松江城を守り、城主憩いの茶室が残る「普門院」を訪ねる
TOP > いろり端 > 島根県松江市

いろり端

探訪「1200年の魅力交流」

松江城を守り、城主憩いの茶室が残る「普門院」を訪ねる

NHK朝の連続テレビ小説『ばけばけ』の舞台として全国的に注目を集めている松江市。
松江市の中心には、国宝に指定されている勇壮な松江城がそびえ立っています。
その松江城からほど近く、城を護る堀としての役割もある堀川沿いに城下町・松江の歴史を伝える古刹・普門院が伽藍を構えています。

松江城の鬼門を護るお寺として、歴代の松江城主や松江の人々からの信仰を集めた普門院。
その境内には、茶室「観月庵」をはじめ松江の文化を体現する空間が広がっています。
秋の到来を感じる10月末、普門院住職を務める谷村常順師に、普門院の歴史と魅力を御案内いただきました。

◇松江城の鬼門を守るお寺として建てられた普門院

「普門院が創建されたのは、今から約400年前の慶長12年(1607)のこと。松江藩の初代藩主とされる堀尾吉晴公によって、現在の松江市西川津町に創建されました。実は、創建された時のお寺の名前は現在の普門院ではなく、願応寺という名前でした。」

「このとき、願応寺とともに豊臣秀吉公をまつる豊国神社も創建され、願応寺は豊国神社を管理する別当寺であったと伝えられています。創建されたときの初代住職は、安来の清水寺大宝坊賢義のお弟子さんで賢清上人という方でした。」

「創建されてから数年後の慶長20年(1615)、大阪夏の陣が勃発し、豊臣家は滅亡してしまいました。そのため、全国おしなべて、東照大権現(徳川家康)を祭ることになり、豊臣秀吉公をまつる豊国神社は廃社され、願応寺はその禄高を没収されました。」

「第三代堀尾忠晴公は賢清上人の才を惜しみ、堀尾家の別所があった現在の松江市北寺町に願応寺を移転し、このとき、現在の「普門院」というお寺の名前に変更になったとされています。」
稲荷社

「その後、松江の藩主は堀尾家から京極家、松平家と代わりましたが、ありがたいことに普門院は歴代藩主の信仰を変わらず集めたそうです。第五代松江藩主を務めた松平直政公は松江城の城山に稲荷社を創建しましたが、その別当職に賢清上人を任命し、明治の時代に神仏分離が行われるまで、普門院の歴代住職が稲荷社の別当職を拝命していたと伝えられています。」

「普門院の歴代住職が別当職を務めた城山の稲荷社。明治時代までには、吒枳尼天(だきにてん)様という仏様がおまつりされていたそうです。吒枳尼天様は白い狐に乗る天女のお姿をされており、もともとはヒンドゥー教の神様でした。日本に伝わったときに、狐と関係がある点が共通していることから稲荷信仰と結びついたとされています。」

「明治の神仏分離の際には、吒枳尼天をはじめとする仏様や仏教的なものを普門院へお移し、稲荷社として現在もおまつりしています。」
普門院より松江城天守を望む

「松江城のお殿様をはじめ、松江の皆さんから信仰を集めていた普門院でしたが、大きな火災に2度見舞われてしまいました。1度目の火災が、延宝4年(1676)に発生した白潟大火。この大火により境内全体を焼失した普門院は、北寺町から現在地へ移転することになりました。

「移転後、当時の藩主であった松平綱近公により壮麗な伽藍が復興されたのですが、享保6年(1721)に2度目の火災に見舞われてしまい、全て焼失してしまったと伝えられています。」

「これから皆さんにお参りしていただく本堂は、享保17年(1732)に再建された建物と記録にあります。焼失前の普門院の伽藍は見事な建築が立ち並んでいたそうですが、残念ながら当時の松江藩は財政難だったそうで、現在の本堂は仮本堂として建てられた建物でした。それでは、本堂へと歩みを進めましょう。」

◇松江を見守る御本尊・大聖不動明王と長楽寺御本尊・聖観世音菩薩

廊下を進み本堂へ入ると、勇ましい迫力のある不動明王様がおまつりされていました。

「こちらが普門院の本堂です。現在の内陣部分が江戸時代の享保17年(1732)に再建された部分になります。現在は瓦葺きの建物ですが、以前は茅葺の建物でした。壁板などは新しい部材に変えていますが、柱などは再建当初のものが残っています。先ほどお話しした通り、仮本堂として建てられた建物ですが、大工さんにお聞きすると良い品質の材木を使っているようです。」

「しかしながら、ご覧いただいてお分かりの通り、信者さんや檀家さんがお入りいただくには少し窮屈な建物でした。そこで、皆さんがゆったりとお参りできるようにと、昭和54年に新しく外陣部分を増築しました。」
《御本尊・大聖不動明王坐像》

