山形城とともに歴史を紡ぐ「寶光院」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

山形城とともに歴史を紡ぐ「寶光院」を訪ねる

春の終わり、山形特産のサクランボが赤く頬を染め始める頃、山形市の歴史ある街並みの一角に佇む「寶光院」を訪問する機会に恵まれました。市街地の中に静かに佇むその姿は、初めて訪れる者に不思議な安心感を与えてくれます。まるで長い時間をかけて街の喧騒と共存してきたような風格が山形の風土とこの寺の歴史を物語っているかのように感じられる寶光院を、ご住職である工藤秀和師にご案内いただきました。

地に根ざす寶光院:その起源と現在地への移転

寶光院をご案内していただいた工藤秀和師は、穏やかで謙虚なお人柄ながら、歴史や建築、宗派の構造に関する幅広い知見を惜しみなく語ってくださる姿に、静かな情熱を感じました。その語り口は柔らかでありながら、寺が歩んできた時代の重みを、私たちの心に確かに届けていただきました。

「寶光院はもともと現在の場所にはありませんでした。山形城の北西方向の須川沿いに現在も「中野」や「船町」という地名があります。その地に寶光院は伽藍を構えていたと伝えられています。かつて中野には中野城というお城が築かれており、近くの須川をつかった水運と陸路が交わる交通の要衝として知られていました。天正2年(1574)、最上義守公と最上義光公の父子が争った天正最上の乱の際には、中野城が最上義守方の有力な城として機能しました。しかしながら、戦に勝ったのは最上義光公。戦の後、義光公は中野にあった寶光院を現在地に移しました。」

「そのような歴史がありますので、寶光院がいつ創建されて、江戸時代以前にどのような歴史をたどってきたのかなど、寶光院の詳しい縁起は伝えられていません。これは推測ですが、義光公による移転にともない、敵方の有力地にあったという理由から、意図的に歴史を分からないようにしたのではないかと考えています。」

義光公により現在地に移転してきた寶光院。
ご住職によると、この寶光院の移転には、義光公のある狙いが秘められているといいます。

「寶光院は現在山形市の中心部に近く住宅街に囲まれています。しかしながら、移転した当初のこの一帯は、人々はあまり住んでおらず、街道沿いにちらほらとお寺や神社、住宅があったぐらいであったようです。それでは、なぜ義光公はこの地に寶光院を移転させたのかというと、山形城南側の防御拠点として整備したのではないかと言われています。義光公の整備により、この寶光院と近くの六椹八幡宮(むつくぬぎはちまんぐう)あわせて5000坪の敷地があったといいます。この広大な敷地を整備する事で、敵に対する砦として機能できるようにしたのだと思います。さらに、この地は南、東、西方向に延びる街道が近くに通っています。ですので、交通の要衝を抑えるという意味でも寶光院をこの地に移転したのだと思います。」

ご住職のお話から、寶光院が軍事的・政治的機能を帯びた寺院として扱われていたと推察できます。宗教空間でありながら軍事的な意図を秘めたこの立地には、戦国という時代が仏教に課したもう一つの役割が静かに刻まれているように感じられます。

行政施設としての寶光院

山形城下の防衛拠点、そして交通の要衝をおさえる場所として機能していた寶光院。江戸時代に入ると、行政施設としての側面がますます強まっていきました。
「江戸時代に入りしばらくすると、最上家でお家騒動が発生し、最上家は幕府により改易され、徳川家譜代の方々が山形城に入ることになりました。そのような関係で山形と徳川家の結びつきが強まっていき、この寶光院も上野・寛永寺の直轄末寺となり、寛永寺を構成する子院の住職が兼務という形で寶光院の住職を兼ねていました。」

「本堂には、寶光院の住職が使用したという駕籠が伝えられています。当時の住職は普段は寛永寺におり、重要な行事などがあるときのみしか寶光院を訪れなかったようです。ですので、もしかしたら上野から寶光院へ住職がお越しになる際、例えば新しく住職として就任する晋山式のために寶光院に赴く際に使用されたものかもしれません。」

「また、寶光院は「中本寺(ちゅうほんじ)」という中枢機能を持つ立ち位置のお寺でもありました。中本寺とは、地方のお寺をまとめるお寺のことで、山形だと寶光院のほかに立石寺(りっしゃくじ)、柏山寺(はくさんじ)が中本寺としての機能を持ち、山形のお寺をまとめていました。」

幕府と密接な関係を築いた寶光院には、幕府から278石の広大な土地を与えられていたといいます。地方における宗教的な側面をまといつつも、行政施設として政策執行に関与する拠点でもあったのです。祈願や布教と並行して、地域社会の仕組みを支える「行政組織の一部」としての役割も担っていたと言えるでしょう。

山形城の建物であったと伝わる本堂

「他の天台宗のお寺と比べると、寶光院の本堂は少し独特な建物であると感じるかもしれません。一般的な天台宗のお寺の本堂とは異なり、寶光院の本堂はどこか住宅の雰囲気を感じさせる建物です。この理由は、かつて山形城の書院であった建物を移築して、お寺の本堂として使えるように改築したためです。」

