祈りを力強く受け止める珍しいお姿の延命観音をまつる「觀音寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

祈りを力強く受け止める珍しいお姿の延命観音をまつる「觀音寺」を訪ねる

茨城県の北西部、筑西市の中館地域に創建1400年以上と伝える古刹が伽藍を構えています。中館地域は奈良時代から平安時代にかけて築かれた3つの要塞(上館・中館・下館)のうちの一つを起源とするとされている歴史のある地域です。そのような中館地域の歴史とともにある觀音寺には、全国的にも珍しく美しい姿の観音さまを中心に様々な仏さまがおまつりされています。今回、春の訪れを感じさせる3月中旬に学生たちが觀音寺を訪問しました。

中国から渡来した僧侶によって創建される

「觀音寺の歴史は非常に長く、創建は今より約1400年以上昔、585年から587年にかけてであると觀音寺には伝わっております。」

そのように学生たちに語り掛けるのは觀音寺の住職をつとめる松居照邦師。

「觀音寺を開いた方は、法輪獨守居士(ほうりんどくしゅこじ)という方になります。この方は当時の中国(梁)より日本へ渡ってきた方とされ、この方が観音菩薩を中館の地におまつりしたと伝わっています。当時の中館では疫病が大いに流行していたといいます。そこで法輪獨守居士はおまつりした観音像に祈願をしました。すると、台地の上にある中館地域の崖下より清らかな湧き水が出て、地域の疫病を鎮めたといいます。この湧き水は現在も伝えられております。」
法輪獨守居士の祈りにより湧いたと伝わる湧き水

「ほかにも法輪獨守居士についての逸話が觀音寺に伝わっております。646年、法輪獨守居士は疫病の際に祈願した観音像を背負って当時の都に赴いたといいます。その時、時の左大臣である阿部倉梯(あべのくらはし)公の姫君は熱病を患っており、手の施しようがなかったそうです。そこで、法輪獨守居士が観音像に対し一昼夜祈願をしたところ、姫君の夢中に観音さまが姿を表し、それまで治らなかった熱病がたちまち平癒しました。このことを大いに喜んだ阿部倉梯公は時の天皇陛下に観音像の霊験を上奏したそうです。これにより、帝より『延命』という嘉称(よい名)を賜ったとされています。このような逸話によりこの地域ではご本尊さまのことを『延命観音』と称し、親しまれております。」

城跡の上に觀音寺は伽藍を構える

「ご本尊さまについてお話しする前に、もう少し觀音寺の歴史をお話したいと思います。法輪獨守居士によって観音像がおまつりされてから、およそ500年後の1110年頃、藤原実宗公が常陸介(国司の次官)に任ぜられ、伊佐荘中村(現在の中館地域)に館を構えたといいます。藤原実宗公の一族は代々伊佐荘に居住したことから、伊佐氏と称するようになりました。」

「伊佐氏はこの地におまつりされていた法輪獨守居士にゆかりのある観音像を篤く信仰していたようで、文治5年(1189)には、源頼朝公の奥州征伐の際に従軍した伊佐朝宗公が中館にあった観音堂において武運長久を祈願されました。その結果、奥州征伐で功績をあげ、伊佐荘だけでなく伊達郡(現在の福島県)や豊田郡(現在の結城郡石下町)も与えられたそうです。このことから、朝宗公は観音堂に6000坪の土地を寄進され、観音堂はますます発展をすることになりました。」
伊達家第23代当主 伊達重村(だてしげむら)公が参勤交代の際に寄進した銅香炉

「ここで伊佐一族は伊達氏とも名乗るようになりました。少し話はそれますが、伊達氏と言えば皆さんどなたか有名な方を想像できますよね。そうです、戦国時代に大活躍する伊達政宗公は朝宗公につらなる一族の出身になります。そうしたことから江戸時代になっても伊達家と觀音寺は深い繋がりがあり、伊達家歴代の方々から觀音寺に宝物や土地を寄進していただきました。」
「なかでも、伊達家第21代当主である伊達吉村(だてよしむら)公は参勤交代の際に觀音寺に立ち寄られ和歌を残され、そこにはこの觀音寺に参詣することが長い間の願いであったことが記されております。長い月日がたっても、觀音寺が伊達家にとって大事な場所であったことが数々の宝物からお分かりいただけるかと思います。」
「朝宗公の時代から約200年の月日が流れ伊達行朝公の時代になりますと、伊達郡より来山された行朝公は本堂や仁王門、経蔵、鐘楼、五層塔を新しく造営するとともに比叡山より実相坊心海というお坊さんを招き、観音さまを中心に整備を行いました。このように、行朝公は觀音寺とともに順風満帆な歴史をたどるように見えましたが、時は戦乱多々勃発する南北朝時代。伊達行朝公が籠城された伊佐城や近隣の城は落城してしまい、行朝公も戦乱のさなか命を落とされてしまいます。その後、跡をついだ伊達宗遠公の命により觀音寺では伊達行朝公の十七回忌追福のための法華三昧が営まれたことが記録に残っております。」
法華三昧の際に写経した法華経を運ぶ御輿

