神戸のまちを見守る・声明が響くお寺「多聞寺」を訪れる
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探訪「1200年の魅力交流」

神戸のまちを見守る・声明が響くお寺「多聞寺」を訪れる

兵庫県神戸市垂水区に位置する多聞寺は正式な名前を吉祥山寺毘沙門堂多聞寺といい、円仁によって開基された古刹です。様々な苦難を乗り越え、今も平安時代に造られた阿弥陀三尊がこの地を見守っておられます。
多聞寺のご住職である齊川文泰さんは、40年間叡山学院で声明の先生をなされている方で、日本だけでなく海外でも声明を行い、声明の素晴らしさを伝えておられます。今回は多聞寺のお話に加え声明のついてもお話しいただきました。

多聞寺の歴史

このお寺は、元は現在の位置より南にあったといわれています。実は3回ほど燃えているそうです。その中で最後に燃えてしまったのが、豊臣秀吉の赤松攻めの後、軍を引き上げるときにこのお寺を燃やしていったそうです。そのため江戸時代以降の史料しか残っておらず、東大寺の図書館にある古文書にしか残っていないようです。
しかしなぜか仏様は難を逃れ、三体の仏さまが今も残っております。これらは国の重要文化財に指定されています。
 歴史を研究している人たちにとって結構知られていて、それは通行する人や舟から通行料をとったことが分かる最古の史料に記された寺院だからです。東大寺の図書館に、東大寺の資料として一括で重要文化財に指定されている古文書があります。その中に西暦1000年頃に東大寺の住職が変わったときに多聞寺の住職が、住職が変わったけれどうちの権利はそのままだよねという安堵状を出しているのです。その安堵状が、今も東大寺に残っています。奈良時代から平安時代にかけて、岡山の手前までの広い範囲が東大寺領だった中で、なぜか1軒だけポツンと天台宗の寺院の多聞寺があります。ポツンとあったからこそ、天台宗である多聞寺が東大寺にお伺いを出しており、このような文書も残ったのですね。

このお寺の南には第二神名道路が通っており、そのあたりに前の仁王門が建っていました。当時はお寺が疲弊していたこともあり、村の人たちが農機具小屋等に勝手に使い出してしまっていました。それではどうにもならんと、それを明治25年ぐらいに当時の住職が、村の入り口に100メートルほど動かしました。ところが塔頭寺院を村の農民が自分の家にしていたこともあり、まるで物置小屋として使われてしまいました。それで昭和12年に今の場所が仁王門の位置になりました。現在の仁王門は、昭和の終わりから平成の初めに造り直した門になります。

阪神淡路大震災を乗り越えた多聞寺本堂

 本堂は1702年に造られたお堂で、昭和38年に解体修理が行われています。本堂の欄間の彫りは、新築当初のものが残されています。また中の宮殿は、以前の本堂修理を行なってくださった大工の方が、自分たちには手に負えないものであるからとそのままの状態で残っています。元は天井がない建物で、梁組や束組が見えていました。現在の本堂は下の方を過去の修理で、コンクリートで覆ってしまっています。今は石垣から整備を行なっていまして、将来的にはこの本堂の周りの基壇を穴太衆積みで積んで、その上に石畳を敷いてその上にお堂を乗せる計画です。

境内の石垣は、全て穴太衆積みの職人によって造られています。職人の方々は、全国の文化財修理にも関わっており、その修理の合間を縫ってきてくださっています。コンクリートを使わない本来の穴太衆積みでは、高さの3分の1ほど奥に細かいグリ石を込めるといったセオリーがあるのです。そのようなセオリーが守れていないところでは、地震が起きたときに崩れてしまいます。文化財の修復では地震等で崩れたものは、もとあったように修復することが第一で行われますが、職人たちにとっては、その場所にその石があったからこそ崩れるのであって元のように戻すとまた同じように崩れてしまうかもしれないといっていました。私は石だけ集め、職人には好きなように積んでとお願いしているので、こんないい現場はないと喜ばれています。
日光菩薩のお前立(後方・重要文化財日光菩薩)

