清らかな清水が湧き続ける山陰屈指の観音様の霊地「清水寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

清らかな清水が湧き続ける山陰屈指の観音様の霊地「清水寺」を訪ねる

島根県の東端に位置する安来市。
古代より国内だけでなく大陸との交流が盛んであったこの地には、山陰地方を代表する観音様の霊地・清水寺が約1450年にもわたる歴史を繋いでいます。
往時には、48もの僧房が軒を連ねる大寺院であった清水寺。
往時の姿を彷彿とさせる見上げんばかりの勇壮な石垣や戦乱を潜り抜けた堂々たる本堂、1000年以上の悠久の歴史を表す様々な仏様が伝えられ、清水月山県立自然公園を構成する豊かな自然と先人たちの営みが調和する雄大な空間が境内に広がります。

今回、悠久の歴史を伝える清水寺の歴史や魅力を、清水寺貫主を務める清水谷善暁師にご案内いただきました。

◇鬱蒼とした山に光が灯り、清らかな水が湧出した霊地

鬱蒼とした森林が広がり、清らかな水がせせらぐ参道。
苔むす参道を一歩一歩踏みしめながらしばらく進むと、勇壮な石垣の上に建つ清水寺の伽藍が見えてきました。
見上げんばかりの迫力ある石垣に圧倒されながら、清水寺の中心となる根本堂へ歩みを進める学生たち。
根本堂へ到着すると、清水谷師が学生たちを出迎えました。

「ようこそ清水寺へお参りいただきました。せっかく機会ですので、清水寺の御本尊様に近い内陣で清水寺の歴史を御紹介したいと思います。」

「清水寺が創建されたのは、今から約1450年前の用明天皇2年、西暦だと587年のことであると伝えられています。」
壮大な歴史に圧倒される学生たち。
清水谷師は学生たちに優しく語りかけます。

「今から約1450年前、現在も豊かな自然が広がるこの場所には、人々を寄せ付けない鬱蒼とした森林が広がっていたといいます。ある夜、人が踏み入らないこの山に原因不明の光が灯りました。」

「鬱蒼とした森林が広がり、ただでさえ人が近づかない深山幽谷の地に灯る原因不明の光。現代とは異なり電気や火が身近でない当時の人々は、この光を大いに恐れたといいます。人々はなんとか理由を探ろうと、山城国の衆楽寺というお寺から当地を訪れていた尊隆(そんりゅう)上人というお坊さんに理由を探ってほしいとお願いしたのだそうです。」

「人々の願いを受けて尊隆上人が山に入ると、揚命(ようめい)仙人と名乗る白髪の老人と出会いました。揚命仙人は尊隆上人にこのように語りかけたといいます。」
「私は長らく観音像を護ってきたが、そろそろその役目を終えて次の世に往かねばならぬ。私の代わりにこの観音像をまつってほしい。」

「尊隆上人は揚命仙人の願いを快諾し、この地に草庵を建てます。そして揚命仙人から託された観音像をおまつりして1週間祈りをささげました。すると、水が一滴も流れていない枯れた場所であったにもかかわらず、建物のすぐそばから清らかな水が湧きだしました。」

「この清らかな水は、1年を通じて水は濁らず、冬でも水が絶えませんでした。このことから、清らかな水が絶えず湧出するお寺ということで、「清水寺」と名付けられ、観音様とご縁がつながる幸運の光がこの地から発せられたという逸話から、「瑞光山」という山号が定められました。」

「この清水寺の創建に関係して、実は近年いくつか明らかになったことがあります。」

「まず、清水寺が創建した年代についてです。先ほどお話しした通り、清水寺が創建されたのは西暦587年のこと。諸説ありますが、日本へ仏教が公に伝わったとされているのが清水寺創建の数十年前の6世紀半ばであるとされています。」

「『仏教伝来から数十年後に都から遠く離れた地に仏教が伝わっているだろうか?』皆さんもこのような疑問を抱くと思います。実は私もその一人で、本当かな...?と思っていました(笑)。」

「そのような中、昭和62年から平成4年にかけてこちらの根本堂の全面解体修理が実施され、この疑問の答えのヒントを得ることができました。この全面解体修理に伴い、根本堂が建てられている場所の地質調査が行われました。当時の調査の結果、4つの層があり、それぞれの層から建物の痕跡や遺物が見つかったと聞いています。」

