いろり端
探訪「1200年の魅力交流」
お薬師さまのもとに多様な人々が集い歴史を紡ぐ名刹「瑠璃寺」を訪ねる

瑠璃寺(るりじ)は、長野県下伊那郡高森町にある天台宗の寺院です。国の重要文化財に指定されている薬師瑠璃光如来三尊佛をご本尊とし、その守護神である日吉神社が同じ敷地内におまつりされる神仏習合のお寺としても親しまれています。南信州の飯田・下伊那地方では大きな幌(ほろ)を被った屋台獅子という形態の獅子舞が親しまれていますが、瑠璃寺に伝えられている大島山の獅子舞はその礎であるといいます。今回、多様な文化が育まれている瑠璃寺を、瀧本慈宗ご住職にご案内していただきました。
ご住職は柔らかな雰囲気を纏っていながら明朗快活な印象で、楽しくお話しさせていただきました。瑠璃寺の歴史や魅力、そしてご自身の覚悟や目標を熱く語る様子には、胸を打たれました。
ご住職は柔らかな雰囲気を纏っていながら明朗快活な印象で、楽しくお話しさせていただきました。瑠璃寺の歴史や魅力、そしてご自身の覚悟や目標を熱く語る様子には、胸を打たれました。
歴史:名だたる武将との接点があった瑠璃寺

「瑠璃寺が創建されたのは、天永3年(1112)のこと。比叡山で修行をされていた観誉僧都(かんよそうず)というお坊さんがこの地にやって来て、奥の院堂所に一宇を構えました。その後、文治2年(1186)には、現在の坂本という地に移転が完了しました。瑠璃寺が創建した場所は山深い場所ですので、人々との距離が近い現在地に移転したのだと思います。」
「この移転のおかげかはわかりませんが、移転の後に瑠璃寺には多くの武将が訪れご参拝いただきました。例えば、建久8年(1196)には 善光寺をお参りした源頼朝公が瑠璃寺を訪れ、寺領や後にご覧いただく3本の桜を寄進していただきました。」

「焼討ち際、当時の瑠璃寺のお坊さんは仏さまや寺宝、記録類とともに瑠璃寺創建の地である奥の院堂所に移り、それから約100年かけてこの地に戻ってきました。この地に戻ってきた年が、江戸時代に入った寛文12年(1672)のこと。この年に現在の本堂(薬師堂)が完成し、ついに瑠璃寺のお坊さんたちの願いが叶ったのでした。」
今回は訪れることができませんでしたが、瑠璃寺から4kmほどの場所に、かつて修行場となっていた不動滝があります。そのふもとに瑠璃寺発祥の地(後の奥の院)があるそうです。その地からは建物の礎石等は見つかっていないそうですが、不動滝への道中にその地を見ることができるそうです。
歴史の証拠となる瑠璃寺に伝わる記録類
瑠璃寺の境内には大島山区民会館が建てられ、地区の皆さんが集う場所として幅広い活動に利用されています。今回、大島山区民会館に併設された展示室を見学させていただきました。
展示物の中には、武田信玄からの寄進物がありました。当時の瑠璃寺の住職を兼務していた比叡山正覚院の豪盛僧正に宛てられた条目の内容について、精巧な複製品をもとにご説明いただき、さまざまなことが読み取れました。
展示物の中には、武田信玄からの寄進物がありました。当時の瑠璃寺の住職を兼務していた比叡山正覚院の豪盛僧正に宛てられた条目の内容について、精巧な複製品をもとにご説明いただき、さまざまなことが読み取れました。

「こちらの条目は、永禄6年(1563)頃に武田信玄公が瑠璃寺の住職を兼務していた比叡山正覚院の豪盛僧正という方に宛てたものです。この条目で信玄公が何を願い出ているのかですが、一つは、四度加行(しどけぎょう)が未熟なので、ぜひ習わせていただきたいということ。それから、戦いの神様である毘沙門天を奉る大威徳法という秘法を伝授してもらいたいと。そして、伊那郡の瑠璃寺の所領地については、今までと同じように使っていただいて構わないと書いてあるんですね。この地にとって武田信玄は侵略者で、滅ぼされた豪族たちもいる中、瑠璃寺にはかなり気を遣っています。色々教えてほしいと言っているわけですから。」

「この条目の宛先である豪盛僧正は、当時有名なお坊さんでした。ですので、武田信玄公がこの条目を送る以前に上杉方と繋がりがあったそうです。上杉家側の記録である『上杉家文書』を見てみると、上杉方から上杉方の武運長久、そして敵対していた武田信玄公、北条氏康公の呪詛依頼があったようです。先ほどお話しした“これ以前輝虎祈念の所”とは、上杉方から豪盛僧正に依頼されたこの祈願であると考えられています。」