宮殿の左右に重要文化財に指定されています日光・月光菩薩立像をおまつりしていますが、阪神淡路大震災のときには周囲のものがみんな落ち、日光・月光菩薩もバラバラになってしまいました。そのときに文化庁から、指定物件はどうなってますかと確認の電話が来ました。それどころではなかったのですが、須弥壇は崩れてないけど香炉の灰とかでぐちゃぐちゃになっていると報告したら、そのままにしといてくださいと言われ、崩れているものを集めておきました。震災の3日目か4日目に、尼崎から文化庁の職員3人と県と市の教育委員会の2人が歩いて見にきました。文化庁の職員が一刻も早く迎えに来ますのでそのままにしておいてくださいといい、数箇月後に日本通運の美術運送の職員が5人ほどやってきて綺麗に掃除して全て持ち帰っていきました。
それから2年後、バラバラになっていたことがわからないぐらい綺麗に戻って帰ってきました。見えないところで転倒防止のためにテグスで止められています。宮殿は震災のときには無事でした。お堂は3ヶ月ぐらい軋んでいました。棟の瓦が全て落ち、仁王門の方まで飛んでいました。よくぞ助かったことですね。
ご本尊のお前立ち像・毘沙門天立像

ご本尊さまは、住職一代で一度きりのご開帳とされている秘仏の毘沙門天像です。前の住職がこのお堂を解体修理したときにご開帳を行なって以来、約60年間ご開帳はされていないお像になります。前におまつりしているのがお前立ちです。
江戸時代を通じて明石藩から 27 石のお米がきていたようです。須弥壇の下が物置のようになっているのですが、そこから5年ほど前に掃除をしていたら80cmほどの明石藩のご位牌が10数本出てきたので全て修理しました。明治時代以降はお米もこなくなっていたため、隅っこに追いやられてしまっていたようです。

重要文化財阿弥陀如来坐像をまつる阿弥陀堂

阿弥陀堂におまつりしています阿弥陀如来坐像は、重要文化財に指定されていまして、天蓋と光背は後の時代に補われたものです。このお像の特徴的なのは印相で下品中生の印を結んでいます。
地震のときには不思議なことに、ズレていただけで落ちませんでした。そのときに初めてこのお像を持ち上げたのですが、考えられないぐらい軽かったです。

左の頬の漆箔が剥がれてしまっています。それは前の古い阿弥陀堂のときに雷が落ち、電流が流れたことにより燃えた痕跡です。私が幼稚園の時、カンカン照りの真っ昼間に大きな音がなって、雷が阿弥陀堂に落ち、燃えていました。近所の方と協力し水をかけ消火しました。幼稚園の時の話ですけれど、今でもこのことは鮮明に覚えています。

声明について

阿弥陀如来の前で声明の博士(声明の楽譜)を見せていただきました。
ここに書いてあるのは引声阿彌陀經(いんぜい)と言いまして、阿弥陀経の文字にメロディをつけたものです。3文字ほどの漢字に音階等の記号がつきまして、1文字25分ほどのものになります。全てやると數十時間ほどかかります。現在ではほとんど途絶えてしまい、やっているお寺でもかなり省略しています。どこもこういった時間のかかる法要は減っていってしまっているのでしょうね。

天台声明と海外とのコラボ

海外聖歌とのコラボでは、私だけが歌ったり、向こうだけが歌ったり、一緒に歌ったりとさまざまです。一緒にやるのは、雅楽に付物という雅楽で声明のメロディをなぞるものがありますが、それを聖歌に変えて行うのです。声明には他に付楽というものもあります。こちらは声明の歌っているものと全く関係ない曲を雅楽で演奏していくのです。こちらはぼーっとしていると声明の方がガタガタになってしまうため、声で負かしてしまうというような演奏です。海外とのコラボが始まったきっかけとしては、京都市がチェコのプラハと姉妹都市提携を結んでおり、お互いの文化交流を行なっていました。その一環として声明を行うこととなり、大原實光院の今の住職からして先先代の天納伝中先生に声がかかりました。そこで1998年に伝中先生が主催するグループで、プラハに行き公演を行いました。最初の夜の公演にグレゴリアン聖歌のグループのダビットエベン氏が聴きにきており、我々の公演が終わったら楽屋まで押しかけてきて、声明に感動した是非とも我々も一緒にやりたいといってきたことが、一緒に行うようになった始まりです。翌日も大統領官邸で声明を行うことが決まっていたので、そこで一緒にやりましたら大好評でした。
その後、2005年に再度プラハに行き、修道院で収録をしてCDが販売されました。ソニーヨーロッパが販売しているのですが、日本のソニーは無名のクラシックは売れないからいらないと断ったそうで、世界を販売するエリアで分ける中で、アジア極東の著作権者が私になりました。著作権者はCDが欲しいと言われたら送らなければならないことから、今までで日本のほか、ラオス・インドネシア・タイ・中国・台湾等にもお送りしています。またNHK国際放送で「こころの仏像」シリーズが放送されてからはカナダ、南北アメリカ、ニュージーランド等からも注文がきました。元のCDのライナーノートは5カ国語で書いてあるのですが日本語が書いてないので、私が日本語のライナーノートを作って入れてから販売しています。ここで販売しているほか、鞍馬寺でよく売れていて、また送ってくれと連絡がきます。6000枚ヨーロッパから輸入して、殆ど全て売れました。一緒に声明をやっているダビットエベン氏という人と一緒にやろうと決めた決め手の一つは、五線譜ではなく古い四線譜を用いて演奏を行なっていたからです。1500年から1600年頃にかけて四線譜が五線譜になるのですが、四線譜の時代の楽譜を再現して歌っています。四線譜時代の楽譜をネウマと言います。我々が使っているのも1000年以上前の譜面ですので共感し、一緒にやろうということになりました。