「中央におまつりされている仏様が普門院の御本尊・大聖不動明王様になります。願応寺の時代から不動明王様が御本尊ですが、当初の不動明王様は2度の火災で一部を焼損してしまい、火災後にこちらの不動明王様が造立されたと聞いています。」

「実は、当初の不動明王様は現在も伝えられています。当初の御本尊様は、現在の御本尊様のように座っているお姿ではなく、立っている立像のお姿で、やはり火災の痕跡がお身体に残されています。」
「御本尊様の隣には、青面金剛(しょうめんこんごう)様をおまつりしています。またの名を庚申(こうしん)様ともいい、病気をはらう仏様として信仰を集めた仏様です。足元を見てみると、いわゆる『見ざる 聞かざる 言わざる』の三猿の姿があります。どうぞ近づいてお参りしてみてください。」

《左:青面金剛立像、右:出雲三十三観音霊場の札所本尊様》

「その隣のお厨子には、出雲国の観音様の霊地を巡る「出雲三十三観音霊場」の三十三の札所におまつりされている三十三体の観音様を一同におまつりしています。伝えられているところによると、松平家のお姫様が日ごろ拝んでいた観音様たちで、後に松平家とゆかりが深い普門院へ伝えられました。」

松平家のお姫様の所持品が伝わることからも、普門院の松江藩との深い繋がりを伺うことができました。

普門院に伝えられている仏様たちを順番にお参りしていると、優しい眼差しで私たちを見つめる美しい観音様の姿が目に留まりました。
《長楽寺御本尊・聖観音立像》

「御本尊様の横にいらっしゃる聖観音様は、もともと安来市の長楽寺の御本尊様としておまつりされていた仏様です。長楽寺は山中に伽藍を構える古刹でしたが、故逢って現在は普門院でお預かりし安置させていただいております。」

「こちらの聖観音様は、『姉さま観音』と呼ばれております。伝承では、一本の大木からこちらの聖観音様と安来の清水寺の十一面観音様の2体の観音様が造立されたと伝えられていて、おそらく長楽寺の聖観音様が大木の先の部分から造立されたことから『姉さま観音』と親しみを込めて呼ばれているのだと思います。」

「長楽寺のある九重町の長老によると、清水寺で大きな法要があるときには、長楽寺のある地域の皆さんが聖観音様を神輿に担いで清水寺へ運び、聖観音様と清水寺の聖観音様を並べておまつりしたこともあったそうです。ちなみに、先程御紹介したお姫様がお参りしていた出雲三十三観音霊場のお厨子では、長楽寺の聖観音様と清水寺の十一面観音様が並んでおまつりされています。」

実は、私たちは前日に清水寺を訪れており、清水寺の十一面観音様をお参りしていました。それぞれのお寺で大切に伝えられている観音様の穏やかなお姿に感銘を受けました。

◇松江の人々の営みを感じさせる『幽霊の足跡』と『芭蕉堂』

NHK朝の連続テレビ小説『ばけばけ』の登場人物のモデルとなった小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)。小泉八雲が様々な怪談を執筆した地・松江に伽藍を構える普門院にも怪談や小泉八雲とのエピソードが伝えられています。
かつて、普門院の近くに「小豆とぎ橋」という橋がありました。実はこの橋で謡曲「杜若(かきつばた)」を歌うと恐ろしいことが起こるという伝説がありました。その伝説に恐れた人々は、伝説の真偽を誰も確かめようとしませんでしたが、ある一人の豪胆な侍が小豆とぎ橋で「杜若」を歌ったのだそうです。

すると...何も起きませんでした。
ただの伝説だったのだと、自らの家に帰った侍ですが、家の前に美しい女性が立っていることに気が付きました。その女性に近づくと、侍に文箱を渡したそうです。その文箱の蓋を開けると、なんと血だらけのわが子の生首が入っていたのだとか...。

「こちらの「小豆とぎ橋」の怪談は、小泉八雲が自らの著書で紹介して以来、日本だけでなく世界中の方々が読んでいる有名な怪談です。皆さんの中にも読んだことのある方もいらっしゃるかもしれませんね。小泉八雲は当時の普門院の住職を自宅に招いて、いろいろな怪談話しを聞いたということです。」
「また、小泉八雲とは直接の関係がありませんが、怪談に少し関係のある場所があります。」

「皆さんが普門院にお越しいただいた時に通った普門院の山門。もともとは堀尾家下屋敷の門を普門院に移築されたものです。」

「こちらの屋根の天井をご覧ください。」
ご住職の目線の先をたどると、なんと3メートル以上の高さにある屋根裏の板に手形がはっきりと付いています。

「手形がいくつか見えますよね。実は足跡もあります。私が子供のころは足跡がはっきりと見えていたのですが、いつのころからか消えてしまい、最近気づいたら手形がはっきりと表れてきました。」

足跡や手形が決してつくことのない屋根裏にはっきりと残る手形。
大きさも様々で、大人の大きさのものから小ぶりな子供とも思える手形もありました。
急に背筋がひんやりする、そんな心地を抱きました。
《松尾芭蕉坐像/荒川亀斎作》