「敵の敵は自分の味方。武田信玄公の敵である織田信長と敵対していた比叡山のお坊さんである豪盛僧正は、武田信玄の味方ということです。当時を賑わした武将や僧侶が東山道を行き来しながら、瑠璃寺という場で接点があったと考えると非常に面白いですよね。瑠璃寺はその後、織田信長の焼討ちに遭いまして全山消失します。しかし、仏さまや寺宝、記録類は当時のお坊さんたちの尽力により奥の院堂所に移され、難を逃れました。」

「そのような視点で見てみると、上の口の部分は少し歪み全体的に傷がついています。おそらく、焼討ちによる火災により歪み、それが後の時代に発掘され、焼討ちの生き証人ということで、瑠璃寺に納められたのだと思います。」

「また、今回焼討ちを逃れた仏画も展示しています。仏画の中で特徴的なのが、こちらの「聖衆来迎図」になります。一般的な聖衆来迎図ですと、お亡くなりになった方の元へ阿弥陀さまを筆頭に様々な菩薩さまがお迎えに来迎する様子が描かれますが、この聖衆来迎図の特徴は図の中央、左側に大きく描かれている阿弥陀さまと対面するように右側に大きく描かれている仏さまとその両脇にすこし小さな菩薩さまはお二人いらっしゃいます。この大きな仏さまはお釈迦さま、小さな菩薩さまが文殊菩薩さまと普賢菩薩さまでして、亡くなった方を送り出しているということを表しています。」
「このように、お釈迦さまが亡くなった方を送り出し阿弥陀さまが迎えることを発遣(はっけん)といいますが、来迎図にこの発遣を取り入れた類例は非常に珍しいそうです。こちらの瑠璃寺のもの以外では、四国のお寺に所蔵される1つだけしか類例がなく非常に貴重な仏画になります。」
「このように、瑠璃寺には焼討ちを逃れた貴重な仏画が伝えられており、そのうちのいくつかは高森町の文化財に指定されています。」
「このように、お釈迦さまが亡くなった方を送り出し阿弥陀さまが迎えることを発遣(はっけん)といいますが、来迎図にこの発遣を取り入れた類例は非常に珍しいそうです。こちらの瑠璃寺のもの以外では、四国のお寺に所蔵される1つだけしか類例がなく非常に貴重な仏画になります。」
「このように、瑠璃寺には焼討ちを逃れた貴重な仏画が伝えられており、そのうちのいくつかは高森町の文化財に指定されています。」
本堂と日吉神社:神仏混交の歴史

瑠璃寺 本堂(高森町指定文化財)

「記録には源頼朝公が瑠璃寺に3本の桜を寄進したという記述があります。この3本の桜とは、本堂前にある枝垂れ桜、瑠璃の里会館の横にある彼岸桜、鐘楼横にある地主桜のことを指します。代替わりをしてきていますので、もとのものがそのままあるわけではありませんがそれぞれ立派な桜でして、春には美しい花が咲きます。瑠璃寺の名所としてたくさんの方々に愛されている桜です。」

「今、瑠璃寺の本堂も日吉神社も東側を向いております。しかし、江戸時代には日吉神社の社殿は南側、瑠璃寺の本堂を向いておりました。そして、瑠璃寺の本堂から直接日吉神社に上がれる石段が付いておりました。江戸から明治に移るときに神仏分離令が出まして、多くのお寺と神社が分離させられました。そしてそこから廃仏毀釈運動に身を投じる人々も現れ、お寺に関係する仏像や宝物が失われました。ここ瑠璃寺では、廃仏毀釈運動の被害を免れるために神社の南側に設けられていた石段を取り外し、社殿を東側に向け変えて、両者は偶然隣同士にいただけというように見せたと伝えられています。」
先人たちの工夫の結果、瑠璃寺創建の際に観誉僧都が瑠璃寺の鎮守としてまつった日吉神社が他所へ移ることなく、今でも瑠璃寺を守る鎮守として瑠璃寺とともに歴史を紡いでいます。
先人たちの信仰の力に圧倒されました。

「薬師三尊さまにお参りする前にここで皆さんに覚えていただきたいことがあります。それは、正面のお厨子の大きさです。しっかりと目に焼き付けられた方は薬師三尊さまのもとへ向かいましょう。」
瑠璃寺の主尊・薬師三尊さま:霊木から今まさに姿を現した姿を表す
薬師三尊さまがおまつりされている収蔵庫に入った学生たちから、おもわず息がもれます。
それは、薬師三尊さまのあまりの美しさのためでした。
それは、薬師三尊さまのあまりの美しさのためでした。

