太平洋と人々の営みを見守る十一面観音菩薩様の霊地「観明寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

太平洋と人々の営みを見守る十一面観音菩薩様の霊地「観明寺」を訪ねる

房総半島の東部に位置する一宮町は、古代より人々の営みが紡がれている歴史あるまち。
そのような一宮町の中心部に、奈良時代に創建された千葉県屈指の古刹・観明寺(かんみょうじ)が伽藍を構えています。

平安時代の中頃より、上総国の一宮として信仰を集める玉前神社の別当職を務めていたと伝えられている観明寺。
その境内には、神仏習合の歴史と祈りが大切に伝承されています。
春らしさが感じられる2月中旬の観明寺を訪れ、住職を務める細野舜海師に観明寺の魅力をご案内いただきました。

◆一宮町最古の建物・四脚門をくぐり、観明寺の悠久の歴史へ歩みを進める

穏やかな朝の陽ざしに春の訪れを感じながら観明寺へ進む学生たち。
そんな学生たちを観明寺の御住職を務める細野師が迎えます。

「ようこそ観明寺へお参りいただきました。少し暖かくなって春らしくなってきましたね。境内の早咲きの桜も見ごろとなってきました。綺麗ですので後ほどご案内いたしましょう。」

観明寺の境内に育まれる穏やかな空気の中で、細野師と学生たちの語らいは始まります。

「私たちが今いる場所は、観明寺の入口になります。こちらに大きな門がありますね。こちらは四脚門といいまして江戸時代の初めころの建物であると伝えられています。この四脚門は現在の観明寺で一番古く、さらに一宮町でも最古の建物であると考えられています。」

四脚門《一宮町指定有形文化財》

四脚門蟇股《手前:沢瀉紋、奥:卍紋》

「こちらの四脚門は、もともと茅葺の建物で、現在より玉前神社に近い場所に建てられていました。実は、現在の場所に移築される前の四脚門は、石垣の上に建っていました。これは門の高さをかさ上げすることで、参拝者の方々だけでなく車も通ることができるようにするためでした。」

「門に近づいてよく見てみると、横方向の木材の上に彫刻が刻まれている部分がありますね。こちらを蟇股(かえるまた)というそうです。カエルが足を広げた姿と似ていることから“かえるまた”と呼ばれていて、通常様々な彫刻が施されるそうです。」

「観明寺の四脚門にある蟇股のうち正面にあるものを見てみると、三角形のような葉を持つ植物が彫刻されていますね。こちらの植物を沢瀉(おもだか)と言い、水辺に育つ植物とのことです。この沢瀉の紋様は一宮町周辺を支配していたという領主・堀氏の家紋とのことです。おそらくですが、この四脚門は堀氏のどなたかが寄進した建物であると考えられています。」
「また、裏側の蟇股の表裏を見てみると“卍”と“巴紋”が彫刻されています。実はこの蟇股に観明寺の歴史が深く秘められています。“卍”という文字を見た時、皆さんは“お寺”や“仏教”を連想しますね。それでは、“巴紋”からはどのようなことが連想されるでしょうか。この“巴紋”、近くの玉前神社の御神紋の一つであるそうです。ですから、こちらの“巴紋”は神社のことを表していると考えられています。」

「仏教の“卍”と神道の“巴紋”が表裏に彫刻されている蟇股。まさに神仏習合ですね。この蟇股が表しているように、観明寺には古来より神仏習合の祈りが育まれてきました。」

◆天平6年(734)、十一面観音様の霊地として創建される

本堂《昭和43年(1968)再建》

細野師とともに参道を進むと、軒先が青空に大きく反る堂々たる建物が見えてきました。

「こちらが観明寺の本堂になります。昭和43年(1968)に鉄筋コンクリートで再建された建物です。」

「もともとの本堂は江戸時代に建立された茅葺の建物でした。江戸時代の宝永6年(1709)、観明寺の第三十世住職俊栄が六十萬人講を組織して本堂の造営を始め、その後の享保3年(1718)、第三十二世住職智海の代に海岸に漂着した木材を用いて完成した大きな建物であったと伝えられています。その大きさは九間四面であったとのこと。残念ながら写真などは残っていないのですが、現在の本堂よりも一回り大きな建物であったと伝えられています。」

「そのような旧本堂でしたが、残念ながら太平洋戦争の際に解体されてしまいました。これは、旧本堂のような大きな建物は海からの艦砲射撃の標的となり得るからでした。その後、戦争が終わってから約20年後の昭和43年に現在の本堂が再建されることになりました。」

