで待って、百済寺に造られたのではないかと考えられます。百済寺は焼き討ちにあっているため、昔の工芸品等が残っているとはあまり考えにくく、これらの品は井伊家がもたらしたものであると思われます。」

池泉庭園

庭園が広がっており、スイレン等の花や池の鯉がとてもきれいでゆっくりとできる空間が広がっていました。そこを進むと眼下を見渡せる場所がありました。
「西の三角に見える山が比叡山で、その前には琵琶湖が広がっています。年に数回ですが雲海が広がるときがあります。その時は雲の中から太郎坊や箕作山がみえ、とてもきれいです。」

参道

本堂への参道の途中にはいくつかの平らな場所がありました。
「すべて山内寺院の坊跡になります。最盛期は1,000近い坊あり、千人ほどの僧侶が暮らしていたといわれ相当大きな寺院でした。六角氏の妻子を預かっていたとも言われ、そういう点でも目を付けられていた原因であったと思われます。現在の石垣は、信長焼討以降の江戸時代の再建の際に積まれたものとみられます。この地は白亜紀ぐらいに噴火してできたカルデラで、湖東流紋岩という独特の石が産出されます。その石はお寺の礎石に用いられたり、城を立てる際の石に活用されたりしており、ここの石垣も湖東流紋岩でできています。石垣に積まれているものをみますとお城のものと比べて小さいものが多いと思います。石引絵馬という絵が残っており、彦根城築城の際の場面や安土城築城の際に百済寺から石を持ち出した場面であると伝えられています。石引絵馬の話をあわせて考えると、大きい石はお城の建築のために持ち出され、残りの石で江戸時代に再建されたと思われます。」

本堂

「本堂は寛永年間の再建で、国指定の重要文化財です。幕府からの直接の支援はなかったのですが、譜代大名の筆頭である井伊家の支援を受け、滋賀県出身の甲良豊後守という日光東照宮などに携わった棟梁によって造られています。元の本堂は七間四面の今の本堂より大きなお堂が上の土地にあったのですが、再建の際に現在の場所に移られました。本堂は中世から近世へと変わる転換期の姿を示し、中世以前の外陣と内陣の区別があり、拝観者と僧侶の空間をはっきりと分けられています。それ以降にはその境がなくなっていきます。」

「実は本堂の天井がそろそろゆがみが出ているのです。応急処置を繰り返しているのですが、根本的には解体修理を行わなくてはどうにもならないといわれています。行政にもお願いしていますが、文化財の中でも建築物の技術者は少なく、一つの修復に専門家が長くかかわる必要もあるため、順番を待っている状態ですね。」

本堂の壁面には、観音経の中にある、観音菩薩が三十三の姿に変え衆生を救うとされているお姿を示した絵が掛けられていました。
「私は百済寺の住職とともに市の職員もしており、林道の整備や造林について関わっています。以前狭い林道を車で走っていた時に子供が飛び出してきて、危ないと感じたときがありました。たまたま十年後、地元からその山の整備を行うこととの要望が出されました。その時に観音経のことを思い出し、子どもの姿に変わって観音様のお導きを現わしていたのだと思いました。そういう不思議な体験は一生のうちに何度か体験することがあると思うのですが、こういった体験の時に「仏さんのお導きかな」と考えることで、自分の考えを豊かにすることができると思います。これこそが、伝教大師の己れを忘れて他を利するを実践することができるのだと思います。」

本尊 十一面観音菩薩立像(秘仏)

令和四年に重要文化財に指定された、奈良時代の十一面観音菩薩立像のお話を伺いました。
「本尊は十一面観音菩薩で、2.49ⅿと大きな像です。織田信長の焼き討ちの際に、急遽この大きな像をここから約8km 程離れた大萩村の奥之院まで運び出し逃がしたため、かかとに擦れの跡があります。ご本尊には謂れがあり、聖徳太子が太郎坊から鈴鹿の山の方をみたときに、不思議な瑞光をみたそうです。その光を頼りにこちらに来たところ大きな杉の木がそびえ、その幹に猿たちが、供物を捧げていました。木をみると、上だけ切り離されていました。どういうことか尋ねると、上の方の木は朝鮮半島の百済にある竜雲寺のご本尊となり下だけ残っているとのことでした。その杉の大木を、聖徳太子が一刀彫で十一面観音菩薩を彫られたとの伝承が残っています。根のついたままの像であるため、植木観音という別名がついています。実際には奈良時代の像でカヤ材を用いてできているため、実物の像と伝承が異なってはいるのですが、いずれにしても朝鮮半島から来た人等さまざまな人々を受け入れながらお寺やそれに類似した集合体があり、伝教大師最澄さまが比叡山を開かれたことを機会に百済寺となり天台宗の寺院となったのだと思います。ご本尊は現在京都の美術院で修復作業が行われています。」

本尊の脇侍として院派の仏師である院祐によって造られた聖観音菩薩・如意輪観音菩薩が祀られていました。また春日局が、息子である家光のことを、聖徳太子のように立派になるよう願いを込めて造らせたという春日局寄進の江戸時代の聖徳太子像もありました。

本堂の外には菩提樹の大きな木が生えていました。
「インドの菩提樹は日本では育つことができないのですが、こちらの菩提樹はシナノキの仲間になります。日本にある菩提樹は、栄西禅師が南宋から茶の文化とともにもたらしたものとされます。この木の中は空洞となっています。おそらく焼き討ちの被害を受け、再生してここまで大きくなったのだと思います。仏教ではこの菩提樹と沙羅(ナツツバキ)、無憂樹を三大聖木として大切にしています。六月の終わりから七月の頭にかけて黄色い花が咲き、良い香りがします。」


(文・奈良大学4回生)

参加大学生の感想

百済寺を訪れて、お寺を守るということの重要性を再認識することができました。百済寺は創建以降信長の焼き討ち等に被害に遭い、全山焼失ということになりながらも復興が繰り返されていることにより現在に至っていることを知りました。現在もご本尊様の修復が行われている最中であり、本堂の方も修復を行っていきたいとのことを伺いました。このような信仰の場というものが残っているのには、厚く信仰したくなる空間や時を生み出していたために多くの人々が残したいと願い、その努力が積み重なっているために残っているのだと感じました。本堂や境内を案内していただいている中で、自然の空間に包まれ心が穏やかになるように思いました。このような場が守り伝えられているからこそ、信仰が現代にまで伝わっているとともに、後世にも繋がっていくのだと思いました。
釈迦山百済寺
〒527-0144
滋賀県東近江市百済寺町323

<百済寺からのお願い>
御本尊修復にために、クラウドファンディングを行います。
みなさまのご協力をお願いします。修復が完了しましたら法要を行い御開帳を予定しております。

・実施期間:2023年8月18日(金)00:00~2023年11月17日(金)23:59
THE KYOTO Crowdfundingサイト
https://the-kyoto.en-jine.com/projects/hyakusaiji