「こちらの中央におまつりされている仏さまが瑠璃寺の主尊である薬師三尊さまです。様式は、定朝様式、ヒノキの素地仕上げ割矧(わりはぎ)造りという技法で造立されています。木の素地そのままを活かしていますので、漆が塗ってあったり金箔が貼ってあったりはしません。」
「墨が螺髪(らほつ)、眉、瞳、髭に使われていて、唇にわずかに朱が認められる程度です。それ以外に体に黒っぽく見えているものは木からしみ出した自然な色で、着色されているということではありません。」
「墨が螺髪(らほつ)、眉、瞳、髭に使われていて、唇にわずかに朱が認められる程度です。それ以外に体に黒っぽく見えているものは木からしみ出した自然な色で、着色されているということではありません。」

「なんと以前は61年に1度執り行われる御開帳の際にしかお姿を直接お参りすることはできなかったと言われています。江戸時代になってから30年に一度の中開帳が設けられましたが、数十年前までは今のようにいつでもお姿をお参りすることはできませんでした。それだけ皆様に大切にされてきた仏さまなのです。」
薬師三尊さまはお顔が幼い印象ながら切れ長の目で、遠くから見るとお姿の美しさに惚れ惚れし、近くで見ると木目がよく分かり、美しさを増幅させていると感じました。お姿が美しいと感じる理由には、秘密がありました。

「日光菩薩さまと月光菩薩さまはまっすぐ立っておらず、体が傾いているでしょう。それぞれ一体だけで見てみると何とも落ち着きがありません。」
「つまり、三体揃ったときに初めてバランスが取れるように造られています。日光菩薩さまと月光菩薩さまを薬師如来さまに寄せていくと、蓮の花が開くようなイメージで造られているそう。部分的にバランスを崩しながら全体の調和を生む、典型的な平安仏という言い方をされます。」
「つまり、三体揃ったときに初めてバランスが取れるように造られています。日光菩薩さまと月光菩薩さまを薬師如来さまに寄せていくと、蓮の花が開くようなイメージで造られているそう。部分的にバランスを崩しながら全体の調和を生む、典型的な平安仏という言い方をされます。」

比叡山の横川中堂におまつりされている観音さまと瓜二つと感じられる瑠璃寺の観音菩薩さま。
その美しいお姿から、様々な人やモノが往来する東山道の近くに七堂伽藍を構えた瑠璃寺と比叡山との繋がりを感じました。
「ここで瑠璃寺の創建の時の逸話をご紹介します。観誉僧都がこの地を訪れた際、里に宿をとり、夢でお告げを受けたそうです。夢のお告げに従い山に入るとお薬師さまの姿が現れたと伝えられています。」
「この逸話をふまえると、瑠璃寺の創建より以前に薬師三尊さまはすでにこの地におまつりされていたとも考えられます。文化庁の見解では、瑠璃寺が創建された天永3年(1112)よりおよそ100年古い仏像ではないかということでした。」
「この逸話をふまえると、瑠璃寺の創建より以前に薬師三尊さまはすでにこの地におまつりされていたとも考えられます。文化庁の見解では、瑠璃寺が創建された天永3年(1112)よりおよそ100年古い仏像ではないかということでした。」

「詳しくお話ししますと、お薬師さまの頭の真ん中から後ろが白く塗り残されており、背中には木の大きな節が2つむき出しになっております。普通は節のある木は使わず、あったとしても隠す技法を用いるのですが、あえてむき出しのままになっています。これは、まだ木である、今まさに仏に姿を変えようとしている神が宿った木であるという表現であると言われています。」
「こうした化現仏信仰が色濃く表される仏さまは、定朝様式が流行した時代よりも前の仏さまに多いそうです。ですので、瑠璃寺のお薬師さまは、化現仏信仰と定朝様式が混在する非常に重要な仏さまとしても注目を集めています。」

「先ほど皆さんがご覧になった厨子内部の大きさとこちらの薬師三尊さまの大きさを比べてみましょう。明らかに、厨子内部の大きさが小さいように思えませんか?実際、薬師三尊さまをこちらの収蔵庫にお移しする前、あの厨子の内部におまつりしていたのですが、かなり密集しておさめられていました。ですので、こちらに移動する際にとても大変だったと記憶しています。」
「これほど立派な薬師三尊さまですから、もっと立派で大きなお厨子にゆったりとおまつりしてもよかったはずです。なぜ、密集して厨子の内部におまつりされていたのでしょうか?その答えは厨子の役割にありました。ご縁のある仏師の方に教えていただいたのですが、厨子は仏さまを隠すためにあるのではなく、仏さまを地震から守る耐震装置としての役割があるそうです。大きな地震があったときに仏像が倒れないように、倒れるだけの余裕を持たせず、きっちり造ってあるのだそうです。」
「しかしながら、薬師三尊さまを未来へ伝えるために、薬師三尊さまを厨子から出してこちらの収蔵庫に移しました。厨子という最高の耐震装置なしに、どのように地震からお守りすればよいのだろうか、いろいろ模索をしました。そして現在、薬師三尊さまの下には最新の免震装置が設置していただいております。長野県は地震が多い土地ですが、この免震装置のおかげもあり、仏さまが倒れることもなくおまつりすることができています。」
厨子の隠れた役割に驚いたとともに、仏像をこのままの形で残していきたいというご住職の想いが伝わってきました。
瑠璃の里会館に込められたご住職の想い

