豊かな自然とともに神仏習合の祈りを伝える名刹『鰐淵寺』を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

豊かな自然とともに神仏習合の祈りを伝える名刹『鰐淵寺』を訪ねる

出雲の山中に伽藍を構える浮浪山鰐淵寺。この地で修行に励んでいた智春(ちしゅん)上人の祈りによって推古天皇の眼病が平癒したことから、推古天皇の願いに基づいて境内が整えられたという山陰地方屈指の名刹です。

古来より、山岳修行の霊地として多くの僧侶が集い、神々と仏様をともに大切にまつる神仏習合のお寺として歴史を紡いできました。明治時代になり多くの寺社が神仏分離の影響を受ける中で、鰐淵寺は神仏習合の祈りを今日まで伝えています。

秋雨が境内に育つ苔を濡らす10月末、鰐淵寺の境内やおまつりされている仏様の魅力を鰐淵寺住職・佐藤泰雄師に御案内いただきました。

◇神々と仏様がおわす深山幽谷の霊地

山を流れる水の音が響く谷を抜け、静かにモミジの枝葉が揺れる鰐淵寺の入口・仁王門へとたどり着きました。仁王門をくぐり、鰐淵寺川に架かる苔むした橋を渡ると、足元の苔は濃い緑に濡れ、鮮やかな緑と水の反射のきらめきが僧房の跡である空地の中央に一本の大きな銀杏の木がそびえ立っていました。

雨に包まれて黄金色に輝く銀杏の大木は1400年以上悠久の歴史を誇る鰐淵寺の歩みを見守って来られたのでしょう。都市では感じたことのない静けさと、言葉にできないような謙虚さが、心の奥から静かに立ち上がってきました。

鰐淵寺の壮大な空間に圧倒されながら、鰐淵寺の住職を務める佐藤泰雄師との語らいが始まりました。

「鰐淵寺へようこそお参りいただきました。ご覧いただいているように鰐淵寺は豊かな自然に囲まれたお寺で、創建されてから1400年近い歴史を持つお寺です。ですから、境内だけでも皆さんがよく行かれるテーマパークの5倍近くありますし、時代を象徴する文化財も多く伝えられています。文化財の多くは防犯上の観点から博物館へ寄託しておりますが、境内に伝えられている建物や境内全体の空間から、神様と仏様をどちらも大切におまつりする鰐淵寺の悠久の歴史を皆さんに体感していただけたらなと思っています。」

「せっかくの機会ですから、まずは鰐淵寺の境内を自由に巡っていただいて、皆さんご自身の感覚で鰐淵寺を体感していただきましょう。」

ご住職のお言葉にうながされ、鰐淵寺の中心となる大堂・根本堂へと続く道へと歩みを進めました。

◇山中にそびえ立つ勇壮な大堂・根本堂

足元には深い緑色の苔が育まれ、頭上をモミジの葉々が覆う石段を進んでいくと、屋根が立ち上がるように反る大きなお堂が姿をあらわしました。
この威風堂々たる大堂こそ、鰐淵寺の中心のお堂である根本堂。
建物を支える数十本の太い柱は木肌を表し、根本堂が紡いできた悠久の歴史を感じさせます。
朱色の組物が支える勇壮な屋根は、深山幽谷の地で修行に励んだ鰐淵寺の僧侶たちの力強さを象徴しているようです。

現在の根本堂は、毛利家を支援した鰐淵寺へ感謝の意を伝えるために毛利輝元公が寄進・建立したとも、建物を構成する部材に施された彫刻意匠の様式から18世紀中期頃の建物とも考えられているとのこと。出雲地方を代表する名建築として出雲市の文化財に指定されています。
根本堂《出雲市指定文化財》

「このような深い山の中に、根本堂のような大きな建物が建っていることに驚かれたと思います。現在は、鰐淵寺の直ぐ近くまで車で来ることはできますが、この車の道ができたのはつい数十年前のことです。」

「それ以前はどうしていたかというと、皆さん山を麓から登って鰐淵寺をお参りしていました。ですから、この根本堂を建立する際も、大工さんや必要な木材などを麓から運んできて建立したと伝えられています。」

「あれほどの大きな部材をどのように運び、険しい山を越えてきたのか、このように先人たちの姿を考えると非常におもしろいですよね。先人たちは、信仰のために、とんでもない力を発揮したのだと思います。文明の利器が発達した現在の私たちは想像するしかないですが、木を引きずって運んだのか、牛を使ったのか、いずれにしても今では考えられないことです。」
明治時代の鰐淵寺境内

