出羽国分寺として奈良時代より山形を見守る古刹「柏山寺 国分寺薬師堂」を訪ねる
TOP > いろり端 > 山形県山形市

いろり端

探訪「1200年の魅力交流」

出羽国分寺として奈良時代より山形を見守る古刹「柏山寺 国分寺薬師堂」を訪ねる

護国山 柏山寺(ごこくさん はくさんじ)は、山形県山形市薬師町にある天台宗の寺院です。柏山寺の金堂は「国分寺薬師堂」と親しまれ、出羽国分寺の後継と考えられています。今回は国分寺薬師堂の魅力について冨樫啓廣ご住職に案内していただきました。奈良時代の創建に始まる由緒や、度重なる移転・再建の経緯、地域に根ざした信仰の姿などを丁寧にお話しいただき、深い歴史と温かな人のつながりを感じる貴重なひとときとなりました。

転々と場所を移しながらも、現在地に落ち着いた出羽国分寺

「最初に出羽国分寺が建てられたのは、現在の場所ではなく、山形県の日本海側、現在の酒田市や遊佐町のあたりだと考えられています。皆さんも当時を想像してみてください。奈良の都から出羽国までは、船に乗り港に何回も停泊してようやくたどり着くことができる場所です。加えて、出羽国はまだまだ政治的に不安定な場所。おそらく、当時のお坊さんや役人、国分寺の建立に携わる人々の中で、熱意を持って出羽国分寺に赴く人は少なかったのだと思います。」

「聖武天皇の命令により、全国的に流行した疫病を鎮めるために日本全国に国分寺や国分尼寺が建立されたと歴史書には記されていますが、日本全国同時多発的に建立されたのではなく、じわじわと建立されていったのではないかと私は考えています。ですので、立地のことを考えると、出羽国分寺の建立された時代は他の国分寺に比べて遅かったのではないかと私は考えています。」

「なんとか資材と人を運び出羽国分寺は建立されたと思います。しかしながら、時の移ろいと共に、出羽国分寺は廃れてしまったようです。わざわざ都から出羽国へ赴くお坊さんや役人は少なく、むしろ都へ帰ってしまう人々の方が多かったのかもしれません。そうして、出羽国分寺は後継者が不在となり、廃れてしまったのだと私は考えています。」

「実際に史料を見てみると、『出羽風土略記』には鎌倉時代に入る少し前、東北一帯で前九年の役や後三年の役が勃発した頃までには、出羽国に国分寺があったという記載があるそうです。しかしながら、どこにあったのか、どのような規模であったのか等、詳細は記されておらず、謎のままです。」

「その後の出羽国分寺は転々と場所を移していたようです。出羽国分寺が最初に建てられたのは、当時の山形の玄関口であった日本海側だったとお話しました。時代が移り変わると、人々は川沿いに内陸へと進出していきます。出羽国分寺もそのような人々の動きにあわせて、海側から内陸へと移っていったという説があります。」

「実際、記録上には最上郡の鮭川村に出羽国分寺が再興されたと推測できる記載があるようです。その地には現在も「薬師神社跡」という痕跡が残されているようで、国分寺の仏さまなどをその地でお守りしていた名残が今も伝えられています。しかしながら、武士が活躍する中世、金品財宝があるお寺は戦乱の1つの原因になりました。ですので、中世の出羽国分寺について記された古文書などの記録は見つかっていません。」

「出羽国分寺が再び記録上に登場するのが、戦国時代と江戸時代の丁度境目くらい、最上義光公が現在の山形城を整備するときです。義光公は、お城の鬼門の位置に霊山として知られていた立石寺を配置できるようにお城を整備しました。その際、立石寺と山形城の途中の現在地に、義光公を守護する寺院として出羽国分寺を分祀したと記されています。ただ、この時に仏像などを移したのか、それとも新しく造立したのか記されておらず、謎が残ります。」

「江戸時代、出羽国分寺の後継の薬師堂は柏山寺が管理するお堂でした。薬師堂を管理する柏山寺は320石を拝領して、25,320坪にもなる広大な境内を維持管理していました。しかしながら、2回の大火による焼失や明治時代の上地令による境内地の縮小などの影響を受けました。」

「現在の建物は、山形市内にかつて存在していた真言宗の大寺院・寶幢寺の本堂を大火の後に移築した建物になります。これだけ大きい建物ですから、移築するにもたいへんだったと聞いています。昼間だと道路が渋滞してしまうということで、夜に大八車に建物の部材を載せ人力でこの地に運んだそうです。移築に費やした費用もかなりの額で、現在のお金に換算すると、安く見積もって6億円から7億円ほどであったといいます。」

江戸から明治にかけての大変革を乗り越える

「このように歴史を紡いできた柏山寺と国分寺薬師堂ですが、江戸時代から明治時代にかけての社会の大変革を乗り越えてきた歴史があります。今回の皆さんとの交流では、他のお寺ではあまりお話がでないであろう江戸時代から明治時代にフォーカスを当ててみたいと思います。」

