苦しむことなく極楽浄土へ人々を導く阿弥陀さまをまつる「風立寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

苦しむことなく極楽浄土へ人々を導く阿弥陀さまをまつる「風立寺」を訪ねる

山形県山形市の東側、立石寺に近い場所にある風立寺は、『ころりさん』、『ぽっくりさん』として苦しむことなく極楽浄土へ行くことができるとお寺として親しまれています。自然豊かな環境で、その場にいるだけで自然と心が落ち着くとともに、人々のことを想う僧侶の思いが繋がってきた寺院であると感じることができます。今回は、風立寺ご住職の伊藤良順師にご案内していただきました。

 「こんにちは、私が風立寺のご住職を務めております伊藤良順と申します。私でこのお寺の50代目の住職になります。この度このようなお話をお聞き、映像や記事で風立寺の記録が残されていくことは大変貴重な機会であり、少しでも記録に残していただければと思います。よろしくお願いします。」

慈覚大師によって始まった風立寺の歴史

「この度、風立寺についてどのようにお話ししようかと考えていたとき、大正時代に作られた略縁起が出てきました。その縁起には、風立寺は2度火災の被害に遭ったとされ、近年には大正3年に火災が発生しており、その後大正6年に再興されたと記載がありました。略縁起はその再興のときに編纂されたもので、このお寺の歴史が詳しく書かれていましたので、この略縁起をもとに皆さんにお話ししたいと思います。」

「このお寺は斉衡3年(856)に慈覚大師円仁によって開山されました。正面にございますご本尊は、阿弥陀如来坐像でその脇には観音菩薩・勢至菩薩がともにまつられております。いずれも寺伝では慈覚大師円仁の御作と伝わっており、創建時の逸話が伝わっております。」

「円仁さんは衆生の人々を救おうと、東北地方一帯を巡られました。その途中、ここから南側にあります二口峠を越えて現在風立寺がある東山という地域にたどり着いたとき、円仁さんは疲れて石の上で休憩したといいます。すると、ちょうど北側に光が見えました。円仁さんはその光を見て、これこそ私が願っていためでたい印であろうと光のもとへ歩みを進めると、茂みの中から光り輝く仏像を発見しました。奇妙なことがあるのかと手に取って確かめてみると、相好円満な表情の阿弥陀如来像でした。」

「円仁さんはこのことに深く感じて涙を流し、その夜はその場所でお像を守りながら一夜を過ごしました。すると夢の中で阿弥陀さまがこの地に来た由縁を夢の中でお話になりました。」

「目を覚めると円仁さんはこれもまた珍しいことだと感動するとともに、すがすがしい風が吹き、清らかな川の水音とともにある阿弥陀如来のお姿にたいへん感銘を受けました。そして、このような御仏が後に心貧しい人の手に触れることは恐れ多いと白檀の名木を探し、このお像を守るために新しい阿弥陀如来像を造り、新しい阿弥陀如来像の胸に円仁さんが見つけた阿弥陀さまをおさめたそうです。ですので、この逸話が本当であれば、この阿弥陀さまの胸のところに円仁さんがおさめた阿弥陀如来像が入っているはずですね。」

時は流れ、室町時代。風立寺を火災が襲います。

「天文年間(1530頃)に火災が発生し、本堂などの堂宇は悉く焼失してしまったそうです。人々は円仁さんとゆかりのある仏さまも焼けてしまったと大変嘆いたそうです。そのような折り、お寺から東の方角に明るい輪光が輝きました。この輝きを見た人々は、皆不思議に思っていましたが、もしかしたら仏さまがそちらに逃げているのかもしれないと考え、その場所に向かいました。すると、阿弥陀如来像は損傷せずに悠然と輝いていました。その光景に皆驚いて、急いでお寺を再建して、元の通りに安置したそうです。そして、2回目の火災となる大正3年のときもご本尊さまは無事であったといいます。」