「本堂再建に向けて準備を進めていたとき、近隣の小学校が火事になってしまったそうです。当時の人々は「木造の建物ではいつか燃えてしまう」と考えたそうで、防火の願いを込めて鉄筋コンクリートを用いて再建されたそうです。」
「それでは本堂の中へ参りましょう。」

細野師とともに堂内に入る学生たち。
日の光が差し込む本堂内には広々とした開放的な空間が広がり、清らかな雰囲気に満ちていました。
手前:御本尊・木造十一面観音菩薩立像《平安時代造立/一宮町指定有形文化財》、奥:御本尊・木造十一面観音菩薩立像《江戸時代造立》

「奈良時代の天平6年(734)、行基菩薩により観明寺は創建されたと伝えられています。その際に御本尊として十一面観音菩薩様をおまつりしたといいます。その後、平安時代に慈覚大師が当地を訪れて、天台宗のお寺として中興されたと伝えられています。」

「本堂の中央をご覧いただくと、前後に仏様がおまつりされていることが分かりますね。この2体の仏様はどちらも十一面観音菩薩様でして、どちらも観明寺の御本尊様になります。実はもともと3体の十一面観音菩薩様が横並びにおまつりされていて、3体の十一面観音菩薩様が御本尊としておまつりされていたと伝えられています。」

「手前の十一面観音菩薩様は平安時代に造立された仏様です。一木造なので、大きさ以上にずっしりと重みのある仏様です。後ろにおまつりされている十一面観音菩薩様は江戸時代に造立された仏様です。」

「観明寺のように複数体の十一面観音菩薩様が御本尊としておまつりされているお寺は珍しいと思います。なぜ複数の十一面観音菩薩様がおまつりされているのかと考えた時に参考になる考え方が、先ほどお話しした神仏習合の祈りになります。」

「平安時代の中頃あたりから明治時代にいたるまで約1000年間、観明寺は玉崎神社(現在の玉前神社、江戸時代の終わり頃に現在の「玉前」に改称)の別当職に就いていました。別当職というのは、日々の神社の維持・管理を行う役職のことです。ですから江戸時代までは玉崎神社と観明寺は一体の存在として親しまれており、祭礼や行事の際、神前での読経などが執り行われていたようです。また、観明寺の山号は「玉崎山(たまさきざん)」といいますが、これは江戸時代以前の観明寺と玉崎神社との関係性を伝えている痕跡になります。」

「玉崎神社の御祭神は玉依姫命(たまよりひめのみこと)という神様です。「八百万の神々は、仏や菩薩が衆生を救うためにあらわれた仮の姿である」という本地垂迹説という考え方が平安時代頃に流行したといいますが、その考え方では玉依姫命の本地仏は十一面観音菩薩様とされています。ですから、観明寺には御本尊様をはじめとする様々な十一面観音菩薩様が伝えられ、おまつりされています。」
【非公開】かつて本地堂でおまつりされていた秘仏

「御本尊様のお隣を注意深くご覧いただくと、御簾の内におまつりされている仏様がいらっしゃることがお分かりになるかと思います。こちらの仏様はもともと観明寺に存在していた本地堂の厨子の内部に秘仏としておまつりされていた仏様でした。おまつりされていた本地堂という建物の名前から、おそらくこちらの仏様も玉依姫命と関係のある仏様で十一面観音様であるのだと思います。」

「観明寺に伝えられているところによると、お姿を直接目にすると目がつぶれてしまうという伝承が残る仏様ですので、直接お姿を目にできないように御簾の内に秘仏としておまつりをしています。」

「さらに、こちらの仏様のお前立として十一面観音菩薩様がおまつりされていました。こちらのお前立の十一面観音菩薩様は珍しいお姿をされていることが特徴で千葉県の文化財に指定されています。通常は公開していないのですが、後ほど特別にお参りいただければと思います。」

様々な時代に造立された、様々なお姿の十一面観音菩薩様がおまつりされている観明寺。
この観明寺の十一面観音菩薩様の多様さは、古代より育まれてきた十一面観音様に対する信仰の幅広さ、そして観明寺の十一面観音菩薩様を拠り所とする先人たちの価値観や考え方の多様さを表しているようでした。

◆仏教で説かれる6つの世界の様子を表す迫力ある欄間

「続いて上を見上げてみてください。」

細野師のご案内に従い、本堂の天井近くへ目線を上げると、極彩色が施された大きな欄間彫刻が目に飛び込んできました。

地獄極楽欄間《伝井上円徹作/一宮町指定有形文化財》

「こちらの欄間は、地獄極楽欄間と呼ばれています。手掛けたのは江戸時代の房総半島で活躍されたという井上円徹と言われていますが、江戸時代に活躍した名工・島村円徹によるとも言われています。」

