「西の比叡山」圓教寺の奥の院、「通寶山彌勒寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

「西の比叡山」圓教寺の奥の院、「通寶山彌勒寺」を訪ねる

2023年5月27日 訪問
兵庫県姫路市には「西の比叡山」と呼ばれる、天台宗の一大拠点、書写山圓教寺(しょしゃざんえんぎょうじ)があります。そこから約5キロあまり北にある「書写山圓教寺・奥の院」とされるのが通寶山彌勒寺(つうほうざんみろくじ)です。
彌勒寺を、開かれたのは性空上人(しょうくうしょうにん、910~1007年)で、この地を入滅の地とされました。本堂などの建物はいすれも小振りで、庭なども手入れが行き届き、世俗的な名誉を敬遠された上人ゆかりの場所としてふさわしい境内です。また、奥の院というだけあって、山に囲まれ、春は桜、秋は紅葉など四季折々の自然が楽しめます。
五月晴れの空の下、学生8名が彌勒寺121世の草別善哉(くさわけぜんさい)ご住職からお話をうかがいました。

1,000年あまり前の弥勒仏がご本尊

お寺の前に小さな川があり、石の橋を渡ります。門をくぐるとすぐに国の重要文化財に指定されている本堂が見えてきました。本堂は南北朝時代に備前・美作・播磨三か国の守護、赤松義則が建立したものです。

「正面にお祀りされているのはご本尊の弥勒仏で、お寺の名前もご本尊からいただいております。仏師は圓教寺の常行堂ご本尊の阿弥陀如来を造られた安鎮です。胎内から『長保(ちょうほう)元年』の文字が見つかっており、999年に造られたのがわかります。県内では、年代が確定している最古の仏像となります。脇侍(わきじ)の大妙相菩薩(だいみょうそうぼさつ)立像と法苑林菩薩(ほうおんりんぼさつ)立像とともに、平成10(1988)年に重要文化財に指定されました。
3体とも江戸時代に質の低い彩色が施されていましたが、重文指定の際に改めて修復しました。特に左手は大きく変わりました。以前は上向きで宝塔を持っておられましたが、手を抜いた後に戻してみると、実は下向きで触地(そくち)印又は降魔(ごうま)印であることがわかりました。また江戸時代の彩色をしっかりはがし元のお姿に戻しましたが、弥勒仏はかなり彩色が厳しかったので、きれいにはがしたことで、かなり榧(カヤ)の木肌が見えるようになりました。
今の時代は、歴史の深さを感じられるような修復技術も進んだようですので、こちらはまさに平安時代のお姿といえると思います。

彌勒寺が建立されたのはご本尊が造られた翌年で、当初の境内は今よりももう少し奥のあたりにあったようです。それが火災に遭い、天授6(1380)年に今の場所に移りました。本堂もその時からのものです」


「堂内の天井も特徴的で、見事な唐様模様を施しています。建立した赤松氏は、足利氏からとても信頼されていたため、赤松氏の巴紋と足利氏よりいただいた二引紋を見ることができます。」

性空上人のお像がある開山堂へ

本堂でのご案内を終えて、次は性空上人像が安置されている開山堂へと向かいました。

性空上人は名門の公家・橘氏の一員として、京都に生まれました。出家したのは36歳と遅いものの、延暦寺の慈慧僧正に学び、天台教学をきわめられました。天台教学は伝教大師最澄が中国から日本にもたらし、天台宗以外にも大きな影響を与えた教えです。

日向(宮崎県)の霧島山や筑前(福岡県)の背振山などの山岳で修行したのち、康保3(966)年に播磨(兵庫県)に庵(いおり)を結び、移り住みました。これが圓教寺の始まりになります。性空上人に帰依した人としては、花山天皇(かざんてんのう)、具平親王(ともひらしんのう)や和泉式部らが特に知られています。
門弟も多く集まりましたが、性空上人は長保2(1000)年、圓教寺を離れ、山中に小さな庵を結びます。これが花山天皇(当時は花山法皇)の命によって伽藍が整えられ、弥勒寺となったので、ほぼ今の寺観になったのは、南北朝時代となります。
性空上人像は通常ならば正月三が日だけ公開されるようですが、特別に開扉いただけることになりました。お厨子が開かれると、全員から「ほう」との歓声が上がりました。彩色のせいもあってか、まるで生きておられるようなお姿でした。
「圓教寺にも性空上人像がありますが、あちらは無彩色、こちらは彩色との違いがあります。お口の形に特徴がありますが、『法華経をお唱えすぎて、唇がすり減った』との言い伝えからこのようなお姿になったとお聞きしています。

