いろり端
探訪「1200年の魅力交流」
武田信玄公終焉の地、慈悲と叡智が息づく古刹「長岳寺」を訪ねる

戦国の巨星、武田信玄公が火葬された地。歴史に少しでも興味があれば、その名を聞いて心が動かぬ者はいないでしょう。その終焉の地とされる長岳寺を訪れたのは、夏の日差しが力強く降り注ぎ、木々の緑が生命力を謳歌する7月の末。ただその史実のみを胸に山門をくぐった学生たちを待っていたのは、過去の出来事を静かに伝えるだけでなく、先人たちの慈悲と叡智を私たちに届ける魅力の数々でした。
そのような長岳寺の魅力を、長岳寺住職を務める入亮純師にお話しいただきました。
そのような長岳寺の魅力を、長岳寺住職を務める入亮純師にお話しいただきました。
伝教大師が設けた広拯院に由来する古刹

「当時、東山道を行き交う人々にとって、当地は一番の難所として知られていたそうです。それは、東山道の中で最も標高の高い神坂峠(みさかとうげ)を越えなければならなかったからです。今は中央自動車道がありますが、当時は急峻な山道を登り降りしなければなりませんから、当時の人々のご苦労は想像以上のものであったと思います。」
「このような難所を通り往来する人々のご苦労を体感した伝教大師は、往来する人々のご苦労が少しでも和らぐようにと、神坂峠から見て岐阜県側に広済院(こうさいいん)、長野県側に広拯院(こうじょういん)という布施屋(ふせや、現在の旅人休憩所)を建立しました。長岳寺は長野県側に建立された広拯院を起源に持つと伝えられており、そのため『広拯山(こうじょうざん)』という山号を掲げています。」

「いずれにせよ東山道を往来する人々が少なくなってしまったために、往来する人々のために創建された広拯院は衰退してしまったそうです。しかしながら、なんとか由緒のあるお寺を伝えたいということで、移転をして『長岳寺』と名乗ったと伝わっています。」
「諸説あり定まってはいませんが、この移転は今から約600年前頃だと考えられています。実際長岳寺が守るお墓の中には、南北朝時代までには造立されていたであろう五輪塔があります。失われている記録も多いですから、定かではありませんが、中世にはこの地に伽藍を構えていたということが推測されます。」

「信玄公が亡くなる前年の元亀3年(1572)の冬、三方ヶ原というところで家康公と戦をいたしました。この戦いは後に『三方ヶ原の戦い』と呼ばれる戦です。武田方は3万余騎、対する織田・徳川方は1万騎ほどであったそうです。双方奮戦いたしましたが、戦に勝利したのは、数で圧倒する武田方でした。」

「通常、城での戦では、籠城といって城門をすべて閉じ堅固な防御を固めます。しかしながら、家康公は一計を案じ、籠城とは正反対、つまり、すべての城門を開け放ち、煌々とかがり火をたき続けたそうです。これを見た武田方の軍勢は、『なにか城内に罠があるのではないか』と思考を巡らせ、浜松城を攻めずに、野田城を包囲し攻略しました。」
「野田城を攻略した武田方ですが、総大将の信玄公の病状が悪化してしまったそうです。そのため、西へと進軍していた武田軍は、一転甲州へと引き上げました。しかしながら、信玄公の容態は悪化し、伊那の里・駒場で落命されました。」
「戦の最中でしたから信玄公の死は公にはできません。そこで、武田軍が本陣を敷く場所であった長岳寺で御遺体を預かり、火葬をしたそうです。その後、ご遺骨は甲州へと戻られたと伝えられています。この歴史を示すように、長岳寺の寺紋は武田家から許された『武田菱』であり、境内には供養塔が建てられています。」
先代住職・山本慈昭師の「無償の愛」
「長岳寺は、中国残留孤児の肉親捜しを始めたお寺としても知られています。」
「中国残留孤児の肉親捜しを始めたのは、長岳寺の先代住職をつとめた山本慈昭師です。生前の山本慈昭師は、このように言い続けました。『肉親に会いたいと思うのは皆さんも同じです。だから探してほしい。そして会ってほしい。』と。」
「それでは、なぜ山本慈昭師は中国残留孤児の肉親捜しをはじめたのか。それは、ご自身も当事者の一人であったからです。終戦直前の昭和20年、山本慈昭師はご家族と一緒に中国へ渡りました。山本師は開拓移民の子どもたちの学校の先生として働いていましたが、ソビエトの参戦にともない、逃避行中、家族と離別しシベリアに抑留されました。山本師は2年間抑留された後に日本へ帰国することができましたが、帰った山本師を待っていたのは、『抑留前に離ればなれになった奥さんと子どもたちが中国で亡くなった』という情報でした。」
「中国残留孤児の肉親捜しを始めたのは、長岳寺の先代住職をつとめた山本慈昭師です。生前の山本慈昭師は、このように言い続けました。『肉親に会いたいと思うのは皆さんも同じです。だから探してほしい。そして会ってほしい。』と。」
「それでは、なぜ山本慈昭師は中国残留孤児の肉親捜しをはじめたのか。それは、ご自身も当事者の一人であったからです。終戦直前の昭和20年、山本慈昭師はご家族と一緒に中国へ渡りました。山本師は開拓移民の子どもたちの学校の先生として働いていましたが、ソビエトの参戦にともない、逃避行中、家族と離別しシベリアに抑留されました。山本師は2年間抑留された後に日本へ帰国することができましたが、帰った山本師を待っていたのは、『抑留前に離ればなれになった奥さんと子どもたちが中国で亡くなった』という情報でした。」

