山の自然と調和し、大衆とともに歴史を紡いできた山の寺「隣政寺」を訪ねる
TOP > いろり端 > 長野県下伊那郡高森町

いろり端

探訪「1200年の魅力交流」

山の自然と調和し、大衆とともに歴史を紡いできた山の寺「隣政寺」を訪ねる

長野県下伊那郡高森町。天⻯川によって造られる河岸段丘やアルプスの⼭並みに囲まれ、豊かな農村風景を見せるこの地域に、ひっそりと伽藍を構える「山の寺」・隣政寺があります。境内には、本堂と不動堂(蚕玉堂)が静かに佇み、明治27年(1894年)に再建された本堂は、名工として名高い坂田亀吉の手によるものです。また、迫力ある向拝正面の子持ち竜、そして左右の昇り竜・降り竜は、立川流の彫刻師、立木音四郎種清の作を現代に伝えています。今回、高森町の自然とともに、人々を見守ってきた隣政寺を学生たちが訪問し、壬生照道ご住職と壬生照玄副住職に、隣政寺の魅力をお話しいただきました。

特殊な歴史を紡ぐ隣政寺

「隣政寺の歴史はね、ちょっと変わってるんです。」

そう語り始める壬生ご住職のお話に、学生たちは引き込まれていきます。

「隣政寺の草創は、鎌倉時代、日蓮聖人のお弟子さんである日得上人が開山されたと伝わっております。日蓮聖人のお弟子さんが開いたお寺ですから、隣政寺は日蓮宗のお寺として歴史を紡いできました。創建された場所は、現在お寺の建物が建てられている場所から、さらに山を登った地点だと伝えられています。ここから40分ほど山を登ると、戒壇不動とよばれるお不動さまの摩崖仏や隣政寺のご本尊さまが出現されたという洞窟があります。そこから沢の方へ下ると、約10坪くらいの拓けた場所があります。この場所が隣政寺の発祥の地であるとされています。」

「現在の隣政寺が伽藍を構えている場所は、標高が約900メートルあります。そこから、さらに山を登った地が発祥の地ですから、もともとは修行のためのお寺、もしくは祈願をするためのお寺であったのかもしれません。発祥の地の付近を調べてみると、拓けている場所がいくつもあるので、往時には、いくつかのお堂が建てられていたのかもしれません。しかしながら、山の深い場所はかなり不便であったのかもしれません。だんだんと沢伝いに降りてきて、現在地に移ってきたのだと思います。」

「戦国時代には、この地を治めていた松岡家の方々と縁の深いお寺であったようです。松岡家は、平安時代、東北の前九年合戦などで活躍した安倍貞任(あべのさだとう)を先祖に持ち、今川家から逃れていた井伊家を匿ったとされている一族です。この歴史の名残ではないですが、現在の隣政寺の檀家さんには、松岡家とゆかりの深い家の方々が多くいらっしゃいます。」

「また、江戸時代に入ると、隣政寺は、松岡家に代わりこの地を治めた座光寺家の祈願寺となり、たびたび座光寺家の方々が隣政寺を訪れたようです。」

「徳川幕府第三代将軍をつとめた徳川家光公の時代には、隣政寺は東京の谷中に伽藍構えていた感応寺(現天王寺)の末寺だったとされています。当時の感応寺は、日蓮宗の中でも不受不施派という流派に属しておりました。ですので、感応寺の末寺であった隣政寺も不受不施派であったのではないかと、私は考えております。」

「転機となったのは、元禄時代。当時の幕府の宗教方針により、不受布施派のお寺は、ほかの宗派に改宗となるか廃寺となるかの決断をしなければなりませんでした。この時、隣政寺の本寺であった感応寺は天台宗に改宗したといいます。おそらく、本寺であった感応寺が天台宗へと変わったことで、隣政寺も天台宗のお寺となったのだと思います。元禄時代に天台宗となり約400年、天台宗のお寺として法灯を受け継いでまいりました。」