それでは、先人たちはどのような仏様へ祈りを捧げていたのでしょうか。

「根本堂の堂内中央には、鰐淵寺の御本尊である千手観音様と薬師如来様をおまつりしております。珍しいのですが、2体の仏様が鰐淵寺の御本尊様です。それではなぜ、2体の御本尊様をおまつりしているのでしょう。」

「先ほどお話ししたように、鰐淵寺には大きな境内があります。以前はこの大きな境内の中に、僧房というお寺が軒を並べていました。こちらの白黒の写真は、明治時代に撮影された鰐淵寺の境内の様子です。根本堂の周りにいくつか建物が見えると思いますが、こちらが僧房になります。現在は跡が残るのみですが、往時の鰐淵寺の境内には、このような僧房が軒を連ねていたそうです。」

「今から数百年前の中世、鰐淵寺は大いに発展していた時代ですが、鰐淵寺を構成する僧房は北院と南院に分かれていたそうです。時代は朝廷が分裂していた南北朝時代ですから、政治的な理由もあったのかもしれません。」

「この北院の御本尊様が千手観音様、南院の御本尊様が薬師如来様でした。後に北院と南院が統合した際に、現在のように千手観音様と薬師如来様をともに御本尊様としておまつりする珍しい祈りの形ができたと伝えられています。」

ご住職との語らいの話題は千手観音様へと移ります。

「なぜ鰐淵寺に観音様がおまつりされたのでしょうか?その時代に生きた方々がどのような信仰を持っていたかを探らないと分からないこともありますが、少し考えてみましょう。」

「観音様に関係するお経の中で、一般的に観音経と呼ばれる経典が『法華経』にあります。そこには、観音様を念じることで様々な苦難から救われることを表した様々なお話しが紹介されています。」

古来より海を用いた交流が盛んに行われていた松江・出雲地方
松江・出雲地方に暮らす人々は、航海の安全を観音様に祈ったのでしょう。
その暮らしの中で、観音様への信仰は自然と広まり、加護を願う祈りが息づいていたのだと感じました。

◇神様と仏様をともに大切におまつりする鰐淵寺

鰐淵寺は神様と仏様をともに大切にしてきたお寺であるとご住職は語ります。

「鰐淵寺は、現在も神様と仏様を大切におまつりしている神仏習合のお寺です。皆さんご存知のように、明治時代に神仏分離令が発せられ、神様と仏様を明確に区別しておまつりするようにと定められました。さらにその延長で仏教を排斥する廃仏毀釈運動という運動にまで拡大してしまい、仏像や仏具などが破壊されてしまった地域もあったと聞きます。」
手前:常行堂、奥:摩陀羅神社、建物の奥:三本杉(慈覚大師お手植え)

「鰐淵寺は、そのような社会の変動がありながらも神仏習合の祈りを大切に守り伝えてきたお寺です。根本堂の左側に、神社のような大きな建物が建っていたと思います。手前の建物が常行堂、奥の建物が摩陀羅神社というお堂で、仏堂の後ろに神社建築が建つ鰐淵寺の神仏習合の祈りを象徴する建物です。」

「摩陀羅神社におまつりされている神様は、摩陀羅神(またらじん)様です。伝教大師の高弟であり、第3代天台座主をつとめた慈覚大師円仁が唐から帰国される際に感得された神様で、阿弥陀如来様を信仰する行者を守護する神様であるとされています。」

「鰐淵寺の摩陀羅神様は、唐から帰国された慈覚大師が当地におまつりしたと伝えられています。実は、建物の隣に建つ三本杉は慈覚大師がその際にお手植えされた杉であると伝えられています。」

摩陀羅神様は『後戸(うしろど)の神』と呼ばれ、天台宗のお寺では、阿弥陀如来をまつる常行堂の後陣に秘されておまつりされていることが多いのだとか。
神と仏が共に息づく神仏習合の祈りの歴史が感じられます。
山王七仏堂

「さらに、鰐淵寺の神仏習合を伝える建物があります。浮浪の滝へと続く参道に「山王七仏堂」というコンクリートの建物があります。山王七仏堂はお堂の名前の通り、山王信仰のお堂で、比叡山の麓にある日吉大社の神様をおまつりしていた建物です。以前の建物は、江戸時代頃に建てられた神社の本殿のような建物があったそうなのですが、深い山の中ですから湿気などの影響で老朽化が激しく、前住職の時代にコンクリートの建物として改築された建物です。」

少し懐かしむような口調でご住職はお話を続けます。

「前住職の時には、コンクリートはパルテノン神殿のように永遠に建物を伝えることができると言われていました。それならば、と木造の建物からコンクリートの建物に変えたそうなのですが、あまり目覚ましい効果はありませんでした...(笑)。コンクリートの建物として改築したのも、鰐淵寺の神仏習合の祈りを未来へと伝えたいという人々の祈りや想いが故のことですので、お参りいただいた皆さんにも神様と仏様を大切にする鰐淵寺の祈りをこのような建物を通して感じ取っていただけたらと思っています。」