「山本師は日本国内だけでなく中国にて、テレビやラジオ、新聞を使って情報提供を呼びかけます。当時は中国と日本の国交が回復した時代でしたが、行政の支援はほとんど受けることができませんでした。そのような状況でも山本師は私財を投じて中国に残る子どもたちの肉親捜しに奔走しました。」
「残留孤児のために動く当時の山本師の姿を今でも覚えています。長岳寺から東京まで、当時は片道8時間、往復16時間かかりました。ですので、24時間はあっという間に過ぎ去ってしまうのですが、山本師は、少しでも情報を得るために、この往復を1カ月に何度も行っていました。その生活はいつ寝ているのか分からないほどの壮絶な生活でした。」
「こうした山本師の地道な活動が次第に周囲の人々にも波及し、日本や中国の人々を動かすことになり、山本師のもとに多くの残留孤児が訪れたといいます。訪ねてきたすべての子どもたちに、1台1000円のラジオを手渡したそうです。しかし、その支援は物資だけに留まりませんでした。どうしても肉親が見つからなかった子どもたちに対し、先代はこう語りかけたといいます。」
「本当の親はまだ見つかっていないけれど、一人、親はいるよ。私がいるからね、何かあったらいつでも連絡しなさい。」

仏さまと寺宝に刻まれた長岳寺の歴史の記憶

「本堂の中央には、長岳寺のご本尊・十一面観音菩薩さま。秘仏であるためにお厨子の扉を閉めておまつりしております。」

本堂には他にも印象的な仏さまがおまつりされていました。

「こちらは、千体地蔵さまです。中央におまつりされている大きなお地蔵さまは鎌倉時代に造立されたと考えられています。後ろの小さなお地蔵さまは、天明年間に発生した『天明の大飢饉』で亡くなった方の霊を慰めるために奉納されたお地蔵さまです。」

興味深いのは、仏像を再び修復するか否かという問いに対するご住職の考え方でした。
「確かに修復すれば見栄えは良くなりますが、そうすると『廃仏毀釈』という仏教弾圧の歴史の痕跡が消えてしまう。それもまた大切な記憶なのです。」
千体地蔵さまの近くには木の素地が美しいお薬師さまがおまつりされています。
「こちらのお薬師さまは、伝教大師が造立したと伝えられています。もともとは慈覚大師が創建した観照寺のご本尊でありました。観照寺は12の坊を有する大寺院であったそうですが、天正10年(1582)2月に織田信長の軍勢がこの地に攻め込み、観照寺は焼かれてしまいました。その際、こちらのお薬師さまや先ほどお話ししたお不動さまは助け出され、長岳寺に移されました。」
「こちらのお薬師さまは、伝教大師が造立したと伝えられています。もともとは慈覚大師が創建した観照寺のご本尊でありました。観照寺は12の坊を有する大寺院であったそうですが、天正10年(1582)2月に織田信長の軍勢がこの地に攻め込み、観照寺は焼かれてしまいました。その際、こちらのお薬師さまや先ほどお話ししたお不動さまは助け出され、長岳寺に移されました。」

「このように信仰を集めていたお薬師さま。寛政3年(1791)、観照寺がかつて存在した木槌の洞に小さなお堂を再建された際に、お薬師さまも里帰りしていただこうと近隣の村人たちが協力し、お薬師さまを神輿に乗せて里帰りしていただく祭礼が始まりました。この『木槌薬師の里帰り』は創始から200年経った今でも伝えられ、お薬師さまには1年に一度里帰りをしていただいております。」