江戸時代に日蓮宗から天台宗へ改宗したという特殊な歴史を持つ隣政寺。ご住職のお話によると、高森町や、隣接する飯田市には、もとは日蓮宗であったお寺がいくつか存在したとか。それらのお寺は、隣政寺と同じ時期に天台宗に改宗しており、隣政寺と同じような理由により天台宗となったのではないかと考えられているそうです。

「今まで隣政寺の歴史についてお話してきましたが、隣政寺は“裏の寺”なんですね。決して、有名な偉人と関りがあるような歴史の表舞台を歩んできたお寺ではないのです。」

ご住職の“裏の寺”という言葉に惹きつけられる学生たち。その言葉に込められた隣政寺の魅力を探ります。

「どちらかというと、隣政寺は大衆とともに歴史を紡いできたお寺になります。私はこの点に隣政寺の魅力があると思います。大衆と歩んできた隣政寺の歴史を象徴する建物がありますので、そちらへと歩みを進めましょう。」

立川流の名工により建立され、精緻かつ迫力ある龍の彫刻に守られる本堂

「こちらが隣政寺の本堂になります。中央のお厨子の内部に隣政寺のご本尊・千手観音さまをおまつりしております。折角ですので、皆さんとともに般若心経をお唱えしたいと思います。」

ご住職と副住職に従い、ご本尊さまの前で般若心経を唱える学生たち。
皆で一体となり唱える般若心経の読経の声は、ヒグラシの鳴く隣政寺の境内に響きわたりました。
「中央のお厨子の内部に、隣政寺のご本尊である千手観音さまをおまつりしています。ご本尊さまは秘仏としておまつりしています。」

「ちなみにですが、ご本尊さまには逸話が残されています。隣政寺がまだ山奥に位置していた時のお話です。現在の豊丘村に住む農民が毎晩毎晩、対岸に見える隣政寺の山の方から光が見えるというので、この山を訪れたそうです。すると、洞窟の内部で小さな仏さまを見つけたそうです。人々は、この小さな仏さまを隣政寺のお内仏としておまつりしたという逸話も伝えられています。」

「ご本尊さまに向かって右側には阿弥陀三尊像を、向かって左側のお厨子の内部には阿弥陀如来立像さまを、ご本尊さまのお厨子のすぐ隣には、薬師如来さまをおまつりしております。阿弥陀三尊さまとお厨子の内部におまつりしている阿弥陀如来立像さまは、最近室町時代に造立されたことが判明しまして、近々詳細な調査をしていただく予定です。」

「阿弥陀如来立像さまは秘仏ではないですから、せっかくですのでお扉を開けたいと思います。」

ご住職のありがたいお言葉に感激しながら、扉が開くこと数分。
お厨子の内部には、金色に光り輝く美しい阿弥陀如来さまのお姿がありました。

「こちらの仏さまですが、詳しいことは分かりません。私も最近まで、阿弥陀さまではなくて、お釈迦さまであると考えてお参りしておりました。最近学芸員さんに見ていただく機会があり、こちらの仏さまが阿弥陀さまであることが判明したのです。」

「こちらの阿弥陀如来立像さまと阿弥陀三尊さまは、おそらく近隣の白山寺という廃寺になった大寺院から移されてきたのではないかと私は考えています。白山寺は名前の通り、加賀の霊峰・白山に対する信仰である白山信仰のお寺として創建され、近世までに大いに繁栄した名刹だったといいます。しかしながら、江戸から明治に時代が変わる際、たまたま住職の交代時期で住職が不在であったため、そしてこの地域は国学が盛んな地域であったために廃仏毀釈運動の矢面に立たされてしまい、白山寺は廃寺となり、現在はお宮さんとなっています。」

「隣政寺には、廃寺となった白山寺に由来するものが多く移されていまして、阿弥陀さま以外にも、こちらの前机や常香盤、六器、護摩壇も白山寺由来のもので、刻銘が残されています。」
「こちらの本堂を含め隣の不動堂、山門などすべて明治時代以降に再建された建物になります。なぜ焼失してしまったのかは、後ほどお話ししますが、ありがたいことに、当時の檀家さんや信徒の皆さんが何とか立派な姿で復興をしようとたいへんな尽力をしていただいたそうです。その皆さんの熱意が伝わってくるのが、本堂の入口の部分です。」

