金色に染まる山上に広がるお釈迦様の霊地「釈迦院」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

金色に染まる山上に広がるお釈迦様の霊地「釈迦院」を訪ねる

西は不知火海、東は九州山地が広がる熊本県八代市。
豊かな恵みにあふれる八代市に、創建されてから1200年以上の歴史を誇る名刹・釈迦院が伽藍を構えています。

釈迦院が伽藍を構えるのは、標高957メートルの大行寺山の山頂付近。
山麓からは3333段の「日本一の石段」を登り、たくさんの方々が境内を訪れます。
木々の葉々が色づき始めた11月の中旬、住職を務める作村尚範師に釈迦院の魅力をご案内いただきました。

◇標高900メートルの山上に広がるお釈迦様の霊地

山麓より釈迦院へ通じる山道を登ること約30分、次第に周囲の山の稜線が近づいてきました。深山幽谷という言葉がふさわしい鬱蒼とした森をしばらく進むと、大木のあいだから釈迦院の伽藍が見えました。

喧騒から隔絶されたその姿は、まさに仏のおわす霊地。
背筋が自然と正される厳粛かつ清浄な空気が漂っていました。

その一方で、どこか懐かしい温かさも同時に感じました。
釈迦院での新たな出会いを思い浮かべ、学生たちは胸を高鳴らせながら堂々たる門をくぐりました。

「本日はようこそ釈迦院へお参りいただきました。この釈迦院は大行寺山の山頂近くに伽藍を構えております。大行寺山の山頂の標高が約950メートルほどだったと思いますから、かなり標高の高い所にあるお寺です。市街地に比べると気温も寒いですよね。せっかくなので、こたつを囲んで皆さんとお話ししましょう。」

ご住職のご厚意をいただき、こたつで体を温める学生たち。
ご住職や釈迦院の皆様と自然と会話が弾み、笑顔があふれます。

「それでは、体も心も温まったところで、釈迦院の歴史をお話ししたいと思います。釈迦院を創建されたのは、薬欄(やくらん)というお坊さんです。宝亀8年(777)、現在の東陽町に生まれた薬欄は非常に賢い子供で、13歳の時には出家をされたそうです。」

「修行に励む薬欄。ある満月の夜、東南の方を眺めていると、重なる山々の向こうに見える1つの山が気になりました。その山を眺めていると、白い光が天にみなぎり、紫色の雲がその山のあたりの空にたなびいたのでした。」

「その光景を見た薬欄は、その山を目指しました。険しい山を登り、ようやくたどり着くと、霧がかった山中に今まで嗅いだことのない香りが一帯にたちこめていました。そして山頂へ歩みを進めると、清らかな水をたたえる大きな池がありました。薬欄はこの大きな池のほとりに庵を結び、修行に励みました。」

「修行を始めて10年がたった延暦18年(799)4月8日、大地が揺れ、修行に励む薬欄の前に池の中から金色に輝く釈迦如来様が出現されたのでした。たいそう喜んだ薬欄は、草庵に釈迦如来様の像をまつりました。この延暦18年の出来事が釈迦院の創建と伝えられています。」

「本堂の正面には、薬欄の前に釈迦如来様が出現された光景を描いた絵を飾っています。この絵は釈迦院に伝えられている縁起絵巻の一場面を拡大したもので、釈迦如来様が他の菩薩様を引き連れて薬欄の前に出現された様子を描いています。」

「さらに、本堂の後ろには釈迦如来様が出現されたという池の水源が残されています。現在も清らかな水が湧き出ています。」

「釈迦如来様のもとで修行に励む薬欄の名前は次第に広がり、ついには遠く離れた都にまで届いたそうです。その時、当時の帝であった桓武天皇は病に悩まされており、どんなに高名な医師が治療をしても治らなかったそうです。そこで、釈迦如来様のもとで修行に励むという薬欄を都へ呼び、病を克服する祈祷をお願いされたのでした。」

「薬欄が一心に祈祷をすると、手の施しようがなかった桓武天皇の病状が回復されていきました。このことを大いに喜んだ桓武天皇は、薬欄に『弉善大師(しょうぜんだいし)』という称号を与えられました。さらに、薬欄が修行している地をお寺として伽藍を整えられたと伝えられています。」

「その後の中世には、この地域の領主であった菊池家などから援助を受け釈迦院は大いに隆盛をしまして、往時には山上に75坊もの僧房が軒を連ねていました。僧房だけでこの数ですから、僧房に居住するお坊さんたちもたくさん山に集っていたのだと思います。」

「しかしながら、戦国時代になると乱世の影響を受けることになりました。戦国時代、熊本南部を統治していた小西行長により釈迦院は焼討ちされてしまいました。この焼討ちにより75坊あった僧房をはじめ全山が焼失してしまいました。その後、加藤清正公の息子である加藤忠広公によって再興していただき、境内が整備されました。」