長岳寺には信玄公にまつわる寺宝が伝えられています。
「こちらが、実際に信玄公が被っていたとされる兜の前立になります。非常に精緻な透彫が施されている点が特徴です。山上先生他2名の専門家に鑑定いただきました。」
さらに、上杉謙信公と武田信玄公と一騎打ちをしている様子を描いた絵も飾られていましたが、ご住職曰く「そんな場面は歴史的にあり得ない」とのこと。3万人もの兵を率いる総大将が刀を抜くというのは、すでに戦略上の敗北を意味するため、本来ならありえない行為なのだそうです。「刀を抜く前に、負けを認めるのが戦の礼儀」と語られていました。

長岳寺を彩る絵画の数々

本堂に足を踏み入れると、感じる凛とした空気。
その空気を形作っていたのが、本堂を彩る襖絵です。
この襖絵は、阿智村在住の日本画家・吉川優氏によるもので、下伊那地方の四季をテーマとした9種の連作から成り、「春の間」「夏の間」「秋の間」「冬の間」「火炎の間」「月の間」「朝日の図」などが描かれているそう。
その空気を形作っていたのが、本堂を彩る襖絵です。
この襖絵は、阿智村在住の日本画家・吉川優氏によるもので、下伊那地方の四季をテーマとした9種の連作から成り、「春の間」「夏の間」「秋の間」「冬の間」「火炎の間」「月の間」「朝日の図」などが描かれているそう。
特に印象深かったものが「冬」を描いた一枚。ご住職が語ってくださった内容が今も忘れられません。
「この襖画は、冬の景色を描いた風景画と思う人が多いですが、実は宗教画です。太陽が2つあり、奥に見えている光はこの世の光ではなく極楽の御光でして、仏教徒の人は信じると必ず極楽に行くことができるということを表しています。また、よく見ていただくと、六地蔵や龍、鳳凰が描かれています。こうした点からも宗教画であることがよくわかると思います。」
「この襖画は、冬の景色を描いた風景画と思う人が多いですが、実は宗教画です。太陽が2つあり、奥に見えている光はこの世の光ではなく極楽の御光でして、仏教徒の人は信じると必ず極楽に行くことができるということを表しています。また、よく見ていただくと、六地蔵や龍、鳳凰が描かれています。こうした点からも宗教画であることがよくわかると思います。」

「この絵が一番伝えたいこと、それは『冬の凍った道を歩くように一歩一歩注意しながら進んでいくのが人生だ』という教えです。パッと見ただけでは分からない様々な趣向が長岳寺の襖絵には秘められています。しばらくじっと襖絵を眺めていらっしゃる方もいて、長岳寺にお参りいただく方々に非常に楽しんでいただいている襖絵です。」
ご住職に促されるままに目を凝らすと、その絵が秘めていた深遠な世界が、徐々に姿を現し始めました。ガラスケース越しではない、この壮大な芸術と対峙できる幸運に深い感動を覚えました。こんなにも素晴らしい作品を間近で拝見できるとは、光栄の至りです。
ご住職に促されるままに目を凝らすと、その絵が秘めていた深遠な世界が、徐々に姿を現し始めました。ガラスケース越しではない、この壮大な芸術と対峙できる幸運に深い感動を覚えました。こんなにも素晴らしい作品を間近で拝見できるとは、光栄の至りです。

晴れているにも関わらず降り続ける雨は、長岳寺と私たちのご縁を祝福しているかのように、まるで天もこの学びのひとときを見守っていたかのように、感じさせました。
そして、降り続いていた雨も帰る頃には静かに止み、しっとりと濡れた石畳と、雨上がりの木々の香りに包まれながら、慈悲と叡智が息づくこの長岳寺を後にしました。
心の奥深くに静かに染み入るような学びと感動を胸に、今もあの静謐な空間が思い出されます。
参加学生の感想

また、歴史を学ぶ際には日本だけでなく世界との比較・照らし合わせが重要という教えも、改めて胸に刻まれました。さらに、四季を描いた襖絵に触れ、宗教的寓意が込められた冬の襖絵には六地蔵様や鳳凰、龍などが隠されていると伺い、じっくりと見入ってしまうような感動を覚えました。
信玄公が地域に対して施された慈しみによって選ばれた歴史背景なども伺い、情報の取捨選択において正しいものを見極める力の大切さを感じます。そして、御住職様がチューリップの歌を皆の個性を尊重する象徴として語られた言葉は、誰一人取り残さないという仏教の教えと重なり、深く共感しました。
立命館大学 3年
長岳寺
〒395-0303 長野県下伊那郡阿智村駒場569
〒395-0303 長野県下伊那郡阿智村駒場569

人から人へと紡がれてきた
大切な想いや魅力について語り合う
地域で育まれてきた歴史や文化を語り合い、
新しい価値と出会います