「城の書院であったという痕跡が今も残されています。畳と柱の位置関係に着目すると、畳の位置を基準として柱が配置されていることが分かると思います。当時、その人がどこの畳に座るのか、役職や身分などによって明確に決まっていました。ですので、建物内の空間が畳を基準として決められており、畳のへりが柱にぴったり合うような建築になっているのだと聞いています。」

「また、正面左手側の奥の部屋には書院造りの設えが修復・復元されています。この部屋は、以前は護摩道場として使用されていましたが、近年の修理の際に、部材の痕跡から現在のような書院造りに復元されました。城の書院として使用されていた頃、この部屋が一番格式の高い部屋となり、お殿様が座る部屋になります。このことを踏まえてお殿様の視点で座り他の部屋を見ると、目線に柱が入らないように建築されていることが分かります。これは、お殿様が謁見をするためだそうです。このように、この本堂には山形城で使用されていたときの痕跡が数多く残されています。こうしたことが評価されて、寶光院の本堂は山形県の文化財に指定されています。」

本堂の細部をよく見てみると、大胆さがありつつも繊細さも併せ持つ技術が随所に見られました。部屋によって異なる釘隠しや欄間など見飽きる事のない空間が広がっていました。
2011年に東日本に甚大な被害を与えた東日本大震災。
地震という観点から寶光院の本堂を見てみると、先人たちの技術力や災害との向き合い方が感じられます。

「東日本大震災の際、壁面にひびが入るくらいで、寶光院の本堂は大きな被害を受けませんでした。昔の宮大工は木を見る目があったといいます。地元の山の木を使い、その木が育った方角や癖を見極めて、その木をどこに配置したら一番良いかを考えて最適な場所に配置していたそうです。この木を見る目に加えて、自然石の上に柱を直接乗せる造りや、貫構造といった伝統的な技法も、揺れをうまく逃がす知恵だったのでしょうね。そうした先人たちの技術力があるからこそ、大地震に見舞われても無事であったのだと思います。」

実際に堂内を歩いてみると、貫で支えられた柱、筋交いのない構造、そして自然石の礎石の上に立つ柱など、随所にそうした工法の痕跡が見られました。地震の揺れが建物の向きとずれたため難を逃れたという説明もありましたが、それだけでは語り尽くせない確かな知恵と蓄積が、そこにはあったように思います。「昔の人は、百年先まで見て家を建てていた。今はどうでしょうかね……」と住職は笑っておられました。

寶光院に伝えられている多彩な仏さまと文化財

寶光院には、様々な仏さまがおまつりされています。

「本堂中央には、ご本尊である釈迦三尊像がおまつりされています。いつの時代に造立された仏さまであるか等、詳しいことは判明していませんが、現在の場所に移転する以前からのご本尊さまであると伝わっております。ご本尊さまがおまつりされている壇には菊の紋と葵の紋が彫られています。皇族が住職をつとめる門跡寺院として栄えた寛永寺(輪王寺門跡)と結びつきが強かった歴史と徳川幕府との結びつきが強かった歴史を今に伝えている名残です。」

「また、かつて護摩道場のご本尊であった不動明王立像は、江戸時代に造立された仏さまです。この不動明王立像の台座には、天海大僧正が弟子の天英(現在の場所に移った後の寶光院初代住職)に授けた事や江戸の仏師によって造立されたことが記されていました。江戸時代の寛永寺との関係や来歴が判明していることから、山形市の文化財に指定されています。」

「また、聖観音菩薩坐像は江戸時代以前に造立された仏さまであると考えられていて、こちらも山形市の文化財に指定されています。美しいお姿が印象的な仏さまです。」

「他にも、隣の六椹八幡宮で明治時代までまつられていたであろう阿弥陀如来坐像をはじめ様々な仏さまがおまつりされています。このような仏さまの多くは、江戸時代まで寶光院が抱えていた30カ寺の末寺のうち廃寺となってしまったお寺におまつりされていた仏さまです。詳しいことは分からない仏さまがほとんどですが、魅力的な仏さまです。」

仏さま以外にも文化財が伝えられています。
本堂の板戸には、仙人や龍、牡丹の絵が描かれています。これらの絵は山形城時代からこの建物を飾っていた絵であると考えられています。

「また、江戸時代後期の絵師である安田田騏(やすだでんき、1784-1827)が描いた「二見浦(ふたみがうら)」の絵が伝えられています。この絵は洋画の技法で描かれている珍しいものです。安田が東北を巡った際、近くの宿場にしばらく逗留し、ある宿場の方が田騏の逗留費用を負担したそうです。田騏はそのお礼として、この絵を描き、逗留費を負担していただいた方の名前で寶光院に奉納したという旨が絵の裏に記されています。ちなみに、田騏の逗留費用を負担した宿場の方の子孫の方が寶光院の檀家さんとして今でも関りがあります。」