「住職に正式に就任して市役所を退職したときに、これから寺に入って本格的に坊さんをやろう、そして皆さんに開かれた瑠璃寺を目指そうという覚悟で建てました。」

「ここはお参りにみえた方が最初に立ち寄って頂く場。御朱印やお守りをお授けするとともにいろいろな活動を展開していく、そんな場にしていきたいと思っております。」
住職としての覚悟と、瑠璃寺を守って後世に残していくうえでの志がはっきりしていて、物事に丁寧に向き合う誠実さを感じました。住職という立場に責任を持ち、志は貫きながらも時代に合わせた柔軟さも持ち合わせる姿が大変かっこよく映りました。
活動の場としての瑠璃寺

「この地域は養蚕が大変盛んな土地でした。養蚕する人たちは、鼠から蚕を守るということで、猫と蛇を神格化してまつりました。猫神様は瑠璃寺の薬師如来さまの化身仏の位置付けになっていますので、薬師如来さまのお姿でおまつりしています。そんなご縁もありまして、保護猫活動もしております。毎月1回ここでは、猫神様縁日というものを開催しております。これは、保護猫活動をしている人たちの資金源を確保するために、この境内をお貸しして自由に縁日を開いてもらうという活動です。」

「獅子舞は、日吉神社の氏子の皆さんが瑠璃寺に奉納を行います。実は、高森町大島山という行政区と瑠璃寺の檀家地域、日吉神社の氏子地域、はほとんど同じ場所です。このような場所は全国でも大変珍しく、この三者が密に交流しているからこそ獅子舞を守り伝えていることができているのだと思います。」
「以前は地区住民だけでしたが、現在は大島山の獅子舞の維持・保存に賛同する方はどなたでも保存会に参加できます。中学生や高校生も参加していて、幅広い世代の皆さんで獅子舞を守っています。最近では、大阪・関西万博でも獅子舞を披露しています。」
さらにお聞きすると、客殿にある畳の部屋では、訪問日の午前中まで高校のかるた部が夏合宿をしていたそうです。
そして、大島山区民会館は、普段は区民の皆さんが自由に使っているそうです。
また、瑠璃寺の宝物を保存しておける耐火金庫と展示室が併設されています。
地域の人もそうでない人も瑠璃寺を訪れ、人と人との交流が生まれています。
訪問の最後にご住職のビジネスパートナーである青山洋子さんにより、お茶とお菓子をご用意いただきました。
青山さんお手製の爽やかなミントティーを飲みながら皆で談笑し交流するひと時は、いつの時代も人々がお薬師様のもとに集ったという瑠璃寺の歴史そのものを体感しているようでした
そして、大島山区民会館は、普段は区民の皆さんが自由に使っているそうです。
また、瑠璃寺の宝物を保存しておける耐火金庫と展示室が併設されています。
地域の人もそうでない人も瑠璃寺を訪れ、人と人との交流が生まれています。
訪問の最後にご住職のビジネスパートナーである青山洋子さんにより、お茶とお菓子をご用意いただきました。
青山さんお手製の爽やかなミントティーを飲みながら皆で談笑し交流するひと時は、いつの時代も人々がお薬師様のもとに集ったという瑠璃寺の歴史そのものを体感しているようでした

参加学生の感想

また、区民会館がお寺の敷地内にあることに驚きました。地域住民がお寺に関わる機会が必然的に多くなるシステムで、これは他地域にも応用すべきだと思いました。私は大学でボランティア活動に力を入れていて、イベントも企画したりしているのですが、活動の場所探しに困ることが多々あります。そんなときに瑠璃寺のような場所があれば、活動もより活発になりますし、世代を超えた交流も促進されるのだろうと思いました。「地域活動の場としてのお寺」という、新たな視点を得ることができました。こんな素敵な場所が増えて残っていったらいいなと思います。
立命館大学 4年
瑠璃寺
〒399-3106 長野県下伊那郡高森町大島山812
〒399-3106 長野県下伊那郡高森町大島山812

人から人へと紡がれてきた
大切な想いや魅力について語り合う
地域で育まれてきた歴史や文化を語り合い、
新しい価値と出会います