いろり端
探訪「1200年の魅力交流」
建物・仏像の修理とは ―湖南三山 善水寺 ご住職との語らい―
大きな覆いに囲まれた建物。修理工房へお移りになった仏様。
少しばかりの寂しさとともに、「修理が終わったら、また訪れたいな。」とお参りする方々も多いと思います。
どのような修理が覆いや工房の中で行われているのか、どのような職人さんがどのような技術で修理を行っているのか、どのような点が大変なのか。
修理の実際について皆さんはご存知でしょうか。
2026年、湖南三山善水寺の国宝・本堂の屋根の葺き替え修理が完了しました。前回の修理からは約50年ぶりとなる一大修理を終えた善水寺を学生たちが訪れ、「修理」や「お寺を伝えること」について、ご住職を務める梅中堯弘師とざっくばらんに語らいました。
◆多くの人々の支えにより激動の歴史を潜り抜けてきた国宝・本堂
日差しを受け、光り輝く檜皮葺の本堂の屋根の美しさに、学生たちは息をのみます。

本堂《国宝/貞治5年(1366)再建》

「本堂は、天台密教仏堂と呼ばれる様式です。特徴としては、私たちがいる外陣から奥に向かって内陣、後堂と分かれています。外陣は礼堂、つまり礼拝修行を行う場であり、内陣は正堂、密教修法を行う場です。後堂を含め、役割に応じて手前から奥にお堂が3棟並んでいる構造であるといえば分かりやすいでしょうか。」
「それぞれの役割をふまえると、本堂の内部はお坊さんたちの修行の場であることが分かると思います。この建物が再建された当時は、中に入ることができたのは修行を行うお坊さんだけ。現在のように、在家の方々が入ることはできなかったそうです。外陣や内陣には広い空間が広がっていますから、当時たくさんのお坊さんが善水寺で修行に励んでいたことが分かると思います。」

「そしてそれぞれにお弟子さんが何人かいらっしゃったはずですから、善水寺全体で数十人から百人規模のお坊さんがこの場所で修行に励んでいたのだと思います。麓から善水寺まで続く参道を登ると、周囲に平たく整地された場所をいくつか見ることができます。これらが、お坊さんが暮らした僧房の跡地になります。」

「例えば、戦国時代の元亀2年(1571)、織田信長により比叡山が焼討ちされますが、そのすぐ3日後に善水寺も焼討ちされました。その際、この本堂と麓の仁王門、善水寺をお守りする神々をおまつりしたお宮さん、三重塔の4棟を残し、それ以外の僧房やお坊さんたちは全て排除されてしまいました。」
「なぜ本堂が残ったのかを考えると、たまたま残ったというより、火をかけなかったとする見方が自然でしょう。おそらく、善水寺を焼討ちした軍勢の目的は「善水寺のお坊さんたち」という集団を排除することが目的であり、建物や仏様を燃やし尽くすということではなかったのだと思います。」
「この時のものであるかは不明ですが、この本堂の柱には刀傷がいくつか残っています。以上のことを考えると、善水寺を攻撃した軍勢は、しっかりとした目的を持ち、かなり統制のとれた軍勢だったのだと思います。」

「しかしながら、このような厳しい状態に直面しても、善水寺の建物や仏様が失われることなく今日まで守り伝えられてきました。これは地域の方々や信徒の方々が、いつの時代もお守りくださったためであると思います。多くの方々の尽力があったからこそ、善水寺の建物や仏様は伝えられています。」
◆本堂を守り伝える -修理の歩み-


「この全解体修理の後は、屋根の葺き替え修理が何回か行われてきました。本堂の屋根は、檜皮葺(ひわだぶき)という手法で葺かれています。檜皮葺とは、ヒノキの皮を少しずつずらしながら重ねて葺く手法で、現在ではお寺や神社の建物に施されることが多い技術です。」
「国宝等の文化財指定の有無に限らず、滋賀県には檜皮葺の建物が数多く伝えられていますから、滋賀県、近江国では檜皮葺に必要なヒノキは身近な樹木であり、多くの職人さんがいらっしゃったということですね。」

