400年を口伝で紡ぐ石積みの匠“穴太衆” 「人生死ぬまで修行」と語る粟田純徳さんを訪ねました。
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いろり端

探訪「1200年の魅力交流」

400年を口伝で紡ぐ石積みの匠“穴太衆”
「人生死ぬまで修行」と語る
粟田純徳さんを訪ねました。

「石の声が聴こえるようになったら一人前」
今も残る坂本らしい風景「石積み」は、一つ一つの石との真剣に向き合う歴代の匠のこだわりでした。

ー 穴太積みを継ごうと思った経緯を教えてください

私に穴太積みを教えてくれたのは祖父です。私が小さいころ、祖父は出張が多く、おもちゃとかも買ってもらえるのが嬉しくて、遊びに行く感覚で祖父によくついて行っていました。
祖父の仕事場は小屋のようなところで「伴場」といい、ここでは職人さん同士が一緒にご飯を食べたりして共同生活していました。私は小学校の頃からよくそこに行っていたのですが、職人さんたちがお酒を飲みながら面白おかしい話をしてくれる楽しさがありました。そんな環境の中で育ったので、この仕事をするのは当たり前というか、嫌とかの気持ちは全くなかったですね。当たり前に継いだ感じでした。中学を卒業する前に今後の進路を決めようとした時、祖父も年配となり教えられる期間が少なくなってきたと感じて、卒業してすぐに働くかを迷いました。父は反対しましたが、最終的には自分で継ぐことを決めました。

ー 石積みの仕事はどのように教えてもらったのでしょうか?

実は何も教えてくれませんでした。基本的に「見て盗め」が教えでしたから。いつも祖父から言われたことは「耳で聞いたことは3日で忘れるけれど、体で覚えたことは一生忘れない」という言葉でした。ただ、教えてくれない代わりに、よく怒られていました。孫だから優しく、ということは逆にできなかったのかもしれません。従業員の倍は怒られましたし、従業員のことで怒られることもありました。でも怒られることは当たり前だったんです。初めから何もかもできるわけもなく、それこそ挨拶から厳しく教えられました。仕事場では誰かに会ったら挨拶をする。こんにちはと言われて嫌な思いをする人がどこにいるんだ、みたいな感じでしたね。最初は礼儀作法から入って段々と仕事のことに対して怒られるようになりました。「道具を大事にしなさい」とかですね。とにかく最初は石を積ませてもらえないので、ひたすらお手伝い、という感じでしたね。

ー いつから石を触らせてもらえたのですか?

初めてから3年目くらいからですね。それでもいきなり積むのではなく、祖父の作った石積みの間に入れる石を探してくることから始まりました。自分が持ってきた石を黙って崩されたこともありましたが、何が駄目なのかを教えてもらえないので、そこは自分で考えなくてはなりません。結論は自分で出さなくては成長しない。祖父は、全部教えても良いけれどそれでは自分がいなくなった時にどうするんだ、とよく言っていました。

あと、「周りのことをよく観察せよ」ともよく言われました。周囲の人がどうしているか、そこで自分はどうしないといけないのか、言われてから行動するのではなく、次に何をするか、何が要るのかを常に考えること、その過程で経験したことが、やがて私が親方になった時の仕事を作り上げる「段取り」に繋がる、それが祖父の教えだったように思います。

ー 「石の声を聴く」とはどのような感覚なのですか?

石と石を重ねてみると、表面がお互いガタガタして重ねづらいですよね。ところがそれがぱっと置いた瞬間ぴったりとはまる瞬間があるんです。つまり、その石を選んだ瞬間、石が「ここにおいてくれ」と頼んだから持ってきたのだと感じる、そんなイメージです。祖父の石積みは、本当に石の声が聴こえているんじゃないかというくらいに石がぴったり合うんです。高いところから下にある石をみて、祖父は一瞬で判断し石を投げます。投げられた石を私が取りに行って積んでみるとびっくりするほどきちんとはまるのです。
気づけば祖父は、ご飯の時でも一人だけ早く食べ終わって、どこにどの石が合うのかをじっと眺めながら考えていました。きっとそうやって考えていると、そのうちに感覚が研ぎ澄まされて上から確実に石を置いていくことができるようになるんだと思わされました。自分たちは未だに、そこに達することはとても難しいと思っています。
「人生死ぬまで修行」というのはこういうことなんだなと思います。

石は自然のものですから同じものが二つとないので、その時々でどう合わせるかをしっかり考えますが、自分が思い描くものがそのまま出来上がることはまずないですね。その場所や石によって設計は変化させる必要があります。祖父は頭の中で図面が出来上がっていて、もうあとはそれを取りに行くだけといった感じでした。私たちはまだまだそこまですべての条件を把握しきれないので、全体を三分割した上でそれぞれの部分から考えたりもします。
このような力をどのようにつけていくかは経験値ですね。余計な石を余らせないために出来るだけ頭の中で設計を仕上げることが求められます。持ってきた石の余りがゼロに近づくよう経験を積み重ねているところです。

石積みのある風景は坂本の人にとってどのように感じていると思われますか?