「また、この調査に伴い、炭素年代測定法という年代測定手法を用いてそれぞれの地層の年代を調べてみたそうです。この結果は報告書などには記載されておらず非公式にですが、2番目に古いと推定される層が700年±50年という結果だったそうです。残念ながら、一番古い層の測定は当時の技術では難しかったようなのですが、2番目の層よりも古いことは確実ですから、今では胸をはって587年の創建と皆さんにお伝えしています。」
お前立・木造十一面観音立像

「続いて、『清水寺』のお寺の名前の由来である清らかな湧水についてです。清水寺を創建した尊隆上人が観音様に1週間祈りをささげたことで湧出した水ですが、1450年の歴史の中でその場所が分からなくなっていました。そして、おそらく手水舎の左側にある閼伽井堂のことではないかと考えられていました。」

「このことに進展があったのが、先程もお話しした昭和62年から平成4年にかけて実施された根本堂の全面解体修理でした。解体修理によって普段は見ることができない建物の基礎部分を調べたところ、なんと御本尊様がおまつりされているすぐ裏から井戸が発見されました。さらに驚くべきことに、その井戸は今でも現役で綺麗な水が湧き続けています。」

「また、考古学的な調査によって、現在の内々陣の同じ規模の桁行3間・梁間3間の規模のお堂から始まり、桁行5間・梁間5間、そして現在の桁行7間・梁間7間の大きさに発展したそうです。このように内々陣を基準に発展したという歴史を踏まえると、発見された井戸は桁行3間・梁間3間の最初期のお堂の位置にあわせてありますから、この井戸こそ、お寺の由来となる清らかな水が湧き出したところと考えています。ですので、この井戸を創建に関わる大切な存在として清水寺では考えており、現在、御本尊様にはこちらの井戸から汲んだお水を毎日お供えしています。」

約1450年前の逸話を伝えるように滾々と湧き続ける清らかな水。
普段は公開していない井戸を特別に見学させていただきました。

「こちらが発見された井戸になります。釣瓶(つるべ、井戸から水を汲む桶や桶を引き上げるために必要な装置全体のこと)を設けて、本堂内から水を汲めるようにしています。実際に汲んでみると、綺麗な水が湧いていることが分かりますね。このように、本堂の中から直接井戸水を汲むことができるお寺は珍しいかもしれません。」

◇山上に一大伽藍を形成した往時の清水寺

根本堂《国指定重要文化財/明徳4年(1393)建立》

「尊隆上人によって創建された清水寺。そのすぐ後の推古天皇5年(597)、推古天皇の夢中に清水寺の観音様が現れたといいます。そして、観音様の霊験を得た推古天皇は清水寺の境内の整備を命じ、鎮護国家の道場としたとされています。」

「そこからは少し上り調子だったようですが、 やはりいい時があれば悪い時もあり、その後荒廃をしてしまったそうです。その後、後に清水寺の中興開山とされる盛縁上人により堂宇を再興されたと伝えられています。そして慈覚大師円仁が唐留学の帰路にここへ立ち寄られたことを機に、清水寺は天台宗となったそうです。」

「朝廷や地元の豪族や領主などから信仰を集めた清水寺は、ますます発展をしていきました。武士が台頭した中世以降には中国地方随一の伽藍を誇ったとされ、山上に48坊の僧房が軒を連ねていたと伝えられています。」

「しかしながら、戦国時代になると戦乱の影響を受けることになりました。この辺り一帯は尼子氏という大名の勢力下だったのですが、尼子氏は現在の山口県を拠点として勢力を広げていた毛利氏と苛烈な勢力争いを繰り広げていました。清水寺は尼子方ですから、尼子氏と毛利氏の争いに巻き込まれ、毛利氏によってこちらの根本堂を残し全山焼討ちされてしまいました。その後、毛利氏の統治に代わると、毛利氏の援助を受けて復興が続き、江戸時代になると松江藩主の支援を受け、現在の境内が整えられていきました。」