「修理からしばらく経ち檜皮が傷んでくると雨漏りがひどく、その雨漏りの影響で野地板や垂木などの傷みも進んでしまいました。」
「この点をふまえて実施された修理が、昭和48年度から昭和50年春にかけて行われた屋根の葺き替え修理です。この修理が、今回終了した修理の前回の修理にあたります。」
「屋根の葺き替えや傷んだ部材の交換などが行われたこの昭和の葺き替え修理までは、今のように本堂近くまで車両が通行できる車道は通っていませんでしたから、若い衆が大量の檜皮や木材を担ぎ、麓から参道を登り運んでいたそうです。」
◆今回の修理 -約50年ぶりの屋根の葺き替えと柱の根継ぎ-


「この応急処置を施してから、7年から8年ほど修理ができるまで待ち、令和5年に耐震診断、令和6年の10月9日から屋根の葺き替え修理が始まり、足場の解体などを含め令和8年3月に完了、建物の周囲を整える工事も令和8年5月頃に完了しました。」
「令和5年度に実施した耐震診断では、現状に耐震補強を追加する必要はないとの結果でした。」
「本堂を建立する際、先人たちは地形や地盤などを見ながら、建物を建てるにふさわしい場所を探し、切り拓き、建物を建立したのだと思います。今回の耐震診断の結果は、先人たちの技術力の凄さを再確認する機会となりました。」
ご住職が示す柱をじっくり見ると、うっすらと柱に継ぎ目が確認できました。

根継ぎが行われた柱

「柱に小さな穴が開いていることを発見し、詳しく調べてもらうと、えらいことになっていたというわけです。」
「柱を継ぐということですから、もともとの柱と同じ直径50センチメートルの木材を見つける必要があります。一見すると、この柱の太さと同じ大きさの木材はあるように思えますが、柱として使用するためには、乾燥させ、木の表面に近い「白太(しらた)」と呼ばれる部分を削り、木の中心に近い「赤身」と呼ばれる部分が直径50センチメートルの大きさとなる木材が必要となります。」
「今回、条件とぴったり合う、おあつらえ向きの素晴らしい赤マツの木材が見つかりました。この凄い木材が見つかったからこそ、今回の根継ぎを行うことができました。」

「そして、新しい部材を組み込むのですが、本堂は古い建物ですから柱の根元の礎石は自然石です。この自然石の凹凸と新しい部材が組み込むように、「ひかり付け」という手法で職人さんが加工します。また、周囲の床板なども全て取り外して作業を行いますから、それらも元の姿の通りに補修していただきました。現場での作業は2週間から3週間ほどで完了しました。」
「屋根の葺き替えや根継ぎの技術を見ますと、職人さんの技術力は本当に凄いなと、感心しきりです。一方で、このような技術が伝承されていかないと、今回のような修理が行えなくなるのではないかという危機感も改めて感じました。」
「先ほど、屋根の葺き替えの時期が伸びていたことをお伝えしましたが、これは善水寺に限ったことではなく、全国の寺社が直面している課題です。修理の間隔が伸びていくということは、建物が傷むということに加えて、職人さんたちが実際に手を動かす機会が伸びてしまうということです。ですから、この点は技術伝承という側面から見ても課題であると思います。」
「全国的に、ありとあらゆる職人さんが激減中だそうです。文化財の分野だけではなく、一般の私たちの生活する部分でも、今後何かしらの影響が出てくるのかもしれません。」
◆早急な修理が必要な十二神将様

木造十二神将立像《湖南市指定文化財》
「こちらは薬師如来様をお守りしている十二神将様です。寄木造のお像で、鎌倉時代に造立されたお像です。湖南市の文化財に指定されています。」

