泰澄大師と慈慧大師の祈りを伝える鯖江の名刹「中道院」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

泰澄大師と慈慧大師の祈りを伝える鯖江の名刹「中道院」を訪ねる

中道院の寺域は斜面の高みに広がり、多くの車が行き交う道路から石段を上って本堂のある高みへと至ります。見上げると、電車の軌道が本堂とほぼ同じ高さを横切り、まるで屋根の上を列車が空へ滑っていくかのように映りました。
過去と現在が一枚の景に重なりあう――そこに「時空の揺らぎ」を感じさせる中道院の魅力を、住職を務める西村智晃師と西村智秀師にご案内いただきました。

山門をくぐり、本堂の前に立つと、まずの巨木の幹の置き物が目に留まります。
「これは御神木として境内を見守り続けてきた木でしたが、残念ながら56豪雪の際に倒れてしまいました。本堂前に倒れた幹の一部を置いて、往時の堂々たる姿を偲んでいます。」

命が絶えた後も、人々に迫力ある姿を見せる御神木。
中道院が紡いできた悠久の歴史を見守り続けてきた御神木との邂逅を経て、中道院の歴史へと歩みを進めます。

◇中道院の縁起 泰澄大師による創建と慈慧大師による復興

西村ご住職は柔和で穏やかな人柄で、落ち着いた雰囲気の中、丁寧にご案内してくださいました。

「中道院が創建されたのは、養老2年(718)のこと。越の大徳と呼ばれた泰澄大師がこの地に三嶺山玉林寺というお寺を創建したことに始まると伝えられています。当時の詳細は分からない部分が多いですが、往時には三十六坊が甍を並べる大寺院であったそうです。しかしながら、時の流れには逆らえず次第に衰退してしまったそうです。」

「創建から約250年後の貞元元年(976)。荒廃していた玉林寺にある高僧が訪れたといいます。その高僧が、第18代天台座主を務めた慈慧大師良源です。慈慧大師は荒廃していた玉林寺の姿を憂い、復興のために当地に約9か月間留まったと伝えられています。」
『霊地山』と刻まれた扁額 扁額の下には3つの欄間が本堂を彩る。この3枚の欄間は明治の大火の際に焼失を免れたもので、寛永20年(1643)に建立された前本堂を彩っていたものであるという。

「伝えられているところによると、お寺の後ろにそびえる長泉寺山が比叡山を、お寺の前の池が琵琶湖を偲ばせる霊地であり、境内からは清らかな泉が湧き出していたことから、慈慧大師は『三嶺山玉林寺』というお寺の名前を『霊地山長泉寺』という名前に変えたと伝えられています。中道院はこの長泉寺を構成していた子院の一つで、現在まで歴史を伝えている唯一の子院です。」

「長泉寺はこの地域を代表する寺院の一つであったと伝えられていますが、残念ながら中世に繰り広げられた戦や天災によって多くの記録が失われてしまいました。さらに近世以降も火災の被害をたびたび受け、最近だと明治頃に大火に見舞われ、本堂をはじめ境内全域が焼失してしまったと聞いています。何とか仏様はお逃げいただきましたが、中道院の歴史を知る数少ない史料のほとんどがこの大火によって焼失してしまったそうです。」
御本尊・阿弥陀如来立像(鯖江市指定文化財)

「ですので、本堂におまつりされている平安時代の阿弥陀如来様(鯖江市指定文化財)をはじめとする仏様や本堂を荘厳している葵の紋の幕など、それぞれにどのような歴史や由緒があるのか、住職である私にもわからないことが多いです。以前、檀家総代の方が様々な場所に点在して伝えられていた史料をもとに『中道院史』という書籍を作成していただき、中道院の歴史をまとめてくださいました。ですので、この『中道院史』に書いてあることが現在判明している本坊の歴史ということになりますね。」

その言葉には、欠けを隠さず今あるものを伝える誠実さがにじみます。その誠実さこそが、人々を動かし、学者や檀家、地域の方々が自発的に史料編集や研究に携わる支えになっているのだと感じました。

戦乱や大火などの困難に遭遇しながらも、大切に守り伝えられ、中道院の歴史を今に伝える仏様や文化財。
来歴や年代が不明なものも少なくないですが、それゆえに私たちの想像力を掻き立てました。

◇周辺の宗教的景観 白山信仰と中道院

本堂 明治25年(1892)に前本堂が焼失後、大正10年(1921)に再建された建物であるという

中道院の歴史をたどると、周辺の宗教的景観との結びつきが浮かび上がります。

「中道院は白山信仰と関係の深い寺院でもあります。泰澄大師が中道院の前身である玉林寺を創建した際、白山権現の本地仏である十一面観音様をお招きし、お寺をお守りする守護神としてまつったとされています。」
十一面観音坐像