今はヨーロッパにいって、弦楽のメンバーと声明をやっています。バイオリンやチェロ、ビオラといった弦楽の合奏で基本的に4322、全員で12人~います。各国のオーケストラのプロをソニーの男が一本釣りで釣り上げてきて、このメンバーが集まっています。どの世界も同じく、売れ筋以外にも良い曲があるからそれもやりたいけど、みんなが知っているような売れ筋の曲をやらないと人が入らないからプロモーターがダメという。そのようなあんな曲もやりたいと思っている人たちを集め、一緒にやっています。現在は2回目のメンバーです。そんなことを思っている人には若い人が少なく、30代、40代がメインであるため腕が良くなっていき、ファーストに上がっていってしまうと出にくくなってしまうことから10年ぐらい初代のメンバーでやってきて、発展的解消をしました。今でも前のメンバーが公演のときには1人か2人ぐらいきてくれます。大体の公演の流れは決まっており、ミサで行う公演では始めに鐘が鳴らされ、私が正面のオルガンの前まで上がり1曲目を歌って、途中から下がっていって唄いながら入場、司祭さんの座る場所の後ろ邊りに椅子を置いてもらって演唱を行なっていきます。大体2時間から3時間の公演です。なぜか私を呼んでくれるのは、99%カトリック敎會なのです。向こうにもお寺のように焼香があり、香炉にお香を焚べます。それを天井から吊るしてある長いロープに結びつけて振ります。日本のお香と違って、香りはあまりしないのですが、煙幕みたいに煙がもうもうと広がります。また日本で灯りが1つしかないときは向かって右で花は左に置くと思うのですが、これはキリスト教でも同じです。結構共通点があるのです。仏教東漸と言いますが、西にもいっているのです。中東の遺跡には、仏教のモチーフのレリーフの上からキリスト教モチーフのレリーフが造られているものがあります。どこかしら混ざっているのでしょうね。

天台声明と教え伝えること

声明の教師をして、40年を超えました。元は教師をするつもりはありませんでした。長いこと学校に残っていましたら、延暦寺の執行というお偉いさんから4月から比叡山高校に行けと言われたことが、教師人生の始まりです。大原の實光院の前の住職が早くに他界されたことによって、海外を担当するはずだった私が、海外・国内の両方を行うこととなりました。
声明は、声楽です。ヨーロッパの人は言葉はわからないけど、私たちの歌っているのをアリアだと言います。20年ほど前からキーボードを加工して、聲朙の12律を打ち込んだものを作りました。ドレミファの音が日本の声明の音階と極めて近く、ドは神仙、レは壱越、ミは平調、ファは下無、ソは双調なのです。明治初年頃に、時の明治政府が招聘したイギリス人のエリス技師が宮内庁楽部の音を計測したところ、ほとんど西洋音階と変わらず、一番違うもので10ヘルツでほとんどが3ヘルツほどの違いでした。市販のキーボードにスライドバーを付け、調子が変わって置き換わる記号も分かるようにしました。これは私が特許をとりました。これにより、6年ほどかかっていたテキスト内容を2年ぐらいで学び終えるようになりました。
様々な工夫をしながらも声明を後世に伝えていきたいですね。

参加学生の感想

声明というものは知ってはいたものの、ここまで丁寧に声明のお話を伺うことがなく貴重なお話しを伺うことができました。声明を西洋の教会でグレゴリオ聖歌と共に行なっていることを知り、そのような声明もあることに驚きました。仏教とキリスト教、声明と西洋音楽といったものに共通点があることをお聞きし、遠く離れた場所で発展したものであっても、繋がっていたり考えとして同じ結果になったりするのだと感じました。声明は現代では行われているとことが少なくなってしまっているのですが、博士をみると細かく指示が書かれており、その声明の中に多くの想いが込めれている尊きものであるのだと感じました。

(文・奈良大学 博士前期1年)
多聞寺
〒655-0007 兵庫県神戸市垂水区多聞台2-2-75