境内には観音さまと聖天さまをまつる観音堂・聖天堂が建てられています。

「正面には聖観音菩薩坐像がおまつりされており、山形市周辺を巡る「山形三十三観音巡礼」の札所の一つとしてお参りしていただいています。また、観音さまとともに聖天さまをおまつりしています。以前はこちらで聖天供を行っていました。」

「中に入ると建物が前後に並び立つ珍しい構造をしていることが分かると思います。江戸時代以前、現在仏さまがおまつりされている土蔵造りの建物のみがあり、観音堂と呼ばれていました。明治時代、他の山形市内のお寺から建物を移してきて神社の拝殿のように前後に並び立つ現在の形になったと伝わっています。」

さらに、観音堂・聖天堂の前には、室町時代に造立されたと考えられている「六面地蔵」が建てられています。

「この六面地蔵はもともと街道の辻に建っていたそうです。この六面地蔵が嵐で倒れた際に寶光院に移しておまつりしたと伝えられています。」

寶光院を巡ると、山形における仏教文化の奥行きを物語る様々な仏さまがおまつりされており、地域の人々の信仰と美意識の蓄積を今に伝えています。また、時代を超えた美術的交流の痕跡も感じられました。

変容する寺の運営と課題

変わらないものもあれば、変わるものもあります。時代は移り変わり、お寺の姿も変容を迫られています。現在、寶光院には檀家さんが居られますが、法要に実際に足を運ぶ方は限られているそうです。一方で、生前契約による納骨堂の利用者が増えており、現在の寺院運営を直接支えることには至っていないのが現状です。

「おそらく、お寺だけで生活できる地方寺院は少ないでしょう。」と住職は静かに語ってくださいました。これが現代の地方寺院が直面している、率直で切実な現実です。葬儀は減り、布教も成り立ちにくくなりつつあります。それでも寶光院は、「地域とのつながりを絶対に切らない」という姿勢を変えることなく歩みを続けています。僧侶と行政職を両立し、その後天台宗務庁でも要職を務められたご住職ご自身が、何よりも地域との関係性を大切にされているからです。

寶光院の現在の営みからは、一つの問いが浮かび上がってきます。お寺は、いま何を支える場所であるべきなのでしょうか。経済でしょうか、制度でしょうか、それとも目には見えにくい、もっと深い何かでしょうか。土地を失い、人の足が遠のいても、なお残るものがあります。もし仏教が「種子」であるならば、それは根のように、誰に知られることなく土中にとどまり、いつかまた芽吹く力を秘めているのかもしれません。寶光院の静かな営みは、そのような問いと希望を、私たちにそっと投げかけているように感じられます。

再びサルスベリの木のもとで

境内を巡り終え、本堂の前のサルスベリの木のもとに戻りました。住職と名残を惜しみつつ挨拶を交わしました。すでに果実は裂け、種は風に乗って旅立ったあと。殻だけが残る静けさのなかに、確かな余韻が漂っていました。

しかし、その枝葉のあいだからは、小さな命が息づく気配が感じられます。濃い緑の葉の下でテントウムシが羽を休め、アリたちが地を這い、鳥のさえずりが風とともに境内をめぐります。役目を終えたかに見える木の下で、次なる季節のための準備が、静かに、しかし確かに進んでいるのです。

寶光院もまた、そうした営みを思わせる場所でした。華やかさに代わって、今は静けさが境内を包んでいますが、そこには時をかけて育まれてきた精神と、土地に根ざした祈りが、かすかなぬくもりとなって残っています。日々の営みのなかに、それは気づかれぬまま織り込まれ、訪れる者の心にそっと触れるのです。

種子が土に還ることで、木はまた命をつなぎます。歴史もまた、人知れず継がれていくものなのかもしれません。聲に出されることのない祈りが、次の芽吹きを準備している。その静かな循環を、風に揺れる葉のあいだから、そっと感じ取ることができました。

参加学生の感想

ご住職は大変謙虚でありながらも、豊富なご知識を惜しみなく分かち合ってくださり、山形の歴史や文化について深く学ばせていただきました。特に、各寺院を訪れる中で、寶光院の政治的・文化的な役割を位置づけてくださったことで、山形への理解が一段と深まり、まるで点が線となるように、歴史がつながっていく感覚がありました。
なかでも、軍事的な背景から寺院が移転されたというお話は、これまでになかった視点から歴史を捉えるきっかけとなり、大変印象に残っています。また、その後の見学では、寶光院がかつて270石を賜ったという隆盛の時代を象徴する、数々の貴重な文化財にふれることができ、その時代の息吹を肌で感じるような感動がありました。
最後にお話しいただいた「地震被害が少なかったのは良い大工さんが適切な木材を使った」ということにも、日本人の暮らしと信仰が、どれほど長い時間軸の上に築かれているのかをあらためて実感し、心から感銘を受けました。

立命館大学 博士課程
寶光院
〒990-0037 山形県山形市八日町2丁目1−57