「現在もこの法華三昧は伝えられており、觀音寺を代表する法要として多くの方々が参列する大事な法要です。現在の法華三昧では写経した法華経を御輿に乗せて観音堂の後方にある伊達行朝公の供養塔まで運び、内部におさめています。また、觀音寺の現在の境内には、伊達行朝公をはじめとする歴代の方が入られた伊佐城の痕跡が多く残されています。觀音寺の境内は南北約500メートルにもなる細長い境内をしておりますが、その長い参道の両脇には伊佐城由来とされる盛り土が残されています。」

「このように觀音寺は伊佐氏・伊達氏などの武士と非常に強い結びつきのある寺院でした。この武士との強いつながりを覚えていただき、ご本尊さまのもとへとまいりましょう。」

全国的に見ても珍しい六臂の姿であるご本尊・延命観音菩薩立像

「先ほどお話しした通り、觀音寺のご本尊は観音さまになります。皆さん、観音さまと言えばどのようなお姿をされているでしょうか。私たちの姿に一番近い聖観音さま、十一の顔を持つ十一面観音さま、千本の腕を持つ千手観音さまなど、様々な姿を想像できるかと思います。しかしながら、觀音寺のご本尊である延命観音菩薩立像は全国的に見てもほとんど類例がないお姿をされていることで知られております。ご本尊さまは通常秘仏であるため、直接お姿をお参りすることはできませんが、ご本尊さまと同じお姿で彫られたお前立の観音さまが厨子の前におまつりされているので、そちらの観音さまをご覧になってください。」

ご住職の言葉に従い、目線を厨子の前に向けると6本の腕に様々な持ち物を持つ珍しいお姿の観音さまの姿がそこにありました。

「現在の觀音寺のご本尊さまは鎌倉時代に造立された仏さまであり、カヤ材・古色・彫眼の木造寄木造の観音さまです。胎内には1363年修理の墨書銘などあることから、現在国の重要文化財に指定されています。御開帳は1年に一度、2025年のように奇数の年は4月10日の観音護摩講において、偶数の年は11月23日の法華三昧会において御開帳されます。」
「觀音寺のご本尊さまのお姿の最大の特徴は、6本の腕を持つ姿であることです。千手観音や准胝観音など2本以上の腕を持つ観音さまは様々おられますが、6本の腕の観音さまというのはほとんどおまつりされていません。觀音寺の他には、同じ茨城県の桜川市の雨引山楽法寺さんのご本尊が6本の腕を持つ観音さまとして有名ですね。それでは觀音寺のご本尊さまが楽法寺さんのご本尊さまと同じ姿をされているのかというとそうではなくて、觀音寺のご本尊さまは持ち物や印相が愛染明王とそっくりなのです。」
「仏さまの腕は、第一手、第二手と数えます。まず、ご本尊さまの右側の腕に注目しますと、第一手は五鈷杵を、第二手は未敷蓮華(みふれんげ、つぼみの蓮華)を、第三手は宝箭(ほうぜん、矢のこと)を持ちます。続いて左側の腕では、第一手は五鈷鈴を、第二手は鉾を、第三手は宝弓を持ちます。これは愛染明王のそれぞれの腕の持ち物と一致しています。」

「それでは、なぜ愛染明王にそっくりな観音さまが造立されたのでしょうか。このことを紐解く上で重要となるのが先ほどお話した觀音寺と武士との強い繋がりになります。」

「観音さまの特徴をまとめた書物に従えば、延命観音は呪いや毒薬で危害を加えられようとしても、延命観音の力を念ずれば呪いや毒薬で危害は加害者自身に帰ってしまうそうです。このことと觀音寺と武士との強い繋がりをもとにすると、命のやりとりを毎日行い、常に命を落とす緊張感のあった武士たちが、命を落とさないように、戦に負けることがないようにといった武運長久の願いを受け止める力強い観音さまを求め、6本の腕を持ち愛染明王の姿に似ている珍しい観音さまが造立されたのではないかなと考えています。」