坂本での石積みの風景は珍しいということもないし、だからみなさんは逆にありがたみも感じていないかもしれませんね。石積みの仕事をしている自分たちも、それがどれだけすごいかという感覚ではなく、まさに日常の風景になっていると思います。
最近は外からくる人の方が石積みのある風景には関心を持っているように感じていますが、坂本にいる人は、逆に石垣が田舎っぽさを醸し出していると思っている人もいて、違う風景を求めている人もいるかもしれません。私は、この風景の良さこそ年を重ねてみることで、ここにしかない風景の価値として見出していけるのではと思っています。

ー 穴太積みの伝承を担うべく人づくりはどのようにお考えですか?

やはり若い人の中で石積み自体に興味がある人が中々少ないのではないでしょうか。弊社の従業員は坂本が地元という人が多いです。みんな見慣れた景色を修復したいという思いがあったりするからかと思います。数年前の震災で、熊本城で明治以降に修復された近代の石積みは崩れましたが、400年前に積まれた穴太積みは原型を留めていたんです。そういうニュースを見て若い人から問い合わせもありましたが、一過性の話題にしかなりませんでした。やはりこういった伝統技術への興味に導くのは難しいですね。
そしてこの仕事は何をもって一人前と言うか、これも非常に難しいところです。今ここで新たに石積みを作っても、これが400年続くのかどうかなんて誰にもわからない。そういう意味では祖父の石積みは100年近く崩れずにいるのですから、本当の意味で一流だったのだと思います。

私が日々意識していることは「第三者の目となって考える」ということです。職人の世界はつい目の前の一か所に目がとられてしまい、視野が狭くなりがちです。しかし普通の人はもっと広く物事を見ている気がします。それと同じように、石垣のバランスを俯瞰的に見てみる。大小の石のバランスをとるためには、一旦離れて見ることも大切かもしれません。
今の時代は機械できちんと直線を作れますが、人間の目には面白いことに直線が続けば続くほどそれが真っすぐに見えないんです。だから私たちは機械的な目よりも人間の目で見た方を大切にしています。実はお城の周りも曲線で作られているのですが、あれで真っすぐに見えているのです。つまり真っすぐに見えるものは必ずしも真っすぐではないことがあるのです。
こういったこだわりは、長い年月による伝統ですからしっかりと伝えていきたいと思っていますが、実は石積みは仕上げ方に個性が出ます。祖父や父や私、三者三様で仕上げ方は異なります。親子であってもお互いがプライドを持ってこの仕事に取り組んでいるからこそ、やはり「死ぬまで修行」ということでしょうね。

少しでもふれてみる、想いを馳せることが歴史とこれからを繋ぐ。

「父と自分とでお互いにプライドがある」と仰っていた表情は職人そのものでした。続けていくにも、やみくもに若者を入れるのではなく深い価値を分かって、それを守っていきたいと思う人と仕事をしたいという気持ちが伝わってきました。石の声、それが聴こえれば一人前。しかしそれを極めるまでに人間的にまず何が必要か考え、挑戦してきた粟田さんだからこそ、その言葉の持つ重みはとても大きなものでした。同時に、一点に集中してのめり込むよりも、第三者の目になって考えてみるという視点も忘れない。その教えは、私たち大学コラボの活動や他のあらゆることにも通じるものがありました。少しでも思いを馳せてみたり、ファンになってもらったりするには、客観的に自分たちがやっていることを見てみて、どうしたら素敵なところを感じ取ってもらえるのかを一生懸命考えよう、そんな気にさせてくださいました。坂本に足を運ばれる人には、このような伝統と人々の思いが溢れる町全体の空気を感じてほしいと思いました!粟田さん、ありがとうございました!
【この記事を書いた人】
立命館大学4回生:規矩琴香さん
立命館大学4回生:児玉邦宏さん
同志社大学4回生:永原康貴さん