生前から『さまざまな霊験を表した』として、声望が高まるばかりで、圓教寺に会いに来られる方も増えました。
ある日花山法皇が絵師を連れて性空上人のもとを訪れました。その後絵師は性空上人のお姿を描いていると、地震が起きました。その揺れで筆先から性空上人の額に辺りに1滴の墨が落ちました。しかし後で見ると、墨のあとは、絵師が写し忘れた性空上人の額のほくろと同じ場所だったそうです。
性空上人には不思議な伝説が多く遺されています。不可思議な力をお持ちだったのかもしれませんね。私たちも小さい時からなくしものをしたら開山堂でお祈りすると見つかることが続いたことがあります(笑)」

日本最大の布袋像

最後に境内の一番奥にある、布袋尊をご案内いただきました。高さは約5メートル、重さは約130トンあって、日本一大きな布袋像だそうです。

「造立した時、まだ姫路市への合併前で、このあたりは夢前町でした。町おこしの一環として、『七福神の霊場を作る』との話が出て、うちもお誘いいただきました。布袋さんになったのには理由があります。七福神の中で唯一実在した人物で、『弥勒さんの化身』との伝説があるんです。
こんな大きさにしたのは、当時、住職だった先代の考えです。『うちのお寺はお堂は小さい、ご本尊も小さい。ひとつぐらい大きなものがあってもいいのではないか』といっていましたね。

像は中国国内で作られ、到着したのは平成6(1994)年12月でした。その1カ月後に阪神・淡路大震災が発生しました。際どいタイミングで、少しずれていたらと思うと、像もここにはなかったでしょう」

「実は、この布袋尊の評判はさまざまです。『厳かなお寺に似合わない』とあまり喜ばれない方もいます。一方で、本堂などは立ち寄らず、この布袋様だけを参拝し、『ご運の強い仏様にあやかりたい』として手を合わされせる方もいるようです。

仏教に対する信仰やお寺への接し方は、色々あっていいと思うんです。当寺を参拝される方でも、私たちお寺の者には声をかけずに静かに境内を回られる方もおられれば、必ず私の話を聞いて帰られる方もおられます。訪れられる頻度もさまざまです。『月に1度、定期的に』もあれば、『たまたま横を通りがかったので、車を止めてみた』もあります。自分なりにお寺に親しまれるのもすてきな信仰だと思います。みなさん、今日はお参りいただき、ありがとうございました」

参加学生の感想

彌勒寺では南北朝時代に建てられた本堂に衝撃を受けました。本堂としては小さめのお堂でしたが、これでもかと言わんばかりに当時の最新の装飾が施されており、どの部分もじっくり見ていたくなるような面白さがありました。特に内陣の天井は狭い空間の中で二重に折り上げ、さらに細かく格子を組んだ小組格天井としていて、ひとつひとつの木材が非常に繊細でその美しさに心を動かされました。
そんな本堂に祀られている弥勒三尊像も、現代の技術で平安時代の姿が復元されており、1000年の時を超えて、性空上人が晩年を過ごしたお寺で性空上人と同じ仏像を今も見ることのできることに感動しました。文化財を通して、性空上人との時を超えたつながりを感じられるお寺でした。【京都大学大学院学生】

彌勒寺で、弥勒三尊像の話はすごく勉強になりました。日本の文化財の修復には、日本人の魂にある真剣さを強く感じました。草別住職さんの貴重な名言と面白いエピソードが多くて、お寺の魅力と価値がすごく伝わってきました。さらに、住職さんの話から、弥勒寺は学者たちとのつながりを重視するお寺だと感じで、お寺は宗教以外もたくさんの価値があると思いました。おおきな布袋さんの前に立って新しいことに取り組まれる彌勒寺さんの姿勢に圧倒されました。作品展や老人ホームとの触れ合いなど、お寺運営の課題に直面して、積極的に取り組む姿勢に感激しました。
最後に、ご住職さんの奥様から美味しい柚子茶とおせんべいをいただきながら、立派なイチョウを見ていました。文化財もイチョウも、本当の価値のあるものになるのは、時間と努力の蓄積ではないかと感じました。【立命館大学 留学生】
通寶山彌勒寺
〒671-2116
兵庫県姫路市夢前町寺1051