「現在3体ずつ1つの台座にお立ちになっていますが、こちらの台座は建物の梁などを転用しているものです。ですから、不安定な部分もあり、大きな地震などが発生した場合には倒れてしまう可能性があります。」
「こちらの十二神将様が最後に修理されたのは、おそらく江戸時代頃ではないかと思います。その後、現在に至るまでにお像表面の彩色が補われたのだと思います。」
歴史と文化の伝承の最前線におられるご住職から、伝承の最前線の現実を伺い、伝承される文化と技術の魅力と伝承の難しさ・厳しさを体感した学生たち。
本堂から庫裏へ場所を移し、さらに深くご住職と語らいました。

◆修理を実現する ー技術の凄さと難しさー

麓に流れる野洲川と対岸の湖南アルプスの雄大な景色を臨みながら、ご住職へ学生たちが質問を重ねました。
―屋根の葺き替えに従事された職人さんは、日々どのようなお仕事をされているのでしょうか?
「屋根の葺き替えの職人さんにお聞きすると、現場での仕事は全体の3割だそうです。つまり、現場以外でのお仕事が7割もあるということですね。例えば、職人さんが屋根を葺き替えするためには、檜皮が必要ですよね。実は、この檜皮を調達することも職人さんたちのお仕事なのだそうです。昔は檜皮を調達する専門の職人さんがいらっしゃったそうなのですが、現在は屋根を葺く職人さんたち自ら行っているそうです。」

「ですから、質の良い檜皮を調達できるように、職人さんたちは先を見据えて、山を巡り、山主さんから山を借り、山やヒノキを管理しているそうです。」
「また、調達した檜皮も現場によって求められる大きさや長さも異なりますから、その準備なども日々のお仕事であると聞いています。」
「ちなみに、檜皮屋根の葺き替えの際に、竹釘を用いて檜皮を固定します。この竹釘も、現場や用途によって八分~一寸五分までのような様々な大きさの竹釘を使い分けるそうなのですが、現在製造しているのは、兵庫県にある1社のみなのだそうです。」
―修理を行う上で、どのような点に難しさがあるのでしょうか?

「善水寺は祈願寺ですから檀家さんはおらず、現在は4つの集落の村役の方々である信徒総代さんたちを中心に、地域の方々にお寺や行事のお手伝いをしていただいています。今回の本堂修理の際にもご支援をいただきました。」

「その一方で、日々の法務や境内の維持などに加えてクラウドファンディングの実務を少ない人数で行うことの難しさも直面いたしました。」
「先ほどもお伝えしたように、次の修理は十二神将様になります。今回の本堂修理での経験をふまえながら、どのように修理を進めていくか、どのように修理費用の目途を立たせるかなど、模索を続けているところです。」
「修理」という言葉にある重みと「修理」の実現に向けて動く方々の姿に圧倒される学生たち。
今回の本堂の修理で交換された部材の実物を見て手に取り、ご住職と語らうことで、「修理」を実現する技術の凄さと難しさを肌で感じることができました。
◆お寺を守り伝えるということ
ご住職と学生たちのざっくばらんな語らいは続きます。
-善水寺のご住職として、一番のこだわりは何でしょうか?

ご住職のお言葉に、学生たちから感嘆の声が漏れます。
-お坊さんになろうと思ったきっかけはありますか?
「難しい質問ですね(笑)。祖父がお寺の住職をしていて、お寺が身近であったことが一番の理由だと思います。余談ですが、私が生まれた時、袈裟懸けといってへその緒を首に巻いて生まれたと母から聞いたことがあります。袈裟懸けで生まれた赤ん坊は、将来お坊さんになると言われていましたから、母の膝の上で『将来はお坊さんになるんだよ』と刷り込まれたのかもしれませんね(笑)。」
ご住職のユーモアを交えたお話に、学生たちの眼差しも輝きます。
続いて、ご住職とともに境内を巡って気になった点について、学生たちから質問がありました。
―本堂の各所にタブレットと音声ガイドの機械が設置してあったのですが、どのような取り組みなのでしょうか?

