地域の人々とともに歴史を紡ぐ行基菩薩創建の古刹「水間寺」を訪ねる
大阪府の南部、和歌山県にほど近い貝塚市に天台宗を代表する名刹・水間寺が伽藍を構えています。創建されてから1200年以上の歴史を持ち、いつの時代も身分をこえて様々な人々からの信仰を集めた水間寺の境内には、先人たちの願いが満ちています。今回、冬の訪れを感じさせる12月初旬に学生たちが水間寺を訪問しました。
水間寺の開山と地域の人々でお寺を守る寺僧制度
「本日はようこそ水間寺へお越しいただきました。」
学生たちを出迎えるのは水間寺の寺僧のみなさん。

「水間寺の歴史をお話しする前に、水間寺に伝わる寺僧制度についてお話ししたいと思います。通常のお寺では僧籍を持つ僧侶の方がご住職や僧侶となり、お寺を守っていると思います。ここ水間寺では、他のお寺でいうご住職である貫主は比叡山の僧侶の方がつとめていますが、日ごろの水間寺の運営は私たちのような寺僧と呼ばれる人々によってなされています。寺僧は水間寺の周辺地域の人々から構成されていて、この地域の人々は60歳になると同時に得度を受けて寺僧になります。このような寺僧制度が現在まで伝えられているお寺は全国的に見ても珍しく、水間寺の特徴の一つとなっています。」
水間地域では古くから定年退職後に水間寺を守るという伝統が受け継がれていることに、私たち一同はとても驚きました。まさに地域住民に愛され、地域住民が守っているお寺です。
「それでは、続いて水間寺の歴史についてお話ししたいと思います。水間寺が創建されたのは、今からおよそ1300年の奈良時代になります。水間寺の創建に関わったのは、皆さんおなじみの聖武天皇と行基菩薩になります。水間寺には現在まで創建にまつわるお話が伝えられています。」

「聖武天皇が42歳の時、聖武天皇は病にかかっていました。ある夜、都から南西の方向に霊験あらたかな観音菩薩が出現するという夢のお告げを受けたといいます。そこで聖武天皇は行基菩薩に命じてその霊地を探しに行かせます。すると、歩みを進めた行基菩薩の前に十六童子(16人の子どもたち)が現れ、その霊地へと案内するといいます。十六童子の先導に従うと、うっそうとした原始林の中、巨岩に囲まれた大きな滝にたどりつきました。行基菩薩がこの地にたどりつくと、巨岩の上に白髪の老人が手に一体の観音さまを捧げながら姿をあらわしました。その老人は行基菩薩に向かって『汝を待つこと久し』と言い、自分の手首を嚙み切って、手に持っていた観音さまを行基菩薩に渡されました。その後、白髪の老人の姿は大きな龍へと姿を変え天高く飛び去ってしまいました。」
行基堂におまつりされる行基菩薩坐像
「観音さまを手渡された行基菩薩は都に帰り、聖武天皇にささげたところ病状は回復し、出現した地にこの観音さまをまつるように命じられました。そして、行基菩薩はこの水間の地に観音さまを本尊として堂塔伽藍を整備し、水間寺が創建されました。」

「このお話に登場する滝ですが、現在も境内に「降臨の瀧」という名で残されておりご本尊が出現した聖地として大切にされております。また、お話の中で登場した白髪の老人、後に龍神さまであると伝えられていますが、行基菩薩に観音さまを渡す際に噛み切った手が宝物として水間寺に伝えられています。」
焼失の度、再建されてきた金堂
「行基菩薩により堂塔伽藍が整備された水間寺は、建久元年(1190)までに金堂や多宝塔、講堂、鐘楼などが建立され七堂伽藍がすべて完成し大いに隆盛していたと伝えられています。しかしながら戦国時代に、本堂や多宝塔、門など主要な堂塔が焼失してしまいました。それは豊臣秀吉による紀州根来征伐によるもので、豊臣方の小出秀正公の兵火に掛かったためでした。しかしながら、小出秀正公は後に岸和田城主となると、文禄5年(1596)に本堂を再建しました。そして、寛永2年(1625)には後の岸和田城主の松平康重公によって九間四方の大きな建物として改築されました。」

