京極家一同が静かに眠るお寺、「徳源院」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

京極家一同が静かに眠るお寺、「徳源院」を訪ねる

滋賀県米原市の山の麓の落ち着いた場所に、徳源院が位置しています。徳源院は、宇多源氏の家系で武将としても有名な京極家のためにつくられた寺院になります。京極家の墓所があり、鎌倉時代から江戸時代に至るまでの石塔が並んでいます。京極家とともに歩み今なお眠る地を、山口光秀ご住職にご案内していただきました。

京極家とともに歩む徳源院

まずは京極家と徳源院とのつながりをお話しいただきました。

「このお寺の名前は、霊通山清瀧寺徳源院と申しますが、このお寺の名前の由来は京極家のお殿様の法名から来ておりまして、清瀧寺さんや徳源院さんをおまつりしているお寺です。まずは京極家の成り立ちとして、室町時代から戦国時代、そして江戸時代と、時代によっての京極家とこちらのお寺とのつながりを案内していきます。」

「京極家は元々は平安時代10世紀の宇多天皇の孫である雅信から始まります。雅信が皇室から出て一般の人になっていくときに源の性をもらったため、この一族を宇多源氏や滋賀を拠点にしていたことから近江源氏と呼ばれています。雅信の三代後の滋賀県四日市付近を拠点にしていた地方豪族の佐々木氏に合流して、佐々木一族になります。徳源院をまわっていただきますと、四角を4つ並べたマークが多くあると思います。これは佐々木一族の家紋で四ツ目と言います。この家紋を現代の佐々木一族も誇りに思っています。」
「この佐々木一族は鎌倉時代に大変栄えまして、日本中の半分以上の国の守護や地頭を佐々木一族で務めている時代もありました。その佐々木一族に信綱という人物がおりまして、信綱の4人の子どもに家督相続をします。
長男は伊吹山の麓の大原の地を相続し佐々木大原氏、次男は琵琶湖の西側の高島の地を相続し佐々木高島氏、三男は滋賀の真ん中を流れる愛知川の南側を相続し六角氏、そして四男の氏信は愛知川の北側のこの周辺を相続して京極家の祖となります。土地を相続したからといってずっと相続した土地にいるわけではなく、ほとんどを京都で暮らしていました。」

「そのため町中に佐々木さんがたくさんいたことから、見分けが付くように住んでいる場所で呼ぶようになり、京極氏は京都の京極に住んでいたからこの名がついています。佐々木一族が4つに分かれるのは1280年頃なのですが、それ以降江戸時代になるまでは滋賀県の北半分を京極氏、南半分を六角氏が支配していました。このお寺は京極家の初代の京極氏信によって開かれました。」

道誉桜と道誉・北畠具行の絆

「お寺に入るところに2本の大きな桜の木があります。この桜を道誉桜と呼ばれております。この桜は京極氏5代目の京極高氏、法名では道誉さんによって植えられた桜と呼ばれ、現在の桜は2代目と3代目になります。この道誉さん室町時代初めに活躍した人物で、婆娑羅大名の先駆けとして有名で後醍醐天皇や足利尊氏らとともに太平記の中で記されています。婆娑羅大名はヤンチャで派手なことを好み、権威に対して逆らうことがあっても一般の人には迷惑をかけないという人物になります。」
「この時代に後醍醐天皇が鎌倉に移ってしまっている実権を取り戻そうと画策し、その途中でみつかって捕まってしまう元弘の乱という事件起き、その結果後醍醐天皇は隠岐に流されることになりました。その時に後醍醐天皇を隠岐まで連れていく役目に選ばれたのが、道誉さんです。
道誉さんは、滋賀のこの辺の土地だけでなく京都北部や島根県松江付近まで多くの土地を持っており、自分の土地だけ通って隠岐まで行ける最適な人物だったのです。」