「現在も泰澄大師が造立したと伝えられている十一面観音様をおまつりしています。元三大師堂におまつりする十一面観音様は、珍しい座ったお姿の坐像で、頭部を金属で造立、体を木造とする珍しいお像です。白山信仰が盛んであった福井県内には、あちこちに白山神社があります。ここ中道院にも明治時代までは境内の中に白山神社があり、こちらの十一面観音様は白山神社の御神体であったと伝えられています。」

「また、慈慧大師は復興の際に白山神社の前に樒と薄墨桜を植えられたそうです。特に樒は昭和27年頃までは伝えられていたそうで、幹は八方に分かれ、周囲が50cmから70cmにもなる大樹であったといいます。残念ながら現在は伝えられていませんが、白山信仰が中道院でも大切にされていたことが分かると思います。」

◇すりばちやいと 慈慧大師の祈りを伝える

『すりばちやいと』実際に使用されている護摩炉

中道院を象徴する年中行事のひとつが、年2回執り行われる『すりばちやいと(御夢想灸)』です。

「『すりばちやいと』とは、頭上にすり鉢のような護摩炉を被り祈願をする中道院の年中行事で、正式には『御夢想灸(ごむそうきゅう)』と言います。現在は年に2回、2月20日と3月2日に執り行っています。この『御夢想灸』という名称と実施日にも歴史が秘められています。」

「『すりばちやいと』の歴史は平安時代、慈慧大師がお寺を復興したときにまで遡ります。慈慧大師が境内の復興を実施していたとき、この地域で疫病が大いに流行したそうです。そこで、地域の人々は比叡山から当地を訪れていた慈慧大師を頼ったのでした。」

「慈慧大師は、参詣した人々の頭に護摩炉をかぶせ、その上に灸をすえて祈祷を続けたそうです。すると間もなく流行していた疫病は鎮まり、地域の人々は大いに喜んだと伝えられています。慈慧大師がこの修法を初めて実施したのが、太陽暦で2月20日のこと。これが実施日の1つの由来になります。」

「その後、慈慧大師が修したこの修法は長泉寺の代々の住職に秘法として受け継がれていたそうです。しかしながら、相次ぐ戦乱の影響で次第にお寺は衰退してしまい、慈慧大師の修法もいつしか途絶え、知る者が誰もいない状態になっていたといいます。」
「この状態が変化したのが、多くの戦乱や一揆が勃発した戦国時代のことでした。」

「元亀三年(1573)に勃発した織田・朝倉の戦い、天正2年(1574)に勃発した一向一揆により堂塔伽藍が焼失してしまったために、当時の住職を務めていた秀運法印は、先ほどご紹介した十一面観音様と慈慧大師が地域の人々に請われて自ら造立したと伝えられている慈慧大師坐像を背負って、現在の鯖江市河和田町付近の大師谷に逃れていました。」
木造慈慧大師大師坐像 秘仏であるため厨子の内部におまつりされている

「戦から逃れるという厳しい生活です。一緒に逃れていた人々はその生活に疲弊し、人々の間で疫病が流行してしまいました。秀運法印は、人々の苦しみを解消するため、慈慧大師坐像に対し疫病が鎮まるように日々祈祷を続けていたそうです。するとあるとき、秀運法印の夢枕に慈慧大師がお出ましになられました。そして、疫病を克服するために、途絶えていた秘法を夢の中で秀運法印に授けたといいます。」

「夢から覚めた秀運法印は早速護摩供を一千座行い、その灰を混ぜて護摩炉を作りました。そして、慈慧大師から授けられた通り、護摩炉を人々の頭の上に被せ、その上で灸をすえると、たちまち人々の間で流行していた疫病は鎮まりました。」

「夢の中で慈慧大師から授けられた灸ということで『御夢想灸』と称し、護摩炉がすり鉢のようにみえるため、いつしか『すりばちやいと』と呼ばれるようになりました。また、秀運法印がこの秘法を再興して初めて実施した日が太陽暦で3月2日になります。これがもう1つの実施日の由来となりますね。」

「秀運法印がおまつりしていた慈慧大師坐像は現在も元三大師堂の御本尊様としておまつりしています。秘仏としておまつりしているため、そのお姿にお参りすることができるのは33年に一度の御開帳の時と、17年に一度の中開帳の時だけとなります。」
『すりばちやいと』 実際の様子

戦国時代に再興されてから約400年。
無病息災を願う人々により伝えられてきました。
戦後の高度経済成長期には、この修法に新たな御利益も加わったとご住職は語ります。

「『すりばちやいと』は無病息災を願う修法ですが、頭に護摩炉を被る姿から、被れば頭が良くなるという話が広まり、受験生が集まるようになりました。今では無病息災だけでなく、志望校合格を願う学生やそのご家族も訪れています。」