「しかしながら、天明4年(1784)に再建された建物も火災により焼失してしまいました。ですが、その後に岸和田藩主の岡部長愼(おかべながちか)公により十三間四方の大堂として再建され、現在まで受け継がれています。この金堂はどっしりとした印象を受ける二重の屋根と、たくさんの人が一度に参拝できるような広い外陣が特徴的で、いかに水間寺の観音さまが信仰を集めていたのかが分かる貴重な建物になります。」
「本堂の中央には、先ほどお話ししたご本尊の聖観音菩薩がおまつりされています。絶対秘仏であるためその姿を直接見ることはできませんが、閻浮檀金(えんぶだごん)でできた一寸八分の小さな観音さまであると伝えられています。左右には阿弥陀如来さまと文殊菩薩さまをおまつりしています。」
江戸時代以前に建立された大阪府内唯一の三重塔

「先ほどお参りしていただいた金堂と同時にこちらの三重塔は建てられました。もともと水間寺には、聖武天皇の娘である孝謙天皇が仏舎利をおさめた多宝塔が建てられていましたが、寛永元年(1661)の再建以来三重塔となりました。実は、この三重塔、大阪府内に残る三重塔のうち唯一江戸時代以前に建立された建物になります。一層部分の蟇股には十二支の干支の彫刻が施されていて、訪れる皆さんから注目されていますね。また、江戸時代の小説家である井原西鶴が書いた『日本永代蔵』に出てくる塔のモデルとなったとしても語り継がれています。今回せっかくですので、特別に三重塔の内部にご案内いたしますね。」

寺僧の皆さんのご案内に従い三重塔の内部に足を踏み入れると、外観の木の味わいを生かしたシックな印象とは対照的な極彩色の仏の世界が広がっていました。
「三重塔の内部中央には釈迦如来像をおまつりし、その四方を四天王立像が守護しています。内部の彩色も建立された当時のものが残っていると聞いています。ここまで綺麗に残っている障壁画も珍しいと思います。」
2025大阪関西万博にも出演予定、伝統のある千本餅つき

「水間寺に伝わる「千本餅つき」を紹介したいと思います。千本餅つきは、行基菩薩を水間の地に導き、聖観音が出現したことを喜んだ十六人の童子が千本の木の枝をもってお餅をつき、奉納したというお話に基づいています。お正月の2日・3日の日には16人の地域の若者たちがお餅つきを行う行事として受け継がれています。お餅をつくのは寺僧の親を持つ若者で、若い時から水間寺の行事に参加することからも地域で支え、盛り上げている水間寺の特徴を表しています。」

「金堂のそばの石碑は、1970年の大阪万博や、1975年の沖縄国際海洋博覧会に出演したことを示すもので、2025年の大阪関西万博でも出演が予定されています。ぜひ皆さんも見に来ていただけたらなと思います。」
参加学生の感想

水間寺を訪れてたくさんのお話を伺って、最も印象に残ったのは寺僧制度でした。お寺を地域の人々がそれぞれの職を終えられた後に僧侶となって守っていくという制度はとても素敵な制度だと感じましたし、その制度が現在にまで残っているというのは永く水間寺が地域に愛されたからだと思います。そして、お話を伺った役員の皆さんのお話からも水間寺について幼い時から身近なものに感じられていたり、様々な言い伝えが地域に残っていたりと、水間寺は唯一無二の地域密着型のお寺だな、と感じました。
水間寺は江戸時代の三重塔や室町時代の開山行基堂のような文化財を鑑賞し、神聖な水間の地を感じることができるとともに、水間の地域の人々の想いを随所に感じることができる他のお寺にはない暖かさのあるお寺だと思います。
(立命館大学法学部2回生)
水間寺
〒597-0104 大阪府貝塚市水間638