「地獄極楽欄間は、江戸時代に建立された旧本堂を飾っていた欄間でして、仏教で説かれている6つの世界(天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)の様子が表現されています。現在は、3つの欄間を横並びで配置していますが、旧本堂では、内陣を囲むように、正面に一面・左右に一面ずつのコの字型で配置されていたようです。」

「向かって左側の場面には、閻魔大王を中心に様々な鬼や獄卒が表され、赤々と燃え盛る火焔の内には責め苦に苦しむ亡者たちの痛々しい姿があります。一方、向かって右側の場面には、真っ白なお身体に金色の衣を身にまとい、幼くして亡くなった赤子たちを救うお地蔵さまのお姿があります。中央の場面には、お酒や食事を楽しむ人間もしくは天人たちの和気あいあいとしたお姿がありますね。恐ろしさだけでなく親しみやすさも感じる点が魅力です。」

「先人たちが生きた時代、難しい文章で記されている仏教の教えや考え方を一般の人々が理解することは難しかったと思います。そのような中で、説かれている内容をこのように図として表すと、小さなお子さんでも働き盛りの方でも老齢の方でも「こんなことをしてはいけない」と誰でも理解することができたと思います。お参りの皆様にはこの迫力ある欄間を楽しんでご覧いただきながら、欄間に秘められている考え方や仏教の教えにも親しんでいただけたらと考えています。」

◆様々な信仰を伝える観明寺の諸堂

本堂の近くに建つ経堂。
早咲きの桜の花々に囲まれる経堂のまわりには、まるで仏様の世界かのような美しい光景が広がっています。
中央:石造釈迦如来立像、奥:太東崎まで続くと言う伝承が残る井戸の赤い井桁

「こちらは経堂とよばれている建物になります。江戸時代の寛文6年(1667)に建立されましたが、近年老朽化が激しく一宮町在住の遠藤満津夫氏の発願により平成5年に改築された三間四面の建物で、堂内中央には石造の釈迦如来様をおまつりしています。かつては、「経堂」という名前のように、お経を納めていたと伝えられていますが、現在は納めていません。」

「少し見えにくいと思いますが、堂内右奥をご覧ください。地面に近い部分に朱色に塗られた四角形の構造がありますね。あちらは井戸の井桁で、井桁から地面を覗くと井戸があります。」

「かつて、お参りの方々は経文を刷った紙をこの井戸に入れて祈願をしていたと伝えられています。また、伝承では、地中奥底を通り、観明寺から約2 kmの距離にある太東崎へ通じていると言われています。観明寺独特の珍しい信仰だと思います。」

【非公開】涅槃図《伝狩野守景筆/一宮町指定有形文化財》※文化財保護のため原本は公開しておりません。

「また、左側には観明寺に伝えられている涅槃図の複製を展示しています。この涅槃図は、天文3年(1535)、近隣にある万喜城の城主が絵師である狩野守景に描かせたものであると伝えられている涅槃図です。現在は、文化財の保護のために公開はしていないのですが、かつては、毎年3月15日に執り行われていた経堂祭で一般の方々に向けて公開していました。」
涅槃図に描かれている「猫」

「横たわる釈迦如来様の周りをよく見てみると、様々な弟子たちや動物たちが描かれています。実はこの涅槃図には通常の涅槃図にはあまり描かれないある身近な動物が描かれている点が特徴です。さて、その動物はどのような動物でしょうか?」

「正解は猫になります。観明寺の涅槃図には、右下に描かれていると思います。猫が涅槃図に描かれることが珍しい理由は様々な説が伝えられていますが、一説には体調を崩されたお釈迦さまに薬を届けようとする鼠を猫が邪魔したためとも言われています。このような逸話や伝承が涅槃図には様々伝えられています。涅槃図に描かれている弟子たちの表情や動物たちの姿から逸話や伝承を探っていくと興味深いと思います。」
細野師とともに境内を巡る学生たち。
経堂に続いて訪れた建物は、鮮やかな朱色と屋根の深い反りが特徴的な金毘羅堂です。

金毘羅堂《延享5年(1748)建立/一宮町指定有形文化財》

「こちらの建物は金毘羅堂(こんぴらどう)です。鮮やかな朱色と極彩色の彫刻が目を引く勇壮な建物です。江戸時代の延享5年(1748)に建立された後に、幾度かの改修を経て現在のような姿の建物になったと考えられています。」
「堂内の厨子の内部には秘仏である金毘羅大将という仏様をおまつりしています。金毘羅大将とは、海難守護・大漁祈願に御利益のある仏様で、讃岐国(現在の香川県)を中心に全国的に広く信仰を集めている仏様です。一説には、薬師如来様の眷属である十二神将のうちの宮毘羅大将(くびらたいしょう)のことであるとも考えられています。」