◇清水寺の歴史を見守り続けてきた様々な仏様

戦国時代に戦乱の影響を受けた清水寺。
しかしながら、人々によって1000年以上の歴史を伝える様々な仏様や神様が伝えられています。
「根本堂の中央の厨子の内部におまつりしている仏様は、清水寺の御本尊様である十一面観音様になります。お名前の通り、頭上に複数のお顔をのせる観音様で、平安時代の終わり頃の12世紀に造立されたと考えられている仏様です。清水寺の御本尊様は珍しいお姿で、通常ですと私たちと同じ2つの腕を持つお姿ですが、御本尊様は4つの腕をお持ちの四臂十一面観音様です。」

「御本尊様は秘仏としておまつりしていますから、通常はそのお姿を直接お参りすることはできません。しかしながら、毎年お正月の3が日、4月29日~5月5日、そして7月17日に御開帳をしており、そのときは直接お姿をお参りすることができます。」

「皆さんご存知のように、全国には33年に一度、50年に一度の御開帳とされる様々な仏様がおまつりされています。ですので、清水寺の御本尊様は『よく会える秘仏の御本尊様』ですね(笑)。また御開帳は、今風の言葉で表すと『推しに会える』ようなものかな...?と個人的に思っていますので、皆さんもまた気軽にお参りいただけたらなと思います!」

「御本尊様をおまつりする厨子のまわりには、四方を護る四天王様をおまつりしています。こちらのお像は平安時代に造立された仏様で、彩色は江戸時代頃に施されたと考えられています。最近調査をしていただいたので、もしかしたら何か新しい発見があるかもしれませんね。」

木造四天王立像《左から増長天立像、広目天立像、多聞天立像、持国天立像》

木造十一面観音菩薩立像《国指定重要文化財》

「根本堂におまつりされている仏様以外にも様々な仏様が伝えられています。」

「宝物館におまつりされている十一面観音様は、平安時代の10世紀までに造立された仏様であると考えられており、国の重要文化財に指定されています。実は、もともとこちらの十一面観音様が秘仏の御本尊様としておまつりされており、現在の四臂十一面観音様は、井戸のある後陣に背中合わせでおまつりされる『裏観音』としてまつられていました。」
「また、平安時代の終わり頃に造立されたという阿弥陀三尊様もおまつりしています。こちらの阿弥陀三尊様は、もともと境内にあった常念仏堂というお堂にまつられていた仏様で、そのお姿に特徴的な点がいくつかあります。」

木造阿弥陀如来及び観音菩薩・勢至菩薩像《国指定重要文化財》

木造勢至菩薩像《国指定重要文化財》

「1点目は、両脇の観音菩薩様・勢至菩薩様の姿勢です。横から見ていただくと、お尻がやや浮いているように表現されていますね。この姿勢を一般に『大和坐り(やまどずわり)』とも言うようです。」

「この特徴的なお姿は阿弥陀様を中心に仏様たちが来迎する様子を立体的に表しており、両脇の観音菩薩様と勢至菩薩様のお姿は、まさに空中を飛んでいるお姿とされています。」
木造阿弥陀如来坐像《国指定重要文化財》

「2点目は、中央の阿弥陀如来様の胎内についてです。聞くところによると、阿弥陀如来様の胎内というのは、非常に意義深く、深厳なる世界であることを表現するために、 金箔や漆などを施すことがあるそうです。」

「それでは、こちらの阿弥陀如来様はといいますと。なんと銀箔が施されていました。おそらく、世界文化遺産にも登録されている石見銀山の影響なのだろうと考えられていますが。銀箔が施される仏様は非常に珍しいそうです。」
「続いての仏様は、大きな阿弥陀如来様。平安時代の12世紀に造立されたと考えられている仏様です。以前は金箔が表面に施されていましたが、「できるだけオリジナルに戻す」という修復の原則に基づいて、木の素地をあらわすお姿でおまつりされています。」

木造阿弥陀如来坐像(丈六仏)《国指定重要文化財》

「こちらの大仏様はたくさんの皆さんから愛されている仏様でして、いつのころからか、そしてなぜか『小遣いに困らない大仏さん』と皆さんから呼ばれています。どのような理由で呼ばれるようになったのかは分かっていないのですが、何かしらの霊験を伝える逸話があったのだと思います。ちなみに残念ながら私はまだ実感できていないですね...(笑)」