「実は、一昨年、東北古典彫刻修復研究所という修理所に依頼をしてご本尊さまのクリーニングを行い、お姿をきれいにしていただきました。そのときに調べていただいたのですが、持ち上げてみるとお像はとても軽く、今回の調査で山形市宮町に住む佐藤大助という仏師によって大正7年(1918)に造立されたと書かれた銘文があったそうです。ですので、寺伝と異なり後に造られた仏さまであるのかもしれません...。いずれにせよ、このような大きなお像をまつられているということ風立寺というお寺が篤く信仰されてきたことが分かると思います。」

ころりと苦なく極楽浄土と導いてくれる阿弥陀さま

「風立寺のご本尊は阿弥陀如来であり、安らかに極楽に行けますようにと、ころりさん、ぽっくりさんと親しまれています。お参りしていただいた方とお話をすると、親族がぽっくり逝くことができましたと感謝されることもあり、阿弥陀さまの力によるものがあるのだと感じます。また、いつ逝くかわからないからこそ思い残すことがないようにしていかなければならないという方や、自分が父母の面倒を見ることが大変であったために、子どもには苦労をかけたくないとお参りに来られている方もおられました。お参りしていただく皆さんは、誰かのためにご本尊さまへ手を合わせ、願いを託します。このようなお話をお聞きして、なるほどこれが伝教大師最澄の『己を忘れて他を利する』の精神なのだと強く感じています。」

盗難されても帰ってきた阿弥陀さま

「こちらを見てください。触っていただいてもいいですよ。実はこちら、当初のご本尊さまの腕になります。ご本尊さまは、現在定印を結んでいらっしゃいますから、腕が余分に多くあるということになります。これには、深い理由があるのです。」

造立当初のご本尊さまの腕を学生へ渡し、ご住職は理由を語ります。

「江戸時代の明暦3年(1657)5月下旬、なんとご本尊さまは盗難されてしまいました。首謀者は、正西という僧、そして正西に頼まれた現在の栃木県大田原市に住む善左衛門、四郎右衛門、彦左衛門の3人でした。善左衛門、四郎右衛門、彦左衛門の3人は、闇夜に包まれる風立寺に盗みに入り、ご本尊を持ち出してしまいました。」

「時を同じくして、風立寺の門前に住んでいた五郎八という信者の夢にご本尊さまが現れたそうです。夢の中でご本尊さまは、3度も「今、盗まれていくぞ」と五郎八に呼び掛けていました。五郎八は不思議に思いながら翌朝参拝するとご本尊はなく、仏殿の中が荒らされておりました。そこで昨夜の呼びかけは本当のことだったとたくさんの人々に伝え、大勢の信者で近隣を探し回りましたが、その姿をみつけることができませんでした。」

「ご本尊の盗難に成功した泥棒たちは、遠く離れた大田原の地で閉じこもりひそかに世間の様子を伺っていました。しかしながら、遠く離れた地にも次第に捜査の手が広がり、焦った泥棒たちは違う形の仏像に変えて追手から逃れようとし、仏師に依頼をして来迎印を結ぶ手を切り落として現在の定印へ変更しました。この時に切り落とされた来迎印を結ぶ腕が、こちらの腕というわけです。」

「それでは、姿を変えられてしまったご本尊さまはどのようにして風立寺に帰ってきたのか。因果応報といってもいいのかもしれませんが、ご本尊さまの姿をも変えてしまった泥棒たちの身の回りに罰が当たったそうです。親族共々疫病にかかったり、不思議な出来事にあったりと生きた心地のしないありさまでした。そこでこれはご本尊さまの怒りであると人々は考え、月心という仏道に帰依した人に頼んで風立寺に連絡してきました。」

「連絡を受けた風立寺は台座や光背を新調して、萬治二2年(1659)10月20日にこのお寺にお戻りになりました。現在にも大田原市にはご本尊さまと関りのある「弥陀屋敷」という地名が残っているそうです。また風立寺への返還にあたり大田原の人々からの詫び状が残されています。」

