二尊の観音さまを祀る「文保寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

二尊の観音さまを祀る「文保寺」を訪ねる

2023年11月11日 訪問
魅力ある歴史と美しい紅葉が魅力的な丹波篠山もみじ三山。そのうちの一山、松尾山文保寺(しょうびさんぶんぽうじ)です。私たちが訪問した際には本堂横の大銀杏も黄色く染まり、秋の穏やかな空気が流れる境内を、廣田実光ご住職にご案内いただきました。
まずは本堂内にて、文保寺が歩んできた歴史について教えていただきました。

「文保寺の歴史は、飛鳥時代の645年にまで遡ります。645年といえば、日本史でいうと大化の改新の年に当たりますね。創建に関わったのが、山陽地域を中心にいくつもの寺院を創建したという伝説を持つ法道仙人です。法道仙人は松尾山にあった大きな岩の上で自ら聖観音を刻み、安置するお堂を建てるべき場所を探していました。法道仙人は時の帝、孝徳天皇に相談し、自分の力をもってすれば寺を建てるのは容易いことだけれども、この観音は天皇の体を守護するものであるので、天皇自身に寺を建立するようにと勧めました。そうして創建されたのが、現在の文保寺の前身となる寺院、聖備山長流寺(しょうびさんちょうりゅうじ)です。現在の山号『松尾山』を『まつおさん』と読まず、『しょうびさん』と読むのは、この時の山号に由来しています。

しかし創建から300年ほど経った平安時代の947年、東では平将門が、西では藤原純友が兵乱を起こした承平・天慶の乱の煽りを受けて、全山焼失してしまいます。この時、仙人が飛んできて、燃え盛る寺の中に鉄鉢を投げたところ、鉢が聖観音さまを回収して戻ってきましたが、仙人は聖観音さまを肩に載せて南の方へ飛んでいってしまいました。
それから300年ほど経った鎌倉時代のこと、時の帝、花園天皇の夢枕に仙人が現れて、京都からみて西の方角に、昔は栄えていたが荒廃してしまっていたお寺があるから、そこを再建するようにとのお告げがあり、勅使が派遣されて寺が復興されることになりました。その際、比叡山延暦寺の横川から慈覚大師円仁作の千手観音像が御本尊として迎えられ、宝鏡院宮一品親王から、当時の年号をとって『文保寺』という自筆の勅額も下され、文保寺と名前を改めて再スタートを果たしました。

再興からしばらくして、文保寺の南方にある本庄という集落の山中で、旧本尊の聖観音さまが村人によって祀られているということがわかりました。聖観音さまは文保寺にお帰りいただくこととなり、法道仙人の聖観音と、慈覚大師の千手観音、二尊の観音さまを御本尊としてお祀りするようになりました。
戦国時代の天正年間、明智光秀の丹波攻めで兵火に巻き込まれ、再び全山焼失してしまいますが、江戸時代中期に再び復興されました。全盛期には21あった子院は江戸初期には6つになり、現在は真如院、大勝院、観明院の3つの子院にそれぞれ住職がおり、交代で文保寺の住職を務めています。」


文保寺の歴史について学んだ後は、本堂についてご案内いただきました。
「現在の本堂は江戸時代中期の建築です。中央のお厨子には、秘仏の御本尊、聖観音像と千手観音像がお祀りされています。」
お厨子の両脇には不動明王像・毘沙門天像が安置されていました。観音さまの脇侍に不動明王・毘沙門天を安置する形式は比叡山の横川中堂と同じ形式で、復興時以来の比叡山とのつながりの深さを感じさせます。
「本堂の内外に施された彫刻がこのお堂の特徴です。これらの彫刻は、丹波を中心に江戸後期に活躍した六代目中井権次橘正貞によるものです。今も中井家の末裔の方が京都にいらっしゃって、近年、そこに残された史料から本堂の彫刻の下絵が見つかっています。六代目中井権次は竜の彫刻を得意としていて、向拝部分にも見事な竜の彫刻が残されています。」
鶴や亀、獅子などの動物や、中国の故事に題材を取った彫刻があちらこちらに施されていて、学生たちはみんな興味津々です。

本堂の前には鐘楼がありました。
「この鐘は人を傷つけなかった鐘です。というのも、戦争の時に金属供出で持って行かれたのですが、兵器になることなく帰ってきました。金属検査のために開けられた穴が鐘にのこっています。」

境内の入口にあたる仁王門についてもご案内いただきました。

「仁王門はもともと1385年に、鎌倉の建長寺の山門に倣って建立されたものでしたが、明智光秀の丹波攻めの時に焼けてしまいました。現在の建物はその後すぐ、天正年間の終わりごろに建てられたものであると考えられています。」
仁王門は丹波篠山市内最大級の建造物として、市指定の文化財となっています。
「仁王門の中には、金剛力士像も安置されています。このお像、かつては仁王門と同じく天正年間か、もしくはもう少し後の江戸時代初期のものであると考えられていたそうです。しかし、近年の解体修理の結果、驚くべき発見がありました。仁王さんの修理を行なったところ、足の部分から永和四年(1378)と刻まれた墨書が発見されたのです。」

力強く迫力のある仁王像、400年前からと思いきや、実は600年以上前から文保寺を見守っていたのですね。この仁王像も修理が行われた2018年、市指定の文化財となっています。

最後に廣田ご住職の自坊である大勝院の御本尊、十一面観音像をお参りさせていただきました。

「大勝院の本尊がこの十一面観音像です。平安時代後期に作られたものと推定されていて、市指定文化財になっています。他の子院では阿弥陀如来を御本尊としていますが、大勝院だけが観音さまを御本尊としてお祀りしています。」
 
子院に平安時代の立派なお像が残っていることには驚きです。かつては21もの子院があったという文保寺、当時の栄華を想像させてくれるような観音像でした。

訪問を終えて

文保寺は焼失と復興を繰り返した歴史の中で、御本尊が二尊になったり、寺号が変わったりと、興味深い変遷を辿ってきたお寺だと思います。その時々の人々の努力の結晶が、それぞれの文化財を通して見えてきたような気がします。
紅葉をきっかけに近年参拝者も増えてきたという文保寺、境内にはそれぞれの季節に花を咲かす植物もたくさん植えられていて、紅葉の時期以外にもまた参拝してみたくなりました。

(文・京都大学大学院2回生)
松尾山文保寺
〒669-2222
兵庫県篠山市味間南1097