『すりばちやいと』が執り行われる日には、数百人の人々が中道院を訪れるといいます。中道院のある鯖江市だけでなく、福井市や大野市、勝山市、さらには遠く県外からも訪れるとのこと。
さらに、多くの人々が家族や親戚、地域を代表して訪れるため、御祈願の御札は実際に中道院を訪れている人数以上に膨らむのだとか。
『すりばちやいと』がたくさんの人々の拠り所となっていることが伺えます。

「今回皆さんの前に実際に使用している護摩炉をご用意しました。ぜひ持ち上げてみてください。」

実際に持ち上げてみると、ずっしりとした重さを感じます。

「実際に持ち上げてみると、重量感がありますよね。器の重さは数キロ。以前は護摩炉を人が抱えて頭上にかざしていましたが、護摩炉を持つ人の負担や被る参拝者のために、現在は金具で吊り下げる形式に改めています。」

「この護摩炉はいくつかあり、皆さんに持っていただいているものは昭和42年(1967)に新しく作られた護摩炉です。もっと古い護摩炉も現役で使っていて、確か明治期のものだったと思います。」

「外側にはたくさん記号のようなものが施されていますね。こちらは梵字といって一つ一つが仏様を表しています。」

「以前、それぞれの梵字がどのような仏様を表しているのか調べた方がいらっしゃいます。その方によると、それぞれの梵字は北斗七星や星々を神格化した神々を表しているようです。」

「ただ、全体として何を表しているのかは不明です。ですから、皆さんの中で分かる方がいたら教えてください。」
護摩炉に施された梵字の配置はまるで星座のよう。
刃の痕には彫り師のリズムさえ感じられます。
様々な梵字から構成される護摩炉は、仏教的な宇宙観を示しているようにも見えます。
梵字が表す星々。灸が表す火。
これらがどのような意味で組み合わさり祈りを紡いでいるのか、その神秘的な魅力に惹かれました。

◇梵鐘と仏像 戦争の記憶を伝える

鐘楼や境内に立つ十一面観音像について語るとき、住職の表情は少し陰りを帯びました。
「太平洋戦争の時に、お寺の梵鐘や銅造の仏様は供出せよと言われてね。中道院では梵鐘と銅造の十一面観音様を供出しました。」
そう静かに振り返ります。

「私の父である先代住職は、「郷土の平和と戦没者のため、供出した梵鐘と観音様を再建しなければならない。」と戦後すぐに発願して、梵鐘は昭和23年(1948)に、十一面観音様は昭和33年(1958)に再建することができました。」

戦争中、日本全国の寺院で梵鐘や金物を供出され、多くは二度と戻らなかったといいます。
現在も響く音は、地域の時間を伝えるだけでなく、失われても取り戻そうとする人々の意志そのものを伝えています。

◇境内を守る営み 紡がれる中道院の歴史と文化

お寺の営みは、歴史や儀礼だけでなく、日々の維持管理に支えられています。住職が語ってくださったのは、境内の木々や草との静かな格闘でした。

「10年ほど前、嵐で境内の大木が倒れたことがありました。幸い本堂や元三大師堂には直撃せずにすみましたが、もし建物の屋根や電車の線路に倒れていたら大変なことになっていました。」

また、境内の草取りも日常の大きな課題です。
「朝から草取りに出ても、すぐにまた生えてきて腰が痛くなってしまう。」とご住職は苦笑されました。
檀家さんや地域の方が手伝いに来てくれることもありますが、夏場は特に雑草が繁茂し、管理は容易ではありません。
境内を通る福井鉄道の線路

かつては山中の寺院だった中道院も、周囲の開発が進み、今では市街に溶け込んでいます。しかし、住職の言葉からは、木を伐り、草を刈り、境内を保ち続ける営みが、今もなお「寺を守ること」の根幹にあるのだと伝わってきました。

帰り際、本堂前の大杉の幹をもう一度見つめました。
その木目と色合いから、倒れる以前の姿を知らない私にさえ、その力を確かに伝えてくれるようでした。

文化の伝承もまた同じです。謎が解ききれなくても、欠けや余白があっても、そこに人を惹きつける魅力が息づいています。

大木が倒れても、その幹が人を鼓舞し続けるように。

文化の伝承もまた、形を変えてなお力を放ち続けるのだと、石段を降りながら強く感じました。

◇参加学生の感想

 現在のご住職は凛として威厳があり、酷暑の中、境内の尊像や建物を丁寧にご案内してくださいました。見どころは密度高く、由来の一部は継承の事情から今は確かめ難い――その「欠け」がむしろ歴史の息づかいを濃くし、想像を遠くへと運んでくれることを学びました。
 とりわけ、『すりばちやいと』に刻まれた梵文の資料をご提示いただき、手に取って拝見できたことが忘れられません。仏教と天文が交わる視座に触れ、他寺では得難い驚きと厚みを感じました。紙の重みから研究の力を実感すると同時に、この未完の断片こそが多くの人を探究へと招き入れているのだと気づきました。

立命館大学 博士課程
中道院
〒916-0024 福井県鯖江市長泉寺町2-7-7