小栗判官終焉の地とされ、茨城の地を見守る阿弥陀様がおまつりされる「圓福寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

小栗判官終焉の地とされ、茨城の地を見守る阿弥陀様がおまつりされる「圓福寺」を訪ねる

3月になり少し暖かさを感じる日、学生たちは茨城県の中央部に位置する茨城町を訪れました。茨城町には創建されてから1000年以上の歴史を誇る天台宗の古刹・圓福寺が伽藍を構えています。幕末から明治に時代が大きく移り変わる中で強く廃仏毀釈の風が吹いたという茨城県。波乱の歴史を乗り越え今に歴史をつなぐ圓福寺を訪問しました。

慈覚大師円仁により始まった圓福寺の歴史

「ようこそ茨城までお越しくださいました。」
とお迎えくださったのは本田 純耕ご住職です。
早速ご本堂へご案内いただきました。

「こちらが当山の本堂となっております。まずは圓福寺の縁起についてお話いたしましょう。このお寺についてですが、まずはこちらの額をご覧ください。現在、国の重要文化財に指定されている阿弥陀如来坐像が大正5年に御開帳された際に、お寺の縁起を説明するために書かれた縁起になります。」

「圓福寺は慈覚大師円仁様が山形の立石寺を御開山されたのち、都に戻る途中この地に立ち寄った際に、阿弥陀様のお告げを受けて阿弥陀様のお像、そのお像をおまつりするお堂を建てたことに始まると伝承されております。しかし、その後の度重なる火災などにより、記録や慈覚大師様が造立されたお像は焼失してしまい、幕末の頃に、現在収蔵庫にいらっしゃる阿弥陀如来さまをお迎えしました。茨城県の歴史史料や水戸藩に伝わった史料によると、室町時代のころにこの近辺の有力な一族であった鳥羽田氏の鳥羽田孫次郎という方が大般若経を書写して奉納したことが記録に残されているものの、火災などにより直接的に圓福寺の歴史を物語る史料はお寺に伝わっておりません。」

「それでは、お話に登場した阿弥陀如来さまのお参りへ向かいましょう。」

古くから常陸の有力者を見守る阿弥陀如来坐像

本堂から出てすぐの場所に建てられている収蔵庫にご案内いただきました。この収蔵庫は戦後から10年ほどたった昭和34年には建てられていたといいます。収蔵庫の建立の早さからは阿弥陀如来さまを後世へ伝えたいという先人たちの熱意を感じます。

「こちらが先ほどの縁起でも登場いたしました阿弥陀如来さまになります。ぜひお近くでご覧ください。」

そうご住職にご案内され、阿弥陀如来坐像の近くによって学生たちは参拝します。

「こちらの阿弥陀如来様には銘文が残っております。現在は見ることができないのですが、建保5年(1217年)には既に造立されて、水戸にいらっしゃったことがわかっております。江戸時代には水戸東照宮の別当寺であった大照寺におまつりされていたことが記録に残されています。造形的に定朝様の流れを汲んでいるものの、衣文の彫りなどが形式化していること、頭部の螺髪の彫りも粗いことから平安時代末~鎌倉時代初期に中央ではなく地方の仏師によって造立された仏さまであると考えられています。」
ここで学生たちから、
「もともと水戸東照宮にいらっしゃった阿弥陀如来坐像が、どのような経緯で圓福寺に移されたのでしょうか。」
と質問が挙がります。

「先ほど申し上げたとおり、この仏さまは平安時代末期から鎌倉時代にかけて造立されたと考えられています。造立されてから江戸時代にかけてこの阿弥陀さまがどこでどのようにおまつりされていたか、詳細はわかっていません。現在水戸東照宮がある場所には、中世、圓通寺というお寺が伽藍を構えていたといいます。その後、いくつか寺院が移転された後、水戸徳川家により水戸東照宮が創建されました。その際に、この阿弥陀さまは水戸東照宮の別当寺である大照寺に将来され、おまつりされたようです。」

「しかしながら阿弥陀さまは波乱の歴史に直面することになります。幕末の頃、徳川慶喜公の父君として、さらに尊王攘夷の中心的な人物として著名な徳川斉昭公が水戸藩内の寺院を整理する政策の廃仏毀釈を推し進めます。その際、水戸東照宮からは仏教の祭事や仏の一切が取り除かれたそうです。そのような時期に、くしくも圓福寺は火災にあいご本尊も失ってしまっていました。そこで当時の圓福寺の住職である隆昌(りゅうしょう)師が水戸藩に願い出て、居場所を失っていた阿弥陀様をお迎えいたしました。」

水戸藩からもらい受けたといっても、鎌倉時代ごろから茨城の地を見守り続けた阿弥陀様が来られたという圓福寺と阿弥陀様とのご縁を深く感じることができるエピソードです。

「その後圓福寺に移されてからご本尊としておまつりされていましたが、昭和25年に国の重要文化財に指定されたことによって、保存のために昭和34年に収蔵庫に移されることになりました。」