「また、数え年で1歳、つまり満0歳のお子さんが清水寺で御祈祷された際は、こちらの大仏様の前での写真を許可しています。お子さんを交えてご家族やパートナーの皆さんのこれからの人生が幸多きものになりますようにという想いでこの撮影を始めたのですが、なぜか、ご家族やパートナーの方々がお子さんと写真を撮るのではなく、私たち僧侶とお子さんとの写真となることがほぼ百バーセントです(笑)」

「この現象は私たちの想定とは少し異なりますが、写真撮影や宝物館の公開などを通して様々な皆さんとお話しすると、皆さんが大仏様を大切に思っていただいていることを感じ、清水寺の僧侶として非常に嬉しく思っています。」

◇根本堂の御本尊は大仏様だった?根本堂の謎に迫る

現在、根本堂の中央におまつりされている四臂十一面観音様。
実は当初から根本堂の中央に観音様がおまつりされていたのかは謎なのだそう。

近年、現在宝物殿にまつられている大きな阿弥陀如来様が、かつて根本堂の中央におまつりされていたのではないかという説があると清水谷師は語ります。

「皆さん根本堂の内陣や内々陣を見渡してみると、壁などがなく開放的な印象を受けませんか?この特徴が、根本堂に大仏様がまつられていたという説をひもとくヒントになるのだそうです。」

「天台宗の総本山である比叡山延暦寺。比叡山で行われる修行の中に『常行三昧(じょうぎょうざんまい)』という修行があります。どのような修行かといいますと、お堂の中央におまつりされている阿弥陀如来様のまわりを「南無阿弥陀仏」と唱えながらぐるぐると周回する修行で、今でも90日間行われます。」

「それでは、中央におまつりされる仏様を周回するという視点でこちらの根本堂を見てみましょう。障害物となる壁などがなく歩きやすそうですよね。また、井戸のある後陣と呼ばれる部分は通常よりも広く設計されています。ですから、余裕をもって周回できるようにしているのではないかと考えられているそうです。」
木造摩多羅神坐像《国指定重要文化財/嘉暦4年(1329)覚清作》

「そして、もう1つ切り口となる点があります。それこそが「秘神」とされる摩多羅神(またらじん)様です。」

「摩多羅神様は阿弥陀如来様と深い関係がある神様で、先ほどお話しした常行三昧が行われる道場では、阿弥陀如来様の後ろにおまつりされ『後戸(うしろど)の神』と呼ばれている神様です。」

「実は、清水寺ではこの摩多羅神様をおまつりしています。現在は宝物殿にておまつりしていますが、もしかしたら、根本堂の後陣におまつりされていたのかもしれません。」
伝えられている面の数々

「摩多羅神様は芸能の神様としても知られていますから、先ほどお話しした後陣の広い空間は、阿弥陀如来様の後ろにまつられていた摩多羅神様に舞を奉納する場所だったのではないかと推測されている研究者の方もいらっしゃいます。この推測を示すように、清水寺には古い面が複数伝えられています。」

「この根本堂の謎に関するいくつかの説は非常に歴史ロマンがあり興味深いのですが、残念ながら、戦乱によって焼失してしまい古い史料はほとんど伝えられていないので、直接的な証拠は未だ見つかっていません。また、根本堂の中央の厨子と根本堂の関係を建築的な視点で見てみると、根本堂とこの厨子は大きさが合っていることから、当初から観音様がおまつりされていたのではないかという説もあります。」

「当初の根本堂にはどのような仏様がまつられ、どのような祈りの空間が広がっていたのか、さらに謎は深まりますが、もしかしたら将来明らかになることもあるかも知れませんね。」

◇秘神・摩多羅神様のお姿を伝える

「先ほど登場した秘神・摩多羅神様。実は私たち僧侶も発見されるまで摩多羅神様がおまつりされているとは知りませんでした。その発見時のエピソードも劇的なものでした。」

「現在では樹木に覆われてしまっていますが、護摩堂の近くに階段があります。その階段を登った先に護法堂という建物が建てられていました。護法堂の内部は今いる僧侶も見たことがなく、詳しいことは分かりません。」

「護法堂の内部にまつられていた摩多羅神様のお像が発見される1つのきっかけとなったのが、今から約40年以上前の出来事でした。このとき、清水寺一帯を大雪が襲い、大雪の重さにより護法堂近くの大木が倒れ、護法堂に直撃してしまいました。」