ご本尊の周囲を固める様々な仏さまと勇壮な彫刻に彩られる本堂

「続いてご本尊さまの両脇を見てください。皆さんから見て向かって右側には不動明王立像が、左側には毘沙門天立像がおまつりされています。不動明王立像は南北朝時代の造立、毘沙門天立像は鎌倉時代の造立と考えられており、両者とも筑西市の文化財に指定されています。」

「観音さまを中心に両脇を不動明王と毘沙門天が固める配置は、比叡山の横川中堂の配置が有名で天台宗のお寺に多く見られます。毘沙門天像の内部からは造立時に収められたとされる法華経が見つかっております。」

「また、本堂の長押の上をぐるりと見まわしていただくと小さな仏さまがずらっと並んでいることがおわかりいただけると思います。こちらは『千体佛』と呼ばれておりまして、江戸時代に造立された仏さまたちであるとされています。さらに、大きな仁王像も本堂におまつりされています。こちらの仁王像はもともと仁王門におまつりされていましたが、仁王門が損傷した際に、こちらに運んできた像になります。頭部の内側には墨書で1677年に仏師:原田左京が造立・奉納されたことが記されています。」
「また、ご本尊さまがおまつりされる本堂は江戸時代初頃に建てられたとされる建物になります。豪壮な彫刻が特徴で、一説には関東を中心に活躍した嶋村円哲という名工がこの彫刻に携わったとされています。こうした、仏さまや建物が今日まで伝わっているのも、伊達家の方々や地域の方々が長期にわたって援助をしていただいたことによるのだと思います。」

現代の名工の技術が集結した名建築が建つ

「長い歴史の間、ご本尊さまがおまつりされる観音堂は觀音寺の本堂として親しまれてきました。しかしながら、觀音寺は檀家寺でもありますので、檀家の皆様の回向を行う場として阿弥陀如来坐像を中心とする新本堂を2014年に建立しました。実はこちらの本堂を建てる際、職人の方々とどのような建物にするのか密接に話し合いをしながら建てました。例えば、観音堂にご本尊さまがおまつりされ、長い間本堂としての役割を担ってきた歴史をふまえて、観音堂よりも落ち着いた様式で部材を組んでいるなど細部まで工夫がたくさん施されています。また、小さな金具や瓦一つ一つにも職人さんの技術力と工夫が詰め込まれております。」

「さらに、建物の後ろ側にはもともと存在していた輪蔵を設けています。この輪蔵は明治時代に当時の住職が建立したもので、今回新本堂を建立するにあたり觀音寺に訪れる皆様が気軽に回せるように修復を行いました。輪蔵をスムーズに動かすことができるように修復することはたいへんな技術力が必要とのことでしたが、職人さんたちに頑張っていただき、お越しの皆様に触れ親しんでいただいております。」
「このような新本堂の中心におまつりされている仏さまが阿弥陀如来坐像になります。木造寄木造の仏さまで台座から光背の頂端までおよそ3メートル、像高1.4メートルにもなる大きな仏さまです。造立時期は鎌倉時代とも江戸時代ともいわれて未だはっきりとはわかりませんが、近年の調査により、体部は鎌倉時代かもしれないと言われています。光背には、大日如来や釈迦如来、弥勒菩薩、観音菩薩、薬師如来といった5体の仏さまが付属しています。こちらの阿弥陀如来坐像も筑西市の文化財に指定されています。」

「この新本堂が建立される以前、この阿弥陀如来坐像は今よりも少し窮屈な環境でおまつりをしていました。この新本堂を建立したことで阿弥陀さまのお姿がよりはっきりと拝見できるようになりました。阿弥陀さまが見守る中で、檀家の皆様が先祖の方々との記憶や思い出にゆっくりと浸れる場所にこの新本堂ができたらなと考えています。」

参加学生の感想

 今回の訪問では、ご本尊である6臂の延命観音さまの珍しいお姿と2014年に落慶した本堂の力強くも美しい姿が心に深く残っています。
 ご本尊の延命観音さまについて、ご住職より愛染明王の姿に似ており、武将との縁が深い觀音寺だからこそ、生きるか死ぬかの乱世を生きた武将たちの祈りを叶え、災いを払いのけるためにこのような珍しい観音さまが造立されたのではないかとお聞きしました。この観音さまのお姿を写真で知ってから、なぜこのような観音さまが造立されおまつりされているのか興味を持っていたので、ご住職のお話に非常に興味を持ちました。
 また、現在の職人の方々が力を尽くして建立した本堂の建物は、細部まで手を抜かず丹精込めて建立されたことがご住職のお話から感じられ、これから数十年・数百年後には日本を代表する建物になるのではないかと感じました。
觀音寺
〒308-0005 茨城県筑西市中舘522-1