「この部分を向拝とも言いますが、ご覧いただいてお分かりの通り、迫力ある龍の彫刻がびっしりと施されています。こちらは、長野県の諏訪大社で活躍した宮大工集団である立川流の職人たちによって彫刻されたものになります。」
剛健で力強い竜の彫刻は、今にも悪いものを食ってかかりそうな迫力があります。竜の周囲に散りばめられた花や雲は非常に繊細に彫られており、主役の竜の魅力を存分に引き出し、非常にバランスの良い構図です。立川流の特徴とも言われる、木目を生かした味わいのある素木彫刻に、学生一同感嘆の声をあげます。

「特筆すべきは、本堂向拝正面の子持ち竜、そして左右の昇り竜・降り竜です。こちら、名工として著名であった立川流の彫刻師・立木音四郎種清の作です。そして建物全体は、木曽亀と呼ばれる坂田亀吉による建築になります。」

向拝正面の子持ち竜

「このような立派な彫刻に彩られる本堂を建てるには、かなりの熱意と資金が必要です。先ほどお話しした通り、隣政寺は“裏の寺”ですので、強い力や豊かな資金を持っている戦国武将や著名人のような大檀那はいません。ですので、周辺地域の皆さんが結束し、自分ができることをと尽力いただいたからこそ建てられた本堂になります。実際よく見てみると、途中で資金不足となり、彫刻や装飾が彫られていない欄間があります。こうした部分から、先人たちが抱いた「必ず復興させる」という熱意を皆さんに感じていただけたらと思っています。」

「もちろん、本堂だけでなく、これからご案内する不動堂や山門などからも先人たちの息遣いが感じられると思いますので、ぜひ魅力を見つけていただければと思います。」

地域の人々の願いを受け止め続けてきたお不動さまと蚕玉さま

「こちらは祈願道場にしている不動堂(蚕玉堂)です。こちらの建物は古い建物でして、ひょっとすると室町時代にまで遡るのではないかとも言われています。もともとは飯田市にある今宮郊戸八幡宮の拝殿でしたが、隣政寺の伽藍の焼失時期と今宮郊戸八幡宮の新社殿造営時期がたまたま重なりまして、不要になった古い拝殿を購入して隣政寺に移してきたそうです。」

「古い時代の建物なので、建物の作りが独特です。例えば、こちらの戸は、突き上げ戸になっておりまして、戸を開けるときは、このように戸の上半分を上部にあげます。最近の建物ではあまり見ることが少ない古式な様式が残されています。」
四臂不動明王立像

「建物の名前が不動堂である通り、中央には不動明王立像をおまつりしております。こちらのお不動さまの詳しいことは伝わっておりませんが、私が住職を受け継いだときにはおまつりされていた仏さまです。こちらのお不動さま、腕が4本ある珍しいお姿が特徴的ですね。由来は分かりませんが「戒壇不動」とも呼ばれています。」

「お不動さまの両脇には、小さなお不動さまや毘沙門天さま、慈恵大師さま、慈覚大師さまなど様々な仏さまをおまつりしています。」

戒壇不動さまは、後ろに背負う火炎のゆらゆらと燻る様子がありありと想像され、またお顔は厳しくも凛々しい表情をされていました。体躯は一般的な大きさですが、実物よりも大きく見え、怪しい迫力がありました。

「こちらのお不動さまの前にある護摩壇や六器が先ほどお話しした白山寺から移ってきたものになります。六器をひっくり返してみると、裏に「白」と刻まれていることが分かりますね。」

「また、護摩壇の周縁には、護摩壇を寄進したお坊さんの名前と年号が記されています。たしか、寛政年間の年号が記されていたかと思います。」
蚕の守り神「蚕玉さま」のお像