硬く残るコンクリートの壁と、絶えず移り変わる傍らの鰐淵寺川の水の流れ。
その対比の中に、先人たちの「永遠」を求める姿がありました。
形は異なっていても、守りたいという先人たちの願いは同じ。
コンクリートもまた、未来へ伝えたいと願う祈りの結晶であるのだと感じました。

◇浮浪滝・蔵王堂——鰐淵寺創建の地

山陰地方屈指の名刹として歴史を紡ぐ鰐淵寺。
その歴史の始まりは、根本堂からさらに深い山中にある浮浪の滝であると伝えられています。

「今から約1400年前、推古天皇2年(594)、信濃国の智春(ちしゅん)上人という方がこの地を訪れて修行をされていました。ある日、智春上人が浮浪の滝で修行をしていた際に、誤って仏器を滝壺に落としてしまったそうです。どうしたものかと悩んでいたところ、なんと滝壺から鰐(わに)が仏器を口にくわえて智春上人の前にあらわれ、智春上人が落とした仏器を返却しました。そのことから『鰐淵寺』というお寺の名前になったと伝えられています。」

「この鰐(わに)というのは、いわゆるクロコダイルではありません(笑)。おそらく、サメの仲間で淡水にも入るというワニザメのことではないかと言われています。皆さんご存知かも知れませんが、鰐が登場する逸話は他にもありまして、「因幡の白兎」にも登場しますね。もしかしたら、島根や鳥取周辺には海流がありますから、当時の人々にとってワニザメは馴染みのある存在であったのかもしれませんね。」

「また、「わに」という言葉は渡来人を象徴する言葉としても知られています。渡来人は現在の日本の文化の礎となる様々な文化を当時の日本に伝えました。そうした渡来人の方々の象徴として「わに」という言葉が伝わったとの説も聞きます。」

さらに深い山の中にある鰐淵寺創建の地へと歩みを進める学生たち。
鰐淵寺川の中の飛び石を越えて川を渡り、苔むした石段を登ります。
雨足もしだいに強くなり、足元を濡らしながら歩みを進めること約10分、滝の音が聞こえてきました。

さらに歩みを進めると、霧の中に浮浪の滝と滝壺の奥の崖にへばりつくように建つ蔵王堂の姿が現れました。水の流れの中に、雄大な自然の中に一体となって建つ蔵王堂の清らかな美しい姿に、その場の誰もがしばらく言葉を失いました。
「岸壁にへばりつくように建つ蔵王堂の姿は印象的です。創建されて以来、鰐淵寺は浮浪の滝を中心に行者が修行を行う霊地として発展してきました。ですので、建物の位置も地形に合わせて建てられているのです。画一的に整地するのではなく、山の形に寄り添って建てる。高さや方向が微妙に違うのはそのためです。それぞれの場所に意味があり、自然とともに祈るという感覚があったのだと思います。」

多くの人々が惹きつけられる鰐淵寺の建物や空間。
それはただ残された遺構ではなく、自然と人が共に作り上げた祈りの形だったのだと感じました。
先人たちの祈りや願い、想いに満ち、息づかいを感じさせる鰐淵寺の空間が、これから先の世も伝えられていきますように、そっと手を合わせました。

◇参加学生の感想

雨の中で鰐淵寺の伽藍をお参りし、その大きさと静けさに圧倒されました。霧に包まれた山の中に、寺院は自然と調和しながら佇み、長い歴史の重みを感じさせました。滝行の場まで登ったとき、振り返ると来た道が遠く霞み、私たちが古人をどれほど理解していないかを思い知らされました。

 ご住職はとても親しみやすく、また博識な方で、広大な寺院を日々支えられているご苦労に深く敬意を抱きました。事前にご準備くださった資料や、参加者一人ひとりの名前を覚えてくださっていたことに感動しました。そのお姿から、物事に真摯に向き合う姿勢を学び、自分も丁寧に人と関わりたいと思いました。

 外国人として学ぶ内容は多岐にわたり、とりわけ「わに」の由来について、多角的な視点からお話を伺えたことが印象に残っています。異なる解釈を受け入れ、他者との対話の中で理解を深める大切さを実感しました。さらに、「なぜ」という問いを大切にするご住職のお言葉が心に響きました。観音像の配置の意味や信仰の背景、海との関わりなどを通じて、研究は机上の思索にとどまらず、現場で感じ、考え、探究を続けることが重要だと学びました。この教えは、私にとって大きな励ましとなりました。

立命館大学 博士課程
鰐淵寺
〒691-0022 島根県出雲市別所町148