「江戸時代から明治時代にかけて大きく変わった考え方の1つは、江戸時代以前によく使われていた「石高」という考え方です。先ほど、江戸時代の柏山寺は320石の石高をいただいていたとお話しましたね。石(こく)というのは簡単に言うと「重さ」のことです。ですから、320石というのは、それほどのお米を収穫できる農地を持っていたということになります。今の感覚だと、私たちは土地の「広さ」で地図を見ますよね。「広さ」で土地を見るということは、どこからどこまでが自分の土地なのか厳密に決めているということです。それを「重さ」で置き換えてみると、どれだけその農地で収穫できるかということですから、「広さ」に重きを置かなくてもいいことになります。ですので、江戸時代までのお寺の境内は、今の感覚でいうとアバウトに決められていていることが地図で見るとわかります。」

「この石高という考え方は江戸時代当時のお寺を取り巻く社会関係、特に納税や境内の維持管理という面を考える上で大切なことです。例えば、境内に建物を新しく建立するとしましょう。当時の人々は、石高に基づいて建立する建物の規模を考えていました。ですので、当時の人々は、このくらいの石高でこの規模のお堂であれば、定期的に修理もできるはずという未来を見据えて建物を建てていたのだと思います。」

「しかしながら、明治に時代が変わると納税の仕組みや上地令などによりその根底がひっくり返ってしまいました。この江戸時代以前までの考え方と明治時代以降の考え方のずれこそが、現在、全国のお寺で堂塔伽藍を維持することが難しくなっている理由の1つであると私は考えています。」
「江戸時代から明治時代にかけて大きく変わった事はまだあります。例えば、お寺の役割です。江戸時代のお寺の役割は、農民からの税金徴収(租税徴収)、人別帳(現在の戸籍のようなもの)の管理と人別帳をもとにしたよろず相談所、人々の教育をする寺子屋などです。この役割を聞いてピンとくる方もいるかもしれませんが、明治政府にとって、政府以外の組織が税金徴収や戸籍の管理、教育などに携わっていることは非常に良くないことですよね。ですから、明治政府は、江戸時代以前のお寺の役割を役所が行うように変革していきます。」

「檀家さんがおらず行政としての役割が大きかった寺院は廃寺となっていきます。現在の国分寺薬師堂の本堂が元々存在していた寶幢寺はその代表例です。寶幢寺には檀家さんは居らず、行政的に地域にとってかなりの存在感のある大きなお寺であったために明治政府の力によって廃寺となったそうです。」

「柏山寺は、中本寺という規模の大きいお寺ではありましたが、当時檀家さんが20~30軒ほどいらっしゃったため、このお寺を廃寺にすると墓地を持つ檀家さんが行く当てが無くなってしまうという考え方から、強い圧力を受けずに済んだと聞いています。もし、そのときに強い圧力を受けていたら、おそらく柏山寺は廃寺になっていたと思います。この場所は市民公園のようになっていたのかもしれませんね。」

あまりお伺いすることがない江戸から明治にかけての寺院を取り巻く社会の大変革に圧倒されました。そのような激動の時代の中でも守り伝えた先人たちの姿や想いを大切にしたいと思いました。

国分寺薬師堂にお祀りされる御仏たちと建物

国分寺薬師堂には様々な御仏たちがおまつりされています。

「お堂中央にはご本尊として薬師如来坐像がおまつりされています。その隣には日光菩薩・月光菩薩を、その両脇には不動明王立像と毘沙門天立像をおまつりしています。皆さんの前にお祀りされている仏さまが前仏といって、ご本尊さまの前におまつりする仏さまになります。それでは、ご本尊さまはといいますと、この厨子の中におまつりされています。ご本尊さまは秘仏でして、実は私もそのお姿を見た事がありません。厨子の内部にどのような仏さまがおまつりされているのか、もしかしたらどなたもいらっしゃらないのか、真実は謎のままです。」

「ご本尊さまの厨子の左右には、お薬師さまをお守りし干支の守護神として参拝客から信仰を集めている十二神将が安置されています。造立時代は江戸時代中期頃だと考えられています。十二神将立像のお姿を見ると全身が真っ黒ですよね。これには理由はあります。柏山寺や国分寺薬師堂が火災の際に、信者さんが裏の池に入れて避難させたそうです。しかし、水の中に入れたことにより表面の彩色は取れてしまい、下地の漆が見えるようになりました。その後、仏壇屋さんに色を塗っていただいたようなのですが、火災の後で資金が無く、頭の一部を除いて全身真っ黒になってしまいました...。」

