いつの世も多様な人々を救い続ける仏さまをおまつりする「穴太寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

いつの世も多様な人々を救い続ける仏さまをおまつりする「穴太寺」を訪ねる

近畿地方一帯に広がる西国三十三カ所巡礼。その札所の一つであるお寺・穴太寺が亀岡市郊外に伽藍を構えています。多くの巡礼者が訪れる穴太寺の伽藍をご住職である穴穂行仁師にご案内いただきました。
「本日はようこそ穴太寺に訪れてくださいました。穴太寺に来ていただくことを以前にお会いしたときより心待ちにしておりました。」

そのように笑顔でお迎えしていただいた穴穂行仁師は、以前三千院門跡を訪れた際にご案内いただいたご縁があります。穴太寺についてご案内いただく前に、久しぶりの再会となる穴穂師と学生たちとの間で会話が盛り上がりました。

文武天皇の勅願により創建される

「それでは穴太寺のご案内に移りますね。この穴太寺は今より1300年近く前、慶雲2年(705)に創建されたと伝わっております。その際、文武天皇の願いに従い大伴古麿により建立され、ご本尊として薬師如来像が安置されたそうです。」

「その後、平安時代になると穴太寺と関係する出来事がおこります。その出来事の主役は穴太寺が伽藍を構える曽我部郷の郡司である宇治宮成(うじのみやなり)という男です。伝えるところによるとこの宇治宮成という男、非常に欲深かったといいます。その姿を見かねて信心の篤い妻の勧めにより都より仏師が招かれ、仏さまを造像することになりました。このとき招かれた仏師の名を感世(かんぜ)といいます。感世は一生懸命仏さまを造像しまして、それは見事な金色の聖観音さまを造像します。そのすばらしい出来栄えの仏さまのお姿に信心深い妻だけでなく宇治宮成もおおいに心を動かされ、造像のお礼に愛馬を送りました。」
「しかしながら、しばらくすると宇治宮成は愛馬を送ってしまったことを後悔しはじめます。居ても立っても居られなくなった宇治宮成は都へ帰る感世のあとを追いかけ、どうしたら自分の愛馬を取り戻せるのかを考えます。ここで欲に支配された宇治宮成は最悪の選択をしてしまいます。なんと、先回りをして感世を待ち伏せし、弓矢で射殺してしまったのです。感世を殺害した宮成は愛馬を引き連れ自宅に帰ります。すると、驚愕の光景が宇治宮成を待ち受けていました。なんと、感世が造像した金色の観音さまに先ほど自らが放った矢がささり、目から赤い涙を落とし、胸より赤血を流していたのです。この光景に驚いた宇治宮成は、急いで都の感世に連絡をとります。すると、自分が殺したはずの感世が元気に生きているというのです。この出来事を通して宇治宮成は心を入れ替え、観音さまを穴太寺に移し大切におまつりしたといいます。」

「このお話は様々な逸話をまとめた『今昔物語』や『扶桑略記』にも掲載され、早い時期から多くの人々に親しまれ、穴太寺の観音さまは「身代わり観音」として信仰を集めました。この「身代わり」の逸話ですが、観音さまが仏師を救ったお話としてよく取り上げられます。しかしながら、観音さまの身代わりによって救われたのは仏師だけでなく宇治