「観明寺の金毘羅大将様は、もともとは、斉藤伝九朗という方がご自宅で熱心に信仰されていた仏様であったといいます。後に愛宕山安養寺というお寺でおまつりされていたほか、江戸時代の終わり頃には玉前神社の境内でおまつりされていたと伝えられています。」
金毘羅堂の前に建つ鳥居の柱

「時代が明治時代になり、政府により神仏分離令が出されると、仏教的な金毘羅大将様は観明寺へお移りになられました。明治12年(1879)から翌13年にかけて、現在の規模のお堂に増改築されたと伝えられています。」

「ここで金毘羅堂の参道に建つ2つの石柱をご覧ください。こちらは何でしょう?」

「こちらは、もともと鳥居を構成していた柱の部分になります。正面からご覧いただくと、「天保八年」の銘が彫られているので、江戸時代に金毘羅堂へ寄進された石の鳥居の一部ということが分かります。なぜ柱だけが立っているのか、それは明治時代に金毘羅堂を現在地へ移した際、神仏分離令をもとにした移築であるため、神道の要素が強い鳥居をそのままお寺へ移すことは憚られるということで柱部分だけを建てたのだそうです。神仏分離の歴史を物語る貴重な鳥居です。」

古代以来の神仏習合の祈りが育まれるとともに、神仏分離の歴史も伝える観明寺。
観明寺の境内には祈りと歴史を紡いでこられた先人たちの息づかいが随所に秘められていました。

「それでは最後に、本地堂にお前立仏としておまつりされていた珍しいお姿の十一面観音菩薩様をお参りしましょう。」

◆4つの腕を持ち凛々しい表情を浮かべる十一面観音菩薩様

細野師とともに堂内を進んでいくと、4つの腕を広げ、すらりと凛々しく立つ十一面観音菩薩様のお姿が学生たちの目の前に現れました。

【非公開】木造十一面観音菩薩立像《蓮上作 鎌倉時代 弘長3年(1263)/千葉県指定有形文化財》

【非公開】木造十一面観音菩薩立像《蓮上作 鎌倉時代 弘長3年(1263)/千葉県指定有形文化財》

「こちらが、本地堂のお前立仏としておまつりされていた十一面観音菩薩様になります。造立時代は鎌倉時代、カヤ材からなる寄木造の仏様です。4つの腕を持つお姿が特徴的で珍しいとされています。」

「修理が実施される以前は頭上面が失われており、複数の腕を持っていらっしゃることから天部のどなたかとも考えられていました。しかしながら、頭上に複数のほぞ穴が確認されたことから、十一面観音様であることが明らかとなり、現在のような凛々しいお姿に修復されました。」
【非公開】木造十一面観音菩薩立像《蓮上作 鎌倉時代 弘長3年(1263)/千葉県指定有形文化財》

「このような4本の腕をお持ちの十一面観音菩薩様は全国的に珍しいそうです。しかしながら、不思議なことに千葉県のお寺には同じようなお姿をされている十一面観音様がおまつりされています。例えば天台宗の寺院だと、いすみ市の清水寺に観明寺の十一面観音菩薩様と近い時代に造立された十一面観音菩薩様がおまつりされています。もしかしたら、これから先、この珍しいお姿に秘められた信仰やご由緒が明らかになることがあるかもしれませんね。」

凛々しい眼差しを学生たちに向ける十一面観音菩薩様。
果たして、その眼差しにはどのような歴史が映ってきたのでしょうか。

しばしの間、十一面観音菩薩様の前で細野師と語らいながら、十一面観音菩薩様が体感してこられた歴史に想いをはせる学生たちの姿がありました。

◆参加学生の感想

ご案内いただいた中でも、特に本堂が強く印象に残っております。鉄筋コンクリート造の本堂は⽐較的珍しく、維持管理にも多⼤なご苦労があることと拝察いたしますが、外観の⾊彩は美しく保たれ、外部の彫刻装飾も⼤変⾒事でした。階段を上りながら徐々に全体が視界に⼊ってくる構成にも趣があり、その美しさが深く記憶に残っております。

また、本堂内に描かれていた地獄極楽図も⾮常に印象的でした。彫刻や絵画は距離を隔てて鑑賞することが多く、細部まで注視する機会は限られますが、今回も遠くから拝⾒したのにも関わらず、強い迫⼒を感じ、深く印象に残りました。さらに、境内の各所に神仏習合の痕跡が残されており、とりわけ⿃居の柱が現存している点についてのお話は⼤変興味深く拝聴いたしました。

龍谷大学 2年
観明寺
〒299-4301 千葉県長生郡一宮町一宮3316