続いて、戒壇不動の左隣に安置される蚕玉(こだま)さまを拝見させて頂きました。

「次は蚕玉さまをご覧ください。蚕玉さまとは、かつてこの地域で盛んであった養蚕業を象徴する神様でして、蚕を守るこの地域特有の神様になります。かつて周辺地域の農家の方々は、冬の間に隣政寺に蚕の卵を預けて、春先に預けた蚕の卵を受け取り、自宅で育てていたそうです。伝えられているところによると、現在の高森町だけでなく、南は現在の飯田市、北は上伊那郡の人々から蚕の卵をお預かりしていたそうです。」

かつては養蚕業が人々の生計を助けており、卵を守るという重要な役割を隣政寺が担っていました。隣政寺は人々の生活に寄り添う一方、人々はお寺を信頼していたことが分かります。隣政寺は、地域コミュニティにおいて、信仰的な拠り所であるとともに、産業や生活の手助けの場としても重要視されていたのでしょう。

「たくさんの人々から蚕の卵をお預かりしていましたから、悪い蚕業者さんに「隣政寺が無くなればもっと儲けることができる」と目をつけられてしまい、明治の時代に放火され、隣政寺のすべての建物が焼失してしまいました。たまたま茅葺屋根の葺き直しをしていたようで、あっという間に火が回ってしまったそうです。今でも境内に残る巨木には焦げ跡が残り、その当時の炎の激しさが伝わってきます。」

隣政寺を守り伝えるご住職の願い

「今までお話ししてきたように、明治時代に放火をされて隣政寺はすべてが無くなってしまいましたが、このように見事に復興されています。この復興を成し遂げた先人たちの原動力はどのようなものであったのか私は考えているのですが、やはりその原動力の大部分には、お寺に対する信仰心や自分たちの拠り所としての願いがあったのではないかと考えています。」

「ですので、これからのお寺を考えていく際に、一般の方々、信徒さんや檀徒さんの願いを受け止めることのできるお寺でありたいと、そして、有名な人が建てたわけでもなくいつできたのかもはっきりとしないという隣政寺ですが、これはいつの時代も周辺地域に住む名もなき皆さんが守り伝えてきたということを示しているのだと思います。この地域の皆さんと手を携えて守ってきたという歴史を大切に、これから先も皆さんとともに隣政寺の歴史を紡いでいきたいと考えています。」

リン、リンと鳴く虫たちの鳴き声が境内に響き、穏やかな雰囲気が立ち込める隣政寺。
訪れる人々を優しく温かく迎える隣政寺の空気感は、隣政寺が創建されてから、大衆とともに手を携えて歴史を紡いできたという歴史によって育まれてきたのだと思います。
どこか懐かしく、離れがたい隣政寺。
隣政寺の皆様との再会を誓う学生たちでした。

参加学生の感想

 姿形が不変の文化財も、勿論十分に素晴らしく継承していかねばなりません。しかし、隣政寺のように姿形が可変的なものも、そこに携わる人々の心は変化していません。いつまでも隣政寺は、信仰する地域の人々の場です。これも、一つの文化の形と言えるのではないでしょうか。
 ご住職のお話の中で、特に印象に残っている言葉があります。

「隣政寺は、歴史の表舞台に出てくることはない、歴史の“裏”のお寺なんです。強い権力者に保護されることもなく、常に大衆とともに存在していました。」

この言葉は、地域に根差した隣政寺だからこそ語られたのだと思います。人間によって火にかけられたお寺ですが、それを復興したのも、また人間なのです。焼失してしまったことは本当に残念で、私も非常に悔しい思いです。しかし、全て失った境内を再興しようと、力を合わせた人々がいるということも、決して忘れてはいけません。皆の拠り所であるお寺を、もう一度取り戻そう、次世代へ受け継ごうという思いにこそ、「伝承」の真髄があるのではないかと、隣政寺を訪問し考えました。自然と人々が紡いできた隣政寺、是非たくさんの方々にお参りして頂きたいです。

立命館大学 3年
隣政寺
〒399-3101 長野県下伊那郡高森町山吹2357