造立当初の姿を伝える秘仏・千手観音をおまつりする甲賀の古刹「檜尾寺」を訪問する
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探訪「1200年の魅力交流」

造立当初の姿を伝える秘仏・千手観音をおまつりする甲賀の古刹「檜尾寺」を訪問する

滋賀県甲賀市にある補陀落山檜尾寺は、平安時代のはじめ、伝教大師最澄によって開かれ、慈覚大師円仁によって中興されたと伝わる甲賀有数の古刹です。鎌倉時代の作と考えられる秘仏千手観音さまが古来より篤い信仰を集め、現在も多くの方々が参拝されます。今回は檜尾寺を守る中村徹信ご住職に檜尾寺をご案内して頂きました。

「本日はようこそ、檜尾寺へお越しくださいました。」

学生たちを出迎えて下さったのは、檜尾寺ご住職の中村徹信さんです。
まず初めに、中村ご住職から、檜尾寺に伝わる最澄さんの逸話や安置されている仏さまについてお話しいただきました。

最澄さんによって「火尾寺」として開かれる

「この檜尾寺、開いたのは皆さんご存知の伝教大師最澄さまです。」

「伝教大師が比叡山に根本中堂を建立される際、良い木材を求めてこの辺りを訪れたといいます。すると、この辺りに住む村人から恐ろしい大蛇のお話をお聞きになります。その村人曰く、大蛇は尾を振る度に尾から火花を出して山火事を起こしており、この辺りの村人は日々の暮らしがままならず、大変困っているとのこと。そのようなお話を聞き、伝教大師はどうしようかと考えながらその日は眠りにつきました。」

「眠りについてからしばらくすると、伝教大師の夢枕に老人が現れました。その老人が伝教大師に語るには、「あなたが降伏しようとしている恐ろしい大蛇の正体は不加天津彦火瓊々杵尊神(ふかあまつひこほのににぎのみこと)である。龍を鎮める呪法を行ってくれれば、これより南山那智(熊野)に移りましょう。」と。夢から目覚めた伝教大師は、この老人のお告げを観音さまの霊告と考え、千手観音像を造立されました。そして、千手観音像をまつり、老人の言う通り大蛇に対して龍を鎮める呪法を行いました。するとたちまち、暴れていた大蛇の姿は消え、山火事の被害はこれより起こる事はなくなったといいます。このことから伝教大師は、この千手観音さまをおまつりするお寺を、観音さまがおられる浄土である「補陀落浄土」という言葉と尾から火を出す大蛇ということを踏まえて、補陀落山火尾寺と名付けられたと伝わっております。」

伝教大師が訪れてから数十年後、弟子の慈覚大師がこの地を訪れる

「それでは、いつ現在のような「檜尾寺」という名前になったのかと申しますと、仁寿3年(853)であると伝わっております。このとき、この地を慈覚大師円仁さまが訪れていました。そして、当時の天皇陛下である文徳天皇の勅命によりお寺を整備し、そのタイミングで「火」から「檜」という字になったと伝わっております。」

「どうして「檜」という字に変えたのかということが気になりますが、残念ながらそこまで詳しいことが記された記録は伝えられておりません。これは、想像の域ですが、伝教大師が建物を建てる際に役立つ良い木材をこの地に求めたことからもわかるように、この辺り一帯が良い品質の木材の産地であったことが関係しているのかもしれないと考えています。また、伝教大師が亡くなり数十年後に慈覚大師がお寺を再興したという点も気になります。もしかしたら、慈覚大師は生前の伝教大師からこの地であった大蛇とのエピソードを聞いていて、伝教大師の足跡を未来へ伝えるために朝廷へ掛け合ってお寺を再興したのかなとも考えています。」

「火」と「檜」の2つの字についてご住職とお話していると、この地で暴れていた大蛇や伝教大師、慈覚大師の気持ちに触れたような心地がしました。日常生活で比較的よく見るこの2つの文字に様々な人々の想いがつまっているのだなと感じました。

甲賀を代表する大寺院になる

円仁さんによって整備されてから、檜尾寺はますます発展したといいます。

「皆さんもご存知かもしれませんが、甲賀という地域はたいへん仏教が栄えた場所になります。中世にかけて、この甲賀地域一帯には「甲賀六大寺」という6つの大きなお寺がありました。この檜尾寺もその1つとして大変立派な堂塔伽藍を誇っていたようです。一番隆盛を極めていた時代には、28院6坊から構成される大きなお寺であったと伝わっています。」