「海外からお越しになった方々にも善水寺を知っていただく機会が増えましたし、画面に文字が表示されますから、音声が聞こえにくい方々にも分かりやすいとのことでした。お参りの方々からご好評ですから、導入して良かったと思っています。」
―本堂にピアノがあったのですが、法要などで使用されることもあるのでしょうか?

「ちなみに、あのピアノはかなり重量があって一人では動かすことができません。使用するときだけピアノを本堂へ移動できればいいのですが、とてもたいへんなので、本堂へ移してからそのままになっています(笑)。」
―仏様の前にゼリーがお供えされていたのですが、何か意味があるのでしょうか?
「あちらは御供物(おくもつ)といいます。ご存知のようにお供えものですね。善水寺では、普段はリンゴやミカンのような果物を仏様にお供えしているのですが、夏場に適した果物がなかなかないですから、代わりにゼリーをお供えしています。もちろんスイカやメロンなどございますが、毎日お供えすることは難しいですからね。」
ご住職と学生たちとの穏やかな語らいの時間も終わりに近づいてきました。
最後にこれからのお寺の在り方、お寺を伝えていくということについてご住職からお話がありました。

「このような状況のもと、お寺を伝えていく上で鍵となるのは住職であると思います。お寺を支えるお参りの方々や檀家の方々、地域の方々が「お参りして良かった。このお寺で良かった。」と思ってくださるのであれば、皆でお寺を繋いでいくことができるでしょうし、そうでなければ難しい部分も出てくるのだと思います。」
「善水寺が、お参りの方々や地域の方々にとって「お参りして良かった。このお寺で良かった。」というお寺であり続けるように精進していきたいと思います。」
◆ご住職との語らいを終えて -参加学生の感想-

中でも特に印象に残っているのは、大屋根の修理に関するお話です。行政からの補助がある場合もあるとのことでしたが、長年の風雨による劣化や、シロアリ被害によって腐食した柱を実際に差し替えなければならなかったことなど、寺院を維持していくためには多くのご苦労があることを知りました。こうしたお話は、実際に御住職様から直接伺わなければ理解することのできない貴重な内容であり、大変勉強になりました。
今回の見学を通して、寺院や文化財を守り続けることの大切さを改めて実感いたしました。
立命館大学 大学院 修士1年
本堂外陣にてご住職から寺院の歴史や仏教に関するお話を伺いました。専門的な内容も多く、その場では十分に理解できなかった部分もありましたが、内陣に入り、実際に仏像を拝観したことで、お話の内容を改めて考える機会となりました。目の前に広がる仏像群は圧巻であり、その歴史的背景や当時の人々の思いにまで思いを巡らせることができました。
特に仏像の胎内からお籾が発見されたというお話が強く印象に残っております。その際、私の脳裏には「誰知盤中餐 粒粒皆辛苦 」という漢詩の一節が浮かびました。これは中国・唐代の詩人である李紳の『憫農』にある言葉で、「茶碗の中の一粒一粒にも農民の苦労が込められていることを誰が知っているだろうか」という意味です。ご住職がお話くださった「お米一粒一粒皆仏である」という信仰とは表現こそ異なりますが、食べ物や命への感謝の心を後世へ伝えようとする点において、共通するものがあるのではないかと感じました。そのためか、当日いただいたお弁当も、いつも以上にありがたくおいしく味わうことができました。
またこの漢詩は、一つの物事を成し遂げるために地道な努力を積み重ねることの大切さを表す言葉としても用いられています。1200年もの歴史を持つ国宝を後世へ伝えていくためには、多大な労力や財力が必要であるとご住職はお話しくださいました。今回の訪問を通じて、文化財そのものの価値だけでなく、それを守り伝える人々の絶え間ない努力にも目を向けることの大切さを学ぶことができました。
龍谷大学 大学院 修士2年
人から人へと紡がれてきた
大切な想いや魅力について語り合う
地域で育まれてきた歴史や文化を語り合い、
新しい価値と出会います
