多くの武将に愛された桓武天皇勅願所「薬王院」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

多くの武将に愛された桓武天皇勅願所「薬王院」を訪ねる

水戸市の中心地に近い場所に位置する「薬王院」は、桓武天皇の勅願によって開かれた寺院です。多くの武将たちの祈願の場所になり、多くの人々に篤く信仰されてきました。そんな薬王院も明治時代に入ると廃仏毀釈等の影響を受け一時は無住の状態になりましたが、多くの人々の信仰を『守っていく』という思いによって復興がなされ、現在に至っております。令和6年に修理が完了した本堂や歴史等、様々なことについて薬王院の中村純亮ご住職にご案内していただきました。

薬王院の歴史

「私が薬王院の住職を務めております中村純亮と申します。よろしくお願いします。」
中村純亮ご住職は優しく迎えてくださり、本堂内でお祈りを済ませると、薬王院の歴史について詳しくお話してくださいました。

「このお寺は、吉田山神宮寺薬王院という名前になります。この地域を古くは吉田郷と呼ばれていたことから、地名から山号が付けられたと考えられています。神宮寺という寺号は、ここから300メートルほど離れた場所にあります常陸三宮であります吉田神社のお寺という意味から付けられました。広かった境内地も、廃仏毀釈や農地解放によって現在の地域となり、本来は吉田神社の神宮寺であったことから、地続きの広い土地だったのだと思われます。」

「天台宗の開祖であります伝教大師最澄さまは時の天皇であります桓武天皇に重用されていました。そういった関係から桓武天皇が勅願を出され、全国各地に天台宗のお寺が開かれました。この薬王院は、その中の一つになり平安初期の開創です。近隣にあります天台宗のお寺さま方のまとめ役を仰せつかっていました。その大きな理由といたしましては桓武天皇の勅願寺院であることに加え、立地としましても水戸の中心地であることからそのような役割を担っていたのだと思われます。本尊は薬師如来でございまして、心や体の苦しみを除き、安楽をお授けくださるご利益を以て国家安泰を祈るお寺として開かれました。それが自然と歴代の領主の帰依の対象として成り立ち、吉田神社と一体になって歩みを進めてまいりました。」
「鎌倉時代に入りますと、北条氏の祈願所となりました。武家との繋がりが強くなってまいりますと一体であった吉田神社とは役割が離れていき、室町時代になるとより進んでいきました。室町時代以降、馬場大掾氏、江戸氏、佐竹氏とこの水戸の地を治めていた領主が変わりました。神宮寺と呼ばれていたこのお寺は次第に薬王院という名前で呼ばれるようになりました。薬王院という名は本尊であります薬師如来から由来しています。」

「本堂は江戸氏が領主でありました大永7年(1527)に焼失してしまい、当時の領主でありました江戸氏の藤原通泰公によって再建が行われ、享禄2年(1529)に完成いたします。そのお堂が現在の本堂でございまして、国の重要文化財に指定されています。2年ほどで再建が行われておりますので、迅速に再建が行われていたことが伺えます。これはお寺や神社は、その地域を治める方々にとって祈りの象徴であり、ステータスでありますから権威をみせるという意味もあって再建が早く行われたのだと思われます。」

「佐竹氏がこの水戸の地を治めるようになりますと、佐竹氏は真言宗が菩提寺であったことから、このお寺は真言宗一乗院となりました。その際は天台宗の僧侶は他寺に移りましたが、佐竹氏が江戸時代に入りますと領地替えとなり、天台宗薬王院へと復帰いたします。」

「江戸時代には、水戸徳川家の菩提寺に定められます。特に水戸黄門で有名な徳川光圀公はこのお寺を大変崇拝し大変手厚く支援してくださりました。本堂は禅宗様式に大改修を行い、境内の向きを南向きから東向きに変えて仁王門を移築し参道を整備されました。仁王門は茨城県指定文化財で、中に安置される金剛力士像が水戸市指定文化財となっております。仁王門は茅葺きでございまして、平成4年~7年に屋根の全面解体の修理を行いました。」
「本堂には貞享5年(1688)に大改修されたときの棟札が残っており、墨書が薄くなっており赤外線写真で確認いたしますと、大改修が行われ南面していたお堂を東向きに変えたことや施主が光圀公であったことが分かります。この整備が行われたのは、水戸徳川家の権威を示す意味と並びに、江戸の大火で奥様が被災されて衰弱され、若くしてお亡くなりになられました。水戸家の菩提寺でありました薬王院に埋葬されましたので、奥様の菩提を弔うご供養のために手厚く擁護なされたのだと思います。また東向きに参道を変えたことで、水戸の居城から江戸へと向かう街道に面することになり、このお寺に来やすくする目的もあったのだと思われます。」

「光圀公は晩年儒教を盛んに学び、お墓もその考えに基づいた儒教式に変更され、水戸から30キロメートルほど北にあります常陸太田市の瑞龍山へその当時薬王院にございました歴代の遺骨を改葬されました。墓石は仏式のものと異なりますので、それまでのものは境内に埋められたと推察します。その境内の一画に五輪塔が境内整備を行っている際に発見されました。この五輪塔は、松平亀千代丸という方のものでありまして、後継ぎの方でしたが幼少の頃にお亡くなりになったことからその供養塔として築かれました。こちらもどうぞお参りなさってください。」