「大木が直撃した護法堂は木端微塵、しかしながら幸運なことに内部におまつりしていた摩多羅神様のお像は手に持っていた鼓を除いてほぼ無傷でした。おそらく、木が上手い具合に倒れ、その弾みで厨子の扉がパカッと開いて、摩多羅神様のお像だけが外にコロンと出たのではないかと聞いています。この時に、清水寺のお坊さんたちは初めて摩多羅神様のお姿を確認したと聞いています。」
摩多羅神様が持つ鼓

「仏様のお姿とは異なり、中国風の帽子を被り、日本の狩衣を身にまとう独特のお姿ですから、仏様ではなく神様のお像であると当時のお坊さんたちは思ったそうですが、どのような神様であるのかは分かりませんでした。そのため、木端微塵になってしまった護法堂の代わりに宝物館にお移し、約40年間皆さんに公開していました。」

「時は流れ、2008年、このお像が摩多羅神様であると判明するさらなる転機がありました。別の仏様の調査に訪れていた研究者の方がこのお像を発見し、後に詳細な調査をしたところ、中世に遡る摩多羅神様のお像であることが判明しました。そして、あっという間に国の重要文化財に指定していただきました。」

ここで、秘神であるべき摩多羅神様のお姿を公開し続けるかお寺としても対応に苦慮されたそう。

「天台宗のお寺でおまつりされている摩多羅神様のほとんどは、人前に姿を表さない秘神としてまつられています。しかしながら、清水寺では約40年間皆さんに公開していました。果たして今後摩多羅神様を公開し続けるべきなのか、非常に大きな問題でした。」

「様々な議論を重ねた結果、やはり40年間皆さんにお姿をお参りしていただいていたということを重視して公開を続けることとなりました。ただ秘神であることへのせめてもの配慮として奥の方でひっそりと公開をしております。」

数百年の歴史を越えて私たちに微笑みを浮かべる摩多羅神様。
その微笑みには、清水寺で育まれる人々の営みを穏やかに見守るあたたかさを感じました。

◇清水寺のシンボル・三重塔

三重塔《島根県指定文化財/安政6年(1859)建立》

根本堂からさらに石段を登ると、高さ33.3mの三重塔(島根県指定有形文化財)が見えてきます。現在の塔は2代目で、安政6年(1859)に建立された建物です。初代の三重塔は永禄・天正の尼子毛利の合戦により焼失してしまい、江戸時代に清水寺の再興を願って発願されたといいます。

「こちらの三重塔は、全国でも珍しい三層目まで登る事のできる三重塔です。一般の方々が最上層まで登れる木造の多宝塔は、日本全国的に見ても珍しいと思います。地元の方々とお話しすると、三重塔や五重塔は登れるものだと思っていたら、他の場所では登れなかった...というお声をよくお聞きしますね。」

「実は、この三重塔を建立した棟梁は宮大工の方ではなく、地域の大工さんによって建てられました。建立当初から地域ともにある三重塔ですので、「清水寺といったら三重塔」と皆さんに思っていただいていることは非常にありがたいことです。清水寺そして安来のシンボルとして大切に伝えていきたいです。」
五智如来様を中心に仏様の世界が広がっている初層。
人一人分の梯子のような階段を慎重に登ると、2層目と3層目にたどり着きました。
恐る恐る軒下に出てみると、眼下には能義平野、遠くには日本海を眺望することができました。

地域のシンボルとして山に建つ三重塔の姿は、地域の皆さんの心の拠り所となっているのでしょう。
創建されてから約1450年、地域とともに祈りを繋いできた清水寺の悠久の歴史を体感することができた訪問となりました。

◇参加学生の感想

 今回、清水寺への訪問を通じ、自然を手がかりとして知ることができる地域環境の歴史、また秘められた文化や日本の枠組みを超えた伝承を伺いました。

 生きている間の安穏を祈ると同時に死後の安楽を祈ってきた先人たちの思いに触れると、神仏によって「生かされている」という観念が強かったのではないかと思います。現代社会ではそうしたものは隠れがちになっていますが、私たちが自ずと感じている自然への畏怖は、古来より祈りを込めることによってその脅威は慰められ、その力は慈しみを与える存在へと転じるのだと思います。このような先人たちの自然への眼差しを強く実感した訪問となりました。

奈良教育大学 3年
清水寺
〒692-0033 島根県安来市清水町528