「本堂の左側には、芭蕉堂が建ちます。『山陰の芭蕉』と称された山内曲川という方が願主となり明治26年4月に建立した建物で、内部には荒川亀斎が造立した松尾芭蕉像をおまつりしています。」

少し厳しめの表情の松尾芭蕉像。
偉大な俳諧の先達としての威厳にあふれているようなお姿をされていました。

◇松平不昧公が訪れ、月を眺めた茶室・観月庵

「普門院には、大名茶人として著名な松平治郷(不昧)公が愛したと伝わる観月庵という茶室がございます。」

「松平不昧公が普門院にお越しになる際は、警護の者2、3人を連れて松江城から小舟に乗って来られたそうです。おそらく茶室の裏手あたりに船着き場があったのだろうと考えられています。」

松平不昧公が訪れた当時の景色を想像しながら飛び石を伝っていくと、茅葺屋根が特徴的な腰掛待合と観月庵が見えてきました。

《腰掛待合/松江市指定文化財》

「こちらの腰掛待合の内部をよく見てみてください。腰掛待合には2つの見どころがあります。」

「1点目が足元の石です。それぞれ異なる色の石が配置されていて、目を楽しませてくれますね。」

「続いて天井に注目してみてください。使い続けられた独特な風格が感じられる板を天井板として用いています。」

「こちらは宍道湖でのシジミ漁で使われていた漁船の舟板だそうです。この腰掛待合に座ると松江に暮らす人々の営みを感じることができる点が魅力です。」
再び飛び石伝いに歩みを進めて観月庵にたどり着きました。

「観月庵は享和元年(1801)に建立された茶室で、大名茶人として名をはせた細川忠興公を流祖とする武家茶道・三斎流のお茶室です。」

《観月庵/松江市指定文化財》

「観月庵を建立したのは、普門院第9世住職である慧海法印(えかいほういん)。松平不昧公と交流のあった三斎流の宗匠・荒井一掌(あらいいっしょう)の好みをもとに建立されました。」

「飛び石の先ににじり口がありますね。あちらのにじり口から入ると、二畳隅炉の本席があります。この本席の東側には大きな丸い窓が設けられており、観月庵を訪れた不昧公はこちらの窓から、嵩山(だけさん)に昇るお月さまを、そして茶室の前の心字池に映るお月さまを慧海法印とともに楽しんでおられたそうです。」

「月が綺麗に見えるように窓の上の茅葺屋根を深く刈り込んでいる点も、この観月庵の特徴です。」
武家茶道を表すように、各所に設けられる刀掛。
白く輝く真砂の中に建つ観月庵からは凛とした雰囲気が感じられます。

「にじり口の近く、庇の下に蹲(つくばい)が設けられています。このように、茶室のすぐそばに蹲を置くことは珍しく、雪深い松江の冬の気候を考慮したためだとされています。また、雨や雪が多い為、飛び石を高く据えているところに出雲流庭園の特色があらわれています。」
茅葺屋根が魅力的な観月庵。
この茅葺屋根はどのように維持されているのでしょうか。

「もともと、松江や出雲の茅葺屋根は『出雲形式』といって、屋根の上部が反りあがっていることが特徴です。最近では『出雲形式』の茅葺屋根を修復できる職人が少ないことから現在では京都の美山の職人さんにお声がけして、10年に一度葺替えを行っています。」

◇茶室と庭園を望み、お茶を一服

訪問の最後に庭園を眺めながら、抹茶と美しい和菓子をいただきました。

松江城や宍道湖でのシジミ漁、出雲大社の景色が描かれた茶碗。
そして、秋の訪れを感じさせる柿を用いた美しい和菓子。
秋の穏やかな風が木々を揺らし、かすかに聞こえる堀川の水の音を楽しみながら、松江・出雲地域の悠久の文化を体験する贅沢なひとときを過ごすことができました。
「松江城の鬼門を護るお寺として創建して以来、普門院は松江の皆様とともに歩んできたお寺だと思っています。松江の魅力的な歴史や文化を、四季折々の美しい景色とともに未来へ伝えていきたいと願っています。」

◇参加学生の感想

普門院を訪れて、今でも駐車場から松江城を望むことができることに感動しました。お城を守るためのお寺が現在もその役割を果たしているように感じられます。

ご住職に普門院を案内していただき、ご本尊の大聖不動明王の力強さと観月庵や庭園の穏やかさが少し不思議な組み合わせのように感じられるものの、とても居心地の良い、安らぎの雰囲気が感じられました。とても美しく手入れされた庭園は、普段からご住職夫妻で手入れをなさっていることを伺い、感動するとともに、ご住職夫妻の普段から普門院を守り繋げていく取り組みに感激しました。

江戸時代から現在まで松江城を守り、城主の憩いの場として愛された普門院を、皆さんもぜひ訪れていただきたいです。

立命館大学 3年
普門院
〒690-0883 島根県松江市北田町27