空飛ぶ仏「飛行観音」を祀る滋賀米原の古刹「松尾寺」を訪ねる
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空飛ぶ仏「飛行観音」を祀る滋賀米原の古刹「松尾寺」を訪ねる

滋賀県米原市の中心部から東にそびえる、松尾山中を登り辿り着いたのは古刹、松尾寺。
本尊の十一面観音菩薩、聖観世音菩薩二尊は一般に「飛行観音」と呼ばれ、航空を含めた旅の守り仏として信仰を集めるお寺です。今回はご住職の近藤澄人さんに、松尾寺をご案内して頂きながら、お寺の歴史や仏様についてお話を伺いました。

松尾寺の歴史

「松尾寺は白鳳9(680)年、修験道の開祖、役行者が松尾寺山中で修行中、空中より飛来して来た二体の観音像を洞窟に祀ったことから始まります。(懐中仏を奉安祈願)
神護景雲3(769)年、僧宣教が建立した霊仙七ヵ寺の内、今日残存する唯一の寺院です。
平安時代の山岳修行の風潮の中、伊吹山の三修上人の高弟、松尾童子が松尾寺の中興に尽力し、その後、山岳信仰の寺院として発展し、南北朝期には一寺一院十八坊の伽藍がありました。」
「中世には、湖北を支配していた浅井亮政公や石田正継公、豪族家臣団の三田村氏、樋口氏、島氏 等の古文書が残されており、松尾寺の歴史の深さを物語っています。また、松尾寺山頂からは湖北一帯が一望できるためか、山城跡も存在し、軍略拠点の一つとしても位置づけられていました。

江戸時代、松尾寺は彦根藩主井伊家の庇護のもと、寛文年間(1661~1673)に本堂が建立されました。一時は五十余の院・坊があったようです。また、お寺を中心に松尾寺村が形成され、村高は六百余石と、一集落として栄えていたそうです。」

「近代になり、飛行機が発達するにつれ飛行観音に関心が高まりました。戦時始中後、訓練を終えた多くの航空隊員が松尾寺へ参詣に来られました。昭和10年の秘仏御開帳の際には、岐阜県各務原飛行学校から長さ約3mのプロペラが奉納され、現在も本堂内に大切に保存されています。」

再建されたご本堂

「現在の本堂は再建されたもので、かつてはここから歩いて1時間ほどの山の中にありました。昭和56年、私が7歳の時に大雪に見舞われ、かつての本堂は前半分がぐしゃっと潰れてしまいました。
崩れた本堂を目の前に、先代住職だった父に手を繋がれながら「おい、これどうする」と聞かれてね、(7歳の子どもに聞くなよ)とつい思ってしまいました。(笑)
しかしあの時、「俺が立て直すのだな」と漠然と考えてもいましたね。」

「それから私が松尾寺を継ぎ、本堂を再建しようと志しました。
山の上にあった本堂ですが、少しでも護持管理しやすい処へ帰ってきて頂こうという思いで、現在の場所に建てさせて頂きました。本堂が出来たのは、私が30代後半ぐらいの時でしたね。
本堂再建のために努力してきたことは確かです。しかし、再建に尽力して下さった皆様には、もう本当にお世話になりました。手を貸して下さった方々が主となり、成し遂げることができたのです。」

秘仏のご本尊「飛行観音」とお前立

「ご本尊様は奥のお厨子におられる秘仏の「空中飛行観世音菩薩」(くうぢゅうひぎょうかんぜおんぼさつ)様です。
飛行観音、非常に珍しく興味深いお名前ですね。
寺伝によると、役行者が松尾山中で修行中、空中より飛来して来た二体の観音像を洞窟に祀ったことから、松尾寺は始まったとされています。
また、戦国時代には織田信長による比叡山焼き討ちの兵火により本堂が燃えさかる中、御本尊は自ら飛び上がり、影向(ようごう)石に降りたって難を逃れたといわれ空中飛行観音の存在が世に知れ渡ったそうです。」
「そのお姿は、台座が二匹の龍から造られ、その上に仏様が雲に乗り、60年毎に御開帳していました。
江戸時代、享保・天保・天明の飢饉の時期には、15年毎に御開帳していたことが分かっています。秘仏の御開帳には高貴な方々が拝観に来られますから、そういった方々への接待や、道路、お庭の改修工事などで働き口が増えるため、短い周期で御開帳し、なんとか飢饉を耐えようとしていたんですね。」
「ご本尊は秘仏ですので普段はそのお姿は直接拝むことはできません。ですのでご本尊をお祀りしているお厨子の前にお前立の仏様を祀り皆様にお参りいただいています。
小さなお姿でみえにくいかもしれませんが、向かって右側が聖観音様で左側が十一面観音様なんです。」