「ちなみに、甲賀と言えば有名なのは忍者ですね。いまや海外からも忍者目当てに甲賀地域に訪れる方もいると聞きます。お寺と忍者には深いつながりがあるともいいますから、大きなお寺であった檜尾寺も忍者と関係があるのかなと考える人もいるかもしれません。しかし色々調べましたが、檜尾寺は忍者とあまり関係がないようです。もし関係が深かったらもう少し檜尾寺に来て下さる人が増えるかなと思う時もありますが、たくさんの方がお越しになるとたいへんですから、あまり深い関係でなくて良かったのかもと思っております(笑)。」

ユーモアに富んだご住職のお話もあり、境内には和やかな雰囲気が広がります。

造立当初の姿を伝える千手観音さま

「檜尾寺の歴史を御紹介しましたので、つづいておまつりされている仏さまについてお話したいと思います。最初にご紹介するのは、檜尾寺のご本尊・千手観音立像になります。こちらの観音さまは、頭の上にぐるっと複数の顔をいただき、千の目と千の手を持ち、全方位の人々をお救いになる仏さまです。以前は数十年に一度に御開帳する厳重な秘仏としておまつりされておりました。そのため、左右の脇の手や体の金箔など鎌倉時代前期の造立当初のものが失われることなく残っているそうです。」

また、この千手観音立像を修復していただいた昭和の大仏師・小野寺久幸さんによると、教科書を読んでいるように思えるほど、寄木造の理論を忠実に守り造立されているそうです。そのようなことから、当時の一流の仏師たちによって造立された仏さまであると考えられており、奈良国立博物館の特別展などにも出張されたこともあります。このようなことから、この千手観音さまは国の重要文化財に指定されております。現在は、以前ほど厳重な秘仏ではありませんが、正月三が日、2月1日、8月18日の年に3回のみ収蔵庫の扉を開け皆さんに公開しております。」

「続いて御紹介するのは、釈迦如来立像になります。こちらは、ご本尊さまより少し遅れた鎌倉時代後期の作と考えられており、甲賀市の指定文化財でございます。かつては彩色が施されていたようですが、年月が経ち木目が見えるようになっています。院派仏師の造立と考えられており、レントゲン等を用いて調査を行っていただいたこともありますが、残念ながら誰がいつ造立したかというような銘文は見つかりませんでした。」

「このような仏さまがおまつりされているということからも、この仏さまが造立された中世のころ、檜尾寺は大きく力のあるお寺であったことがわかるかと思います。また、ここでお話したいのは、ただ単に大きく力のあるお寺であったというわけではなく、地域の人々にとっても大切な信仰の場所であったということになります。」

「皆さんは廃仏毀釈という言葉を聞いたことがありますか?江戸時代以前は、神さまと仏さまを同じ場所でおまつりする神仏習合という形でおまつりされていました。しかしながら、江戸時代から明治時代へと時代が変革する際、色々な思惑が重なり、時の明治政府は、神様と仏様を明確に区別しておまつりしなさいという「神仏分離令」という政令を出します。すると、人々の中には単純に分けておまつりするだけでなく、仏教の側面を完全に排除し消し去るという動きが生まれました。これが廃仏毀釈ということになります。日本全国を見てみると、地域によってその動きの激しさに差があり、この甲賀地域は比較的穏やかだったようです。しかしながら、路肩におまつりされるお地蔵さまのなかには首を切り落とされているお地蔵さまもあり、今でもその痕跡を見つける事ができます。」

「現在、檜尾寺でおまつりしている仏さまは、こうした激動の時代を潜り抜けてきたことを皆さんに知っていただきたいです。そこには、仏さまや檜尾寺のことを大切に思っていただいていた地域の方々の存在があります。檜尾寺は甲賀を代表する大寺院でありましたが、地域の皆さんのお寺でもあったからこそ、今に歴史を伝えられているのだと考えています。」

かつてご本尊がおまつりされていた祈りの空間

「いままでは、文化財に指定されている仏さまについて御紹介してまいりました。これからは、文化財に指定されていない仏さまを御紹介したいと思います。」

ご住職に従い本堂へ移ります。

「こちらの本堂は、江戸時代に建立されたと考えられており、平成に2回改修工事をしています。収蔵庫が完成する前はこの建物の中央のお厨子の内部に、千手観音さまをおまつりしておりました。現在は、檜尾寺に伝わっている他の仏さまと、私が兼務している金龍寺におまつりされてきた仏さまをおまつりしています。」