鐘撞堂(山門)《加藤忠広公寄進》

「その後も整備が続いていきますが、唯一加藤忠広公が寄進した建物が伝えられています。皆さんが来られた際にくぐった鐘撞堂(山門)がそうです。厳しい山上ですから、地面に近い部分などは取り換えていますが、二層目などは加藤忠広公が寄進された当初の部材が残っているそうです。」

ご住職がお話しされた釈迦院の歴史。
その激動の歴史に学生たちは圧倒されました。

◇一丸となって復興が続く釈迦院

穏やかな空間の中でご住職との語らいが続きます。

「実は、近年まで釈迦院は荒れてしまっていました。」

ご住職は遠き日の記憶を思い出すように、遠くを眺め、学生たちに語りかけます。
本堂

「私が釈迦院の兼務住職となったのが今から約11年前のことです。当時の釈迦院は、前の住職が病で山を下りられてからしばらく経ち無住の状態でした。さらに厳しい山上にあることから建物や仏様も傷みが進み、ほとんど廃墟のような状態でした。」

「例えば、みなさんが今座っている所には畳が敷いてあるのですが、当時は畳もその下の板も傷んでいました。修理をしようと私が通ったところ、傷んだ床が抜けてしまったことがありました...(笑)。本堂の屋根に葺いている銅板は垂れ下がり、庫裏にはなんとコウモリが住み着いていました。建物の中に入っても雨漏りがひどく、床全体にバケツを置いて凌いでいました...。」

「私もびっくりしているのですが、次から次へと修理が必要な場所が出てくるのです(笑)。ある部分の修理が終わっても、また別の場所で修理が必要になる。その場所の修理をすると、さらに別の場所で修理が必要になる...と修理する箇所は事欠きません。」

「他の天台宗のお寺と同じように釈迦院は祈願をするためのお寺ですから、もともと檀家さんは5、6軒ほどしかありません。全ての修理のご負担を檀家の皆様にしていただくわけにはいきませんから、どうしたものかと悩んでいました。」
お前立・木造釈迦如来立像

「いろいろと悩んでいましたが、『まずは自分が出来ることをしよう』と思いまして、檀家の皆様のご協力をいただきながら自分にできる修理を続けてきました。すると、不思議なもので、地域の皆さんや遠い所からお参りに来られた皆様からもご支援をいただき、少しずつですが修理を行っています。本当にありがたいことです。」

「あちらの須弥壇の中央にお前立の釈迦如来様がおまつりされていますね。現在は美しいお姿をされていますが、修復前は金箔が剥げてしまっておりました。修理をしたいと思っていたのですが、専門的な修理ですとかなりの費用が必要で、なかなか取り掛かることができていませんでした。」

「ある時、関東からお参りに来られた方とお話ししていると『そのようなことならば、私が全額費用を出します。』と申し出ていただき、御寄附をいただきました。そして頂いた御寄附をもとに修復をして、今のような美しいお姿に蘇りました。」

「中央におまつりされるお前立様の修復が進むと、不思議と祈りの場所を整えようという気持ちが皆の中に生まれてきました。そして仏様をおまつりする須弥壇や他の仏様の修復の話がどんどん進み、今のように仏様をしっかりとおまつりできる状態に復興することができました。」

修復を終え柔らかな輝きを放つお前立の釈迦如来様。
その輝きは、釈迦院復興を象徴する輝きでもあります。
これから先も釈迦院の復興を照らす輝きとなり、その輝きは釈迦院に集う人々の心を穏やかに包み込むのでしょう。
庫裏

「せっかくですので、修復を終えた庫裏もご案内いたしましょう。」

ご住職とともに庫裏へと歩む学生たち。
庫裏の内部へ入ると、長年の荒廃を感じさせない清らかな空気がありました。

「もともとこちらの庫裏は、釈迦院の住職が寝起きするだけではなく、釈迦院へお参りに来られる方々が宿泊される宿坊のような役割があったようです。車が無い時代、1日だけではお参りして帰ることは難しかったことから、このような建物が建てられたのだと思います。」

「先ほどもお話ししたように、庫裏もかなり傷んでいました。瓦が壊れ雨漏りがひどく、畳や床は抜け、天井にはコウモリが住み、板戸や窓も壊れていました。」

「そこで瓦を葺き直し、床や柱を修理し、畳や窓を変えました。実は、現在の畳や窓は数年前の熊本地震で被害を受けた旅館から寄進いただいたものです。不思議なことに自然と釈迦院再生の輪が広がり、気が付くとたくさんの方々のお力をいただいています。」