「後醍醐天皇を隠岐に連れて行った後、共謀した人物として後醍醐天皇のブレーンであった北畠具行を鎌倉に送る役目も担いました。鎌倉へ送る途中に話をしている中で、道誉さんと具行は意気投合し、具行さんをこのまま鎌倉に送れば打首にされてしまうのは惜しいと思い、このお寺に留め助命嘆願書を鎌倉に送りました。そうすると鎌倉からはこちらに連れてこなくても良いからその場で打首にしろとの命令が送られ、やむを得ずここで具行はこの場所で切腹されることになります。
このような経緯から京極家の隅の方に、北畠具行のお墓がまつられました。後に後醍醐天皇が隠岐から脱出し勢力が大きくなっていく中で、楠木正成らが天皇を支援するものとして英雄となっていました。同じように後醍醐天皇を支えた北畠具行がこのままではかわいそうだと17回忌の法要で名誉を復活され、近くの山の上に新たに宝篋印塔をたてそこでおまつりされています。」

秀吉に負けながらも京極家を大きくした中興の祖・京極高次

「時代が下り戦国時代の後半になると、京極氏の力が弱まり、内乱では部下の浅井氏が力を持つようになって、浅井家3代目の浅井長政の時には、京極氏の実権はほぼなくなってしまいました。隣の岐阜を領土としていた織田信長が、全国制覇をめざし京都へ向かおうとこの辺りを通ったときのことです。ここの領主であった京極氏より浅井氏の方が力があったため、信長は浅井氏に妹のお市をさし出すことで同盟を結ぼうとしました。浅井氏側はお市の代わりになるような人がおらず、京極氏にお願いして、京極家19代目の高次を信長へ人質として送りました。
信長にとって京極家は、憧れの家系であったため、送られてきた高次を可愛がったようです。しかし高次はその後の本能寺の変の後には明智光秀側につき、秀吉の城である長浜城を攻めるのですがしっかりやられてしまってこの地に逃げ帰りました。そして追手に追われ柴田勝家に助けを求めました。勝家も京極家のお坊ちゃまの高次を可愛がったのですが、結局賤ヶ岳の戦いで再び秀吉に敗れることとなりました。」
「つまり高次は秀吉に2回も負けてしまったのですから、普通であればそこで人生終了と思われがちですが、高次の運はとてもつよかったんですね。
高次には竜子というお姉さんがいて、その方が若狭武田氏の武田元明に嫁いでいました。この人は全国的にも有名なべっぴんさんで、秀吉は竜子を欲して武田元明に有る事無い事を言って切腹させました。そして高次を助けることを約束して、秀吉の側室にさせたのです。」

「こうして出世して大津城の城主になった高次でしたが、次には関ヶ原の戦いが起きます。秀吉にお世話になった立場ですので、西軍になると周りが思っていました。しかし開戦近くになると東軍になると言い、大津城に籠城し西軍を引き止めた後、最終的には高野山に逃げたのです。これがきっかけで勝てたのだと徳川幕府に評価され、8万石の若狭小浜城として破格の待遇で迎えられます。このお寺では、大名家まで立て直した中興の祖として高次さんを中心におまつりしています。」
「まさに波乱万丈。とはいえ、強運の持ち主だったのですね」

京極家代々をまつる位牌堂と京極忠高に仕えた忠臣二人

次に本堂の奥にある位牌堂を案内していただきました。

「高次の次の20代目忠高さんは、徳川幕府3代将軍の家光のお姉さんである初姫と結婚し、どんどん位も上がり島根の松江城主となり、京極家の長い歴史の中でも栄えていた時代になります。
しかし跡取りを幕府に報告する前に急病で亡くなってしまいます。
こういうケースは、本来であれば例外なくお家取り潰しになります。しかしその時の家老の佐々九郎兵衛光長が江戸城まで走って、京極家のお家取り潰しをしないでくれと嘆願すると意外にも受け入れてもらえました。
松江から兵庫県竜野の領主に移された後、数年後に香川県丸亀の城主になります。丸亀城の城主になったのが21代目の高和さんで法名を徳源院といい、ここからこのお寺の名前は徳源院となりました。」

「位牌堂では、京極家の京極家のお殿様のお像を中心に 安置されています。
このお寺では、ご位牌とともにお像をご位牌としておまつりしているため、このような形となっております。ご位牌の前に全身が白いお像が2人おられます。こちらは京極忠高が亡くなった時に、ともにいこうと殉死なされた2人の像になります。この2人は墓所でも忠高さんの後におまつりされ、現在でもともにおられます。」