霊仙三蔵記念堂

本堂の坂の下には、霊仙三蔵法師を祀る六角形の「霊仙三蔵記念堂」がありました。

「お堂の中心にいらっしゃる方が、霊仙三蔵法師(りょうぜんさんぞうほうし)です。霊仙三蔵法師は、奈良平安時代前期に活躍した僧侶であり、日本で唯一の三蔵法師です。この松尾寺にゆかりがある方ですので、記念堂を建立しお祀りしております。」
「霊仙三蔵法師についてお話ししましょう。
奈良平安時代前期、現在松尾寺があるこの付近は息長氏丹生真人族という渡来人系の豪族が治めておりました。霊仙さまはその一族のお生まれと言われています。
霊仙三蔵法師は759年頃に生を受けてから幼くして仏門に入り、16歳までこの付近にあった霊山寺で勉強されていました。松尾寺は霊山七カ寺のーつです。七カ寺のうち、現存しているのはここ松尾寺のみですので、霊仙さまのお像をお預かりし、お祀りさせて頂いております。」

「霊仙さまはこちらあたり一帯で勉強された後、奈良の法相宗にて得度されました。
804年に最澄様や空海様と共に、唐の長安へと仏教求法の為、渡唐されます。渡唐時、霊仙三蔵法師は45歳くらいでした。当時40代というと、国の重鎮です。仏教界を超え、国を背負う知識階層の一人であり、必ず日本に帰国しなければならない立場でした。
しかし霊仙さまは唐の憲宗皇帝にたいそう気に入られ、唐に残ることとなります。霊仙さまは卓越した才によって、サンスクリット語で書かれた『大乗本生心地観経』の漢訳を行い皇帝から認められ、『三蔵』の称号を贈られました。『三蔵』の号を賜った高僧は、インド地方では4名、中国域では6名、日本列島で1名と、世界でわずか11名しかいません。」
「霊仙さまは三蔵法師の号を賜った日本人唯ひとりの高僧であり、大秘法『大元帥明王法』を伝授され、日本に伝えるきっかけを築かれました。
その後、憲宗皇帝が暗殺され、仏教徒弾圧が過激化すると、霊仙さまは長安から五台山へ逃れながら修行されておられました。霊仙さまは皇帝の側近くで相談役を勤めた高僧であったため、再三の帰国願いも許されず、827年に五台山の南の霊境村霊境寺にて68年の生涯を閉じられました。
こうして霊仙三蔵記念堂は、霊仙さまの「還国」を記念し、お祀りするお堂として建立されたのです。」

参加学生の感想

松尾寺を訪問し、空中飛行観音のお前立のお姿が印象に残りました。観音さまが空を飛んだという大変興味深いお話も、空中飛行観音と呼ばれ、信仰を集める所以だと思います。
秘仏の空中飛行観音様のお厨子も、お前立の観音様も小さくて、ちょこんと可愛らしい様子でお立ちになっているお前立のお姿に心を奪われました。
今回飛行観音さまをお参りすることが出来たのは、一重にご住職が本堂を復興し、長年愛され信仰を集める飛行観音さまをお祀りする場を造って頂けたからだと思います。
私たちにはご住職の長年のご苦労をすべて理解することは難しいですが、今回こうして松尾寺さんにお参りすることができて、非常に有難いことだと思いました。秘仏のご本尊が御開帳されるときには、またお参りできればと思います。


(文・立命館大学文学部 3年)
松尾寺
〒521-0033 滋賀県米原市上丹生2054