庫裏の一室には、釈迦院再生の十一年間の写真が展示された一室がありました。
釈迦院の再生が始まる十一年前の写真には、崩れかけた本堂、荒れた境内、傾く仏様の姿が。
現在の厳粛さと穏やかさが満ちる釈迦院の姿とは全く異なる光景が広がっていました。

十一年前から現在まで、ご住職とともに再生の道を進む学生たち。
懐かしそうに穏やかに語るご住職の前には、様々な世代の方々が、それぞれの方法で釈迦院を蘇らせている姿がありました。

誰か一人による再生ではなく、たくさんの人々が寄り添い、手を取り合うことで続けられている釈迦院の再生。
釈迦院の境内を構成する1つ1つの要素にたくさんの方々の想いが込められていました。

◇釈迦院に集う人々を見守る秘仏御本尊・銅造釈迦如来様

温かな日差しが照らす釈迦院の境内を巡るご住職と学生たち。

「それでは、釈迦院の御本尊様にお参りいただきたいと思います。」

ご住職との語らいを振り返り、期待を胸に御本尊様の前へと進みました。
そこには、すらっとした立ち姿が凛々しい釈迦如来様の姿がありました。

秘仏御本尊・銅造釈迦如来立像《熊本県指定文化財》 毎年4月8日に御開扉

「こちらが釈迦院の御本尊である釈迦如来様です。普段は秘仏としておまつりしておりまして、1年に1度、毎年4月8日に皆さんにそのお姿をお参りいただいております。」
秘仏御本尊・銅造釈迦如来立像《熊本県指定文化財》 毎年4月8日に御開扉

「御本尊様はとても珍しい仏様でして、なんと銅で造立されている仏様です。一見すると木造の仏様に見えるほど細部まで丁寧に造立された釈迦如来様です。造立された時代は、鎌倉時代であると考えられています。数百年前にこれほどの仏様が造立でき、御本尊様としておまつりしているのですから、当時の釈迦院の隆盛が分かるかと思います。」

「衣やお身体をよくご覧いただくと、わずかに金色に輝いていますね。おそらく造立当初はお身体全体が金色に輝いていたのだと思います。それはまるで、薬欄の前に金色に輝きながら出現された釈迦如来様のようだったのだと思います。」

焼討ちや荒廃の危機を乗り越えてきた釈迦院。
激動の時代を乗り越え仏様が伝えられていることの凄さ。
そしてそれは祈りを絶やさないようにと動いてきた先人たちの存在があったからだと強く感じました。

◇金色に輝くお釈迦様の霊地

御本尊様のもとを離れると、日が落ちかけ、一段と静けさを増した境内に、秋の虫の鳴き声がかすかに響いていました。

夕日の光が木々の間をすり抜け、境内を黄金色に染め上げます。

「釈迦院の山号は『金海山(きんかいざん)』といいます。その由来は、まさに今のように、西に沈む夕日が不知火海を黄金色に染め、そして不知火海に反射した夕日が山々を黄金色に染める光景が広がることから名付けられたと伝えられています。」

「この光景は、薬欄が釈迦院を開いた1200年前と同じ光景なのでしょう。1200年の歴史というのは、言葉では簡単に言えます。しかしながら、先人たちの誰かが欠けることなく未来へ伝えなければ今日まで受け継がれないものであり、歴史が受け継がれていることはまさに奇跡のようなことなのだと私は思います。」

「黄金色に輝くこの美しい景色がこれからも人々の心を動かすように、皆様とともに釈迦院の歴史を未来へ伝えていきたいと思います。」

◇参加学生の感想

境内の自然や古い伽藍はもちろん美しかったのですが、特に印象的だったのは、ご住職が語ってくださった「昔の祈りは生きるためだった」という言葉です。私たちが信仰を遠く感じてしまう理由の一つは、当時の人々の切実さを知らないからかもしれません。お寺に身を置き、実際に伝承に向き合っておられるご住職のお話から、古人の祈りがどれほど深かったのかを学ぶことができました。

また、釈迦院が多くの支えによって成り立っていることも知り、胸が熱くなりました。本堂や庫裏の修復や境内の整備を行う檀家の皆さんや地域の方々の姿が寺院を未来へつなぐ力になっていました。こうした背景を知ることで、寺院の存在がより深く心に響きました。

ボランティアの皆様のおもてなしにも温かさをいただきました。「最近、鐘の音がきれいに響くようになったんですよ」という言葉を伺い、釈迦院を大切に思う人々の気持ちが、境内の空気そのものを支えているのだと感じました。お寺が地域の方々に愛されていることを実感しました。今回の訪問は、私にとって深くて温かい学びでした。

立命館大学 博士課程
釈迦院
〒869-4401 熊本県八代市泉町柿迫5536