人々の祈りを受け止め続ける風立寺

「大正6年に落慶した本堂に、その当時の住職が素晴らしいことを残してくださいました。ご本尊さまが阿弥陀如来であることから阿弥陀信仰の篤い善光寺と同じように胎内巡りを整備し、お参りいただく皆さんがご本尊さまに触れていただく場を整えていただきました。時計回りで進み、阿弥陀さまがいらっしゃる西側に錠前がありそこでお祈りを行うというようになっております。善光寺さんに行けない人のために、このようなものを作ったのだと思います。大きなお寺ではいくつかあるのですが、このような小さなお寺では大変珍しいと思います。」

ご住職に続き、胎内めぐりへと進む学生たち。
想像以上の暗闇に足がすくみますが、視覚に頼らず1歩1歩着実に前へと進み祈りをささげる時間は、仏さまと全身で向き合うことのできる決して忘れることのない貴重な時間となりました。

「左右におまつりされている多くの観音さまは、西国三十三観音と最上三十三観音の仏さまたちになります。このお堂が再建された大正時代には、現在のように車も発達しておらず、気軽にお寺を巡るということは難しい時代でした。またこの近くに住む人々は、扇状地で住む土地も少なく生活も苦しかったと思います。そんな中、この場所に来ることで、多くの観音さまを一度に拝むことのできる場所として信仰を集めていました。」

本堂の中には、大きな絵馬が掛けられています。
「本堂に掛けられた大きな絵馬には、本堂が火災後に再建された大正6年の落慶法要の姿が書かれております。非常にたくさんの人々が描かれている事から、多くの人々が風立寺を信仰していた歴史が伺えますね。しかしながら、この絵馬の絵が剝がれてしまい、ある部分には穴が開いてしまっています。どうもこの穴がリスの通り道になっているようで、時折リスが顔をひょっこり出していたりもします(笑)。地域にとって大切な絵馬ですので修理もしていきたいのですが、なかなか着手できない厳しい状況です。」

地域のお寺を守っていくということ

「先代住職であった父が亡くなり、私がこのお寺の住職となってから今年で7年目になりました。風立寺のような地方寺院は様々なことに直面しています。風立寺はご覧いただいてお分かりの通り、自然豊かな場所に建つお寺です。ですので、今の季節はお檀家さんもお参りに来られるのですが、冬になると雪と深くお参りに来られる方も少ないのです。また、山形県ではつい先日、人口が100万人を下回ってしまいました。こうした社会環境の中で、どのようにお寺を維持運営していくか試行錯誤しています。」

「厳しい面も多いですが、嬉しい面もたくさんあります。風立寺のご本尊さまに祈ったから成功したと毎日お参りに来られお礼にと風立寺にお像を寄進していただく方や、このお寺で祈っていたからころりと行けたのだと感謝に来られる方、お寺があるからこそ様々な人々が集い、様々な出会いがあります。このようなお参りいただく皆さんの声を大切に、風立寺をこれから先へ繋いでいきたいと考えています。」

参加学生の感想

杉の巨木に囲まれた緑豊かな環境の中にある風立寺は、入った瞬間から時の流れるスピードがゆっくりであるように感じるほど落ち着いた空間で、そこの場所にいるだけで心が穏やかになっていくようでした。お堂の中に胎内巡りがあることに驚きました。ここに祈りに来られる方を迎えようとする歴代の住職の方々の思いがこのような造りになっているのだと思いました。毎日参拝される方がいらっしゃり、その方が不便にならないよう掃除が欠かせないとのお話を伺い、境内の広さを掃除されることの大変さとともに参拝にこられる方への思いやりの気持ちを強く感じました。胎内巡りのお堂と合わせ、いつでも迎えてくれるお寺だからこそ落ち着いた気持ちになることができ、さまざまな人の救いの場となっているように思いました。

奈良大学 博士前期課程
風立寺
〒990-2232 山形県山形市下東山433-1