「中央には、白い象に乗った普賢菩薩像をおまつりしております。その象の足元には、普賢菩薩の眷属である十羅刹女像をおまつりしています。さらに、左右には金龍寺でおまつりされていた薬師如来像や日光・月光菩薩立像、十二神将立像をおまつりしています。」

ご住職にお話をお聞きすると、本堂は檜尾寺の様々な法要を行う祈りの場所であるそうです。本堂におまつりされている仏さまは、表情も穏やかでどこか親しみやすく、地域の人々をあたたかく見守る距離の近い仏さまであると感じました。

様々な縁にあふれる檜尾寺

最後に、ご住職が整備した文殊院にて、檜尾寺やご住職を取り囲む様々な信仰や人々との繋がりについてお聞きしました。

「最後に来ていただいたこの建物は「文殊院」というお寺になります。檜尾寺の歴史をお話した際に、慈覚大師が檜尾寺を中興したとお話したと思います。この文殊院は、その際、慈覚大師が人々の暮らしが豊かであるようにと願いを込めて文殊菩薩像を安置したことから始まるお寺となります。そうしたことから文殊院の本尊は文殊菩薩さまになります。また、厳密に申しますと、檜尾寺とは異なるお寺となります。檜尾寺は、地域の祈願をするためのお寺であるので、檀家さんはいらっしゃいません。しかし、文殊院には檀家さんはいらっしゃいますので、檀家さんの年忌・法要のため文殊院の本堂の中央には阿弥陀三尊像をおまつりしております。」

地域の人々のために祈りをささげる場所である檜尾寺、檀家さんのためのお寺である文殊院。ご住職は檜尾寺や文殊院を様々な人々との縁が交わる場所にしていきたいとお話されました。

「檜尾寺では、地域の中学校から職業体験の場として生徒たちを受け入れています。地方の小さいお寺では、珍しい活動だと思います。さらに、地域の学校だけでなく、中高一貫校や海外生徒の体験も受け入れております。体験中は庭掃除や座禅、写経、斎食(食事作法)など、箒の使い方やご飯の食べ方から教え、お寺での生活を体験してもらいます。体験後、「ありがとうございました」と感謝のお言葉をいただいたり、数年後に「あのときお世話になりました。」と会いに来てくれたりと、そうした言葉は年を取った現在でも嬉しいものです。
お寺での体験が、子どもたちのためになっているかは分かりません。しかし父兄の方々から、お寺に行ってから子どもが変わったと言って頂いた時は、非常に嬉しかったですね。」

「加えて、私個人の活動として、パーキンソン病友の会を行っております。
自身の筋肉が日々衰えるのを見ながら、暮らしておられる患者さん方は、本当に大変な思いをしておられます。“友の会”と大仰な名前ですが、毎週金曜日に集まり食事を楽しむ会です。想像を絶する苦しみと日々向き合われている患者さん方には、共に食事を楽しむ時間だけでも心安らかになって頂ければという思いでやっております。」

地域の方々や、若い世代と交流が多い檜尾寺の中村ご住職。檀家さんや一般の方々と近い存在として、お寺を中心に一つのコミュニティが形成されていました。
ご住職は普段から、地域の方々から食事に誘って頂くともお話頂きました。檜尾寺と中村ご住職は、地域の方々に愛され、拠り所となっている暖かい居場所のように感じられました。

参加学生の感想

檜尾寺を訪れ、真っ先に気づいたのは奉納物の多さでした。そして奉納物のほとんどに、「還暦奉納」「〇〇回忌奉納」と書かれ、平成のものも大変多かったです。地域のお寺で年忌奉納はしばしば目にしますが、還暦など長寿祝いを契機に奉納されているのは、個人的には初めて目にしました。長寿祝いに奉納をする習慣があるほど、地区の信仰心は篤く、また檜尾寺は地域の人々と密着した存在なのだと考えました。しかし、物質主義・現世主義的価値観や信仰心の薄化が課題と考えられている現在、檜尾寺の在り方は珍しいと思います。鎌倉時代から残る御本尊千手観音さまや、代々のご住職のお人柄など、地域住民から愛される要素が多かったためかと思います。現在まで守り継がれてきた檜尾寺の文化財や地域での存在が、今後も継承されて欲しいです。

(文・立命館大学 3回生)
檜尾寺
〒520-3302 滋賀県甲賀市甲南町池田43