「堂内には、「ころり観音」がおまつりされています。こちらは、山形市の風立寺におまつりされている「ころり観音」を模した仏さまになります。今から30年くらい前、私の父である先代住職の時、「風立寺までお参りするのが遠くて難しい」という声が出まして、それならばと造立した仏さまになります。」
「現在皆さんがいる薬師堂も特徴があります。先ほど、この建物は山形市内に存在した寶幢寺の本堂を移築した建物であるとお話しました。この建物が建立されたのは、文政年間だと伝えられています。使用されている木材の多くはケヤキでして、当時でも有数の大きさの木材を集めて建てられています。」

「ケヤキというのは、実際に木材として使えるようになるまで非常に時間のかかる樹種です。木の外側にある白太(しらた)という部分を1度腐らせ乾燥させて、穴が空いていない部材だけが使用できます。国分寺薬師堂の周辺には樹齢が300年~400年のケヤキが多数生えていますが、そこから得られる木材のうちこの建物に使われている木材と同等の質の木材は、全体の3分の1程度くらいだと思います。さらに、ケヤキは曲がっている木材が多く、部材として使う際に部材と部材の木目が合わないと上手く使う事ができないようです。ですから、このような難しい樹種を使って、これだけ大きい建物を建立しているのですから、この建物に対して並々ならぬ想いを当時の人々は持っていたのではないでしょうか。」

「建物について情報を付け加えますと、内部にあまり柱が無く開放的であることもこの建物の特徴です。これは格子状の天井のさらに上に精巧に組まれている2本の大きな梁があるからこそできる構造で、その梁が全ての荷重を支える役割を持っています。つまり、下部は開放的なのですが、上部は大きな部材があり、重さでみると頭でっかちな建物ともいえると思います。ですので、東日本大震災のときは、ゆ~らゆ~らと大きく揺れて非常に怖かった記憶があります。」

堂内を巡りながらご住職や柏山寺の皆様と交流する学生たち。柏山寺や国分寺薬師堂について、さらには、日ごろ何気なくしている「お参り」とはどのような行為なのか?など、理由まで深く考える機会をいただきました。ご住職とともに歩んだ思索の旅は、非常におもしろく、あっという間に時間が過ぎていきました。

ご住職のご法話から感じたお寺のこれからのあり方

最後にこれからのお寺についてご住職にお話しいただきました。

「ここは祈願所ですので、お悩みを持っている方々や願いを持っている方々の拠り所となるようなお寺にしていきたいと考えています。もちろんお寺を維持していくうえで経済的な面も重要なのですが、だからといって経済的な面を重視し、このお寺を観光地化して観光客の方々がたくさん来るというのは、少し違うなと思います。ですので、祈願所という祈りの場所という面と経済的な面を上手くバランスをとってお寺を運営していきたいと思います。」

「突然ですが、皆さんは「悟り」とはどのようなことでしょうか?「悟り」とは欲が無くなることです。欲が無くなるということは、寝る事も食べる事も、お金に関する事も、休むこともなにもかもなくなるということです。それはつまり「死ぬ」ということですよね。そのような極限状態に近づくことによって、物事の本質が見えるようになるということなのだそうです。」

「このことを、「お寺の今後」という点に当てはめてみますと、「お寺でお金を儲けたい」という考えの中に果たして信仰はあるのか、逆に「経済的なことは考えない」という考えの中にお寺を未来へ繋ぐという考えは果たしてあるのかと私は思います。」

今回の訪問では様々な視点をご住職よりいただきました。
お寺を今後も続けていくためには参拝や御祈禱だけでは厳しく、心の拠り所であるお寺をどのように伝えて行くのか経営的な部分は課題となっています。この課題を解決するためには、今を生きる私たち1人1人が、1つの視点だけでなく様々な視点から課題を見て、それぞれの視点のバランスをとっていくことが重要なのだと感じました。

参加学生の感想

柏山寺が国分寺と呼ばれていることについて書籍に記載されている内容とは異なるご住職なりの解釈をお聞きし、今まで私自身は学んで知るといったことだけで疑問などをもっていませんでしたが、伝えられている歴史をそのまま受け入れるだけでなく「こうだったかもしれない」といったことを自分でも考えてみる・考えてみようとすることで、より理解やその歴史に対しての魅力が深まっていくと思うと非常に興味深かったです。このように事実を伝えることも重要ではありますが、私が実際に訪れて感じたことなども伝えていきたいと思います。また植木祭などお祭りによって地域との関わりがあることをお聞きして祭りはお寺と地域の方々を結ぶ大切であり素敵な存在であると感じたので、このつながりや魅力を1人でも多くの人に伝えられるようにこの活動を通して発信していきたいと思います。
今回の活動でお寺の長い歴史を学び、お寺は地域の人々と共にあり続けるものだと感じました。柏山寺が火災時に人々によって守られたように、お寺がいつの時代も変わらない心の拠り所であり大切な人を思っての願いや自分を見つめる日本国民にとってなくてはならない場であるからであると思います。だからこそ、これから先も人々とお寺の心のつながりはいつまでも変わらないのではないでしょうか。

立命館大学 三年
柏山寺 国分寺薬師堂
〒990-0053 山形県山形市薬師町2丁目12−32