浄土真宗と深い縁をもつ等身大の阿弥陀三尊像

ご本尊である阿弥陀如来坐像が収蔵庫にお移りになり、それではどなたが本堂におまつりされていらっしゃるのでしょうか。

その疑問を解決するために、ご住職に従い再び本堂へと足を踏み入れます。

「本堂中央におまつりされている仏さまは阿弥陀如来立像を中心に脇に観音菩薩立像、勢至菩薩立像を配置する阿弥陀三尊像になります。こちらの阿弥陀三尊像を本堂のご本尊として現在おまつりしています。こちらの阿弥陀三尊像は、3躯ともヒノキ材からなる一木造です。中尊の阿弥陀如来立像のみ内刳り(うちぐり)が施されており、そこに徳治2年(1307)の造立銘札が残されていました。衣文を含めて随所に彫りの粗さが見えることから、中央ではなく地方の仏師によるものと推測され、鎌倉時代後期の地方の三尊形式の基準作ともいえる、というのが専門家の方の見解です。」

「中尊の阿弥陀如来立像の胎内にはびっしりと墨書銘が残されており、こちらの阿弥陀三尊像がもともと浄土真宗の寺院にあったこともわかっています。」

「少し話しはそれますが、13世紀初期、親鸞聖人が佐渡に島流しに遭い、その後関東への布教のために現在の茨城県笠間市の稲田(圓福寺から北西へ30キロメートルほどのところ)に滞在しておりました。その時に親鸞聖人を助けたのが、弟子の一人である性信さまです。この方は茨城県西部にある報恩寺を拠点に門徒(横曽根門徒)たちを率いて活動されていました。そして、その跡を継いだのが性信さまの二女の證智(しょうち)尼です。」

「墨書によると、中尊の阿弥陀如来さまはその證智尼と同じ大きさで造立されたことがわかります。さらに、銘文には圓福寺のそばに存在した龍含寺という真言宗の寺院に移され修理された記録も残っています。こちら圓福寺には、大正年間に龍含寺が廃寺になった際に、龍含寺の本尊と一緒に寺宝が移されたという歴史があります。」

宗派を超えて仏像が移されたということから、先ほどの阿弥陀如来坐像に引き続き、仏様と圓福寺とのご縁を感じることができました。

「また、こちらの阿弥陀三尊はもとが浄土真宗の信仰の対象であったということで、地方の浄土真宗の信仰形態を見る上で貴重な文化財となっています。そのため、展覧会に出陳されることもあります。かつて京都での展覧会のためにこちらの阿弥陀三尊像をお出しした際は、圓福寺から出発した翌日に東日本大震災が発生しました。もし京都へ行かれずに圓福寺にとどまっていたら被災し、一木造でとても重いために阿弥陀三尊像や本堂は重大な被害にあっていたかもしれません。」

仏様が自身やお堂のために震災を察知したのではないかと思われるお話からも、仏様の不思議な力、縁を感じました。

小栗判官終焉の地に祀られる小栗判官像

「ここ圓福寺は浄瑠璃や歌舞伎で有名な小栗判官の終焉の地と伝わっており、こちらが小栗判官と伝わる御像を収めているお堂になります。小栗判官像と照手姫の像は龍含寺が廃寺になった際に、阿弥陀三尊像などと共にこちらに移されたものです。お堂は平成になってから作り直されているために綺麗に残っています。」

「小栗判官の物語は常陸小栗氏がモデルになっており、この地に物語が伝わると地元豪族の鳥羽田氏と結びつけて考えられるようになったのかもしれません。小栗判官の物語はフィクションの話ではあるものの、1月14日、6月6日には昔、御像を拝みに来るという習慣がありました。現在では龍含寺のあった場所の近くの家の付近の方が、お櫃にお赤飯を作って毎年6月にお供えしてくださっています。」

フィクションの登場人物でありながら、信仰の対象として今でも地元の人々に親しまれている温かいエピソードを伺いました。

参加学生の感想

 圓福寺を訪れて、住職のお話を伺った中でやはり、仏様と圓福寺とのご縁の深さがとても強く印象に残っています。「仏様は歩き回る」とどこかで耳にしたことがある通り、仏様はご自身の意思や何らかのご縁によって移動されます。圓福寺にいらっしゃるということから圓福寺と仏様との強い縁を感じることができました。
 また、仏様の辿ってきた歴史を銘から知ることで仏様に込められた当時の人々の想いや時代の流れが物語として現在にまで伝わっていることに感動しました。仏様というと信仰の対象や美術品としてとらえられがちでありますが、仏様のいる場所や経緯は当時の時代の流れや移り変わりを語ってくれるものであると知りました。
 仏様とのご縁や壮大な歴史の流れを感じることのできる圓福寺をぜひ訪れてみてください。

(文・立命館大学法学部 2回生)
圓福寺
〒311-3142 茨城県東茨城郡茨城町鳥羽田656