室町時代に建てられた本堂と本堂内にまつられる仏たち

「本堂は江戸氏の藤原通泰公によって再建が行われ、享禄2年(1529)に完成したお堂で、国の重要文化財に指定されています。桁行7間・梁間5間という大変大きなお堂でありまして、内陣に僧侶の方々、中陣に水戸の領主の方々、外陣に一般の方々と場所が定められ、お参りされていたのだと思います。」

「昭和43年〜46年本堂の全面解体復元の大修理が行われました。茅茸き屋根は茅葺き型銅板屋根に竣工しました。その以前は徳川光圀公大改修時の姿を残し禅宗様式の土間敷の建物であり、老朽化が進み柱に大きな用材で支えておりました。昭和の大修理から約50年が経過し、雨漏が確認されたため、今和4年6月から令和6年8月に亘り保存修理事業が行われ、屋根銅板葺替えと災害防止対策として耐風補強工事が行われました。屋根下地の木工修復には焼き印を入れ、いつ修復したか確認できるよう施工しています。」

「現在本堂の周囲に樹木が少なく整っていると感じると思います。これは昭和の大修理が行われたときに消火設備を作るために整備が行われたためで、以前は木々が生い茂っておりました。木々が生い茂っていたため戦災から逃れることができ、近隣の建物の多くが延焼の被害を受けているのに対し奇跡的に逃れたと思われます。」

「本堂の中心にあります宮殿の内部には、本尊であります薬師如来がおまつりされ、年に一回、5月にご開帳が行われます。須弥壇の上には日光菩薩・月光菩薩・十二神将がおまつりされ、本堂向かって右側には不動明王、向かって左側には毘沙門天がおまつりされています。これらは天台宗特有の祈願道場としての形で安置されております。また壁にも不動明王と毘沙門天の絵が描かれています。」
「十二神将像は慶派仏師の作であると考えられ、鎌倉時代の作という方も南北朝時代の作であるとおっしゃる方もおられる像になります。12体もおられますので、師匠が造った作であろうという像とその弟子が造ったであろうという像に違いがみられるそうです。この像はバラバラになってしまって箱に詰められて保管されていたそうです。年に2体ずつ復元修理が行われ、修理後茨城県の文化財指定を受けました。」

「本堂の須弥壇のすぐ近く、薬王院には大きな扁額が残されており、桓武天皇勅願所と書かれております。このお寺は現在でも京都にあります青蓮院門跡の本寺末寺の関係をいただいている寺院で、古くは青蓮院が延暦寺に代わり全国各地の天台宗寺院との関係を結んでいた時代がありました。関東で現在も青蓮院門跡と本寺末寺の関係を結んでいるのは、この薬王院唯一です。室町時代から江戸時代に入る頃、だんだんと青蓮院との間柄が薄くなってしまっていたことを当時の住職が心配して、青蓮院の門跡にお願いして扁額を書いていただき、本寺末寺の関係を確認するとともに、桓武天皇勅願寺であるという証明をいただいたということを表しております。」

「本堂向かって左側奥には、平安時代に製作された3体の仏さまが安置されています。足が消失していたため立つこともできなかったものを、台座に柱を立てて支えるようにして防蟻処理を行いました。このお像の像内に無量寿仏 伝教大師作との墨書がございます。如来なのか菩薩なのかもよくわからないぐらい破損が進んでしまっておりますが、この薬王院の長い歴史を物語る大切なお像になります。」

困難な時代を乗り越え、現在に薬王院の歴史を繋ぐ

「明治・大正・昭和には、寺社にとって大変苦しい時代でありまして、このお寺も苦しい時代が続きました。江戸時代までは水戸徳川家が代々祈願をする場所として庇護を受けておりましたが、その関係がなくなってしまった明治時代には、このお寺に住職がおらず他のお寺の住職の方が兼務なされていた時もありました。このお寺の歴史をどうにか守っていかなければならないと、檀家寺としてこのお寺の歴史を繋いでおります。そのため現在ではお寺として法要を行う際は、昭和8年に建立されました回向堂がメインとなっております。」

「仏さまも大変傷みが進んでおりましたので先代の住職が少しずつ修復を行い、このような皆様にお参りしていただける形になりました。修復は京都の美術院や西村公朝さんを中心に東京藝術大学の方々が行い、修復が成されたきれいな姿でおまつりすることができております。後世に保護するためにも文化財の指定を受けまして、ご本尊・十二神将が茨城県、平安時代の3体の仏像が水戸市の指定文化財となっております。令和6年に本堂の修理が完了いたしました。お檀家さんのみなさまと向き合うとともに、この薬王院の歴史を守り伝えてまいります。」

参加学生の感想

ご住職の説明を聞いている中で、このお寺が明治時代に無住となってしまい、荒れ果てていたとのお話をお聞きして驚きました。立派な本堂や堂内のお像たちからは想像できないようでした。徳川家の庇護から檀家寺へと変更することやお堂の再建や修理、お像の修理などさまざまな困難を乗り越えて今の姿があることを考えるととても感慨深く感じました。須弥壇の周囲を守る十二神将像は、どの像も動きがありとても生き生きとした躍動感のある像でこのような像があることに感動しました。この像もバラバラであった像を美術院や東京藝術大学の方々によって修理が行われていたとのお話をお聞きして、このお寺を守り伝えていきたいというご住職をはじめとした歴代の僧侶の方々の強い思いが縁として結びつき、現在にまで篤く信仰されているのだと思いました。

(文・奈良大学 博士前期1年)
薬王院
〒310-0836 茨城県水戸市元吉田町682