現在のお寺の形を形成した京極高和と歴代の京極家の眠る墓所

「高和さんの次の22代目高豊さんは、京極家のお殿様が鎌倉時代から代々どこで亡くなってもこの清瀧寺でまつられていたとの話を聞き、21代目の高和さんのお骨を持ってこの地を訪れました。そしたら先祖代々の墓がきちんと管理が行われておらず、さまざまな場所に散らばっていました。まずはお父さんのお墓より先祖の墓を整備しなければならないと集められました。鎌倉時代から江戸時代に至るまで、連綿とこの地でおまつりしているのでそれぞれの年代の特徴の違いがみられます。この場所では文化財でありながら墓所であるので、特に敬意を払ってお参りするようにしましょう。」

「徳源院の墓所の上の段に、18代目までの18つのお墓が並んでいます。19代目の高次さんからは、下の段で石でできた建物の中に納められています。江戸時代までは、参勤交代で柏原宿に来ると必ずここへお墓参りに来られるというのが続いていました。明治時代になってからは東京に移られ、そこからは東京にお墓を持つようになったため、このお寺では、江戸時代までの京極家のお墓がおまつりされています。ここは京極家という家一軒だけの檀家寺でしたので、檀家さんが一軒もいないお寺になってしまっており、外で働きながらこのお寺を守っていくようになっています。現在は京極家の墓所は東京に移っているのですが、現在でも毎年春に京極家の方々がこられお参りされており、関係が続いております。」

今回は特別に三重塔の中を開けていただきました

「高豊さんは、お墓の前にある三重塔や境内の庭の整備、参道の畑となってしまっている場所にあった十二坊の小寺の整備を行い、1660年から1670年に現在のこのお寺の形になりました。三重塔は、2023年の12月に屋根の修理が終わったところです。三重塔の中には、如意輪観音坐像・毘沙門天立像・地蔵菩薩立像が安置されています。綺麗な彩色が残る美しい像です。」

本尊聖観音菩薩とのご縁によって造られた本堂

「このお寺の本堂になります。お寺の本尊は聖観音菩薩で、秘仏のお像になりお厨子の中におまつりされています。ご開帳の日は決まっておらず、最近では20年前にこの本堂等の建て替えをしたときに行いました。建て替えの時の材料は、ここの山から切り出した木材を使用し、檜だけでも200本ほどを切って来て友達の製材所をやっている人や工務店をやっている人が手伝ってくれたおかげで今の本堂があります。
つまりご縁によってできた本堂なのです。本堂の脇には小部屋があります。こちらは前の本堂にもありまして、お殿様がこちらに入り庭を眺めたそうです。新しく建物を建てたことで縁側から庭を眺めることができるようになりましたが、本来はここからしか眺めることのできない庭で、京極家のお殿様だけしか見えない贅沢な庭だったのです。春や秋の季節になりますと、桜や紅葉を拝観にしに来られます方が増えます。」
「庭は前の伊勢湾台風の影響で水が来なくなっているのですが、元は池であって池泉回遊式の庭園でした。ここから見える山の上の方までジグザグの道が続いていて、その高いところから庭や村を眺めるというスケールの大きな庭になります。そこまでが庭でありますので、山の上の方まで草刈りや掃除をしないといけないという大変なお庭でもあるんです。」

「本堂と位牌堂を結ぶ通路に、展示場所を設け元々周りにあったお寺にあったお像などを展示しています。以前は奥の見えないところにあったので、こちらに移したことで多くの人に見てもらえるようになりました。京極家にまつわるいろんなお像がおりますので、そのお姿からも京極家とこの徳源院のことを知ってもらえればと思います。」

参加学生の感想

お寺を案内していただいている中で、このお寺にいると心が落ち着いてホッとした気分になり、いつまでもこの場所にいたいという思いになりました。このお寺が、京極氏の菩提寺として続いてきたお寺であり、現在は違う場所に菩提寺を移している中でも毎年親族の方がお参りに来られている話を伺い、ものすごく長い間京極氏をはじめとした多くの人たちに愛されているお寺なのだと知ることができました。長くこの関係が続き、現在に間で守り伝えられてきているのには、徳源院というお寺がただ京極家のお墓があるだけでなく、そのお墓が大事に守られ京極家のみならず多くの人々にとっても憩いの空間ができているのだと感じることができました。

(文・奈良大学 修士課程1年)
徳源院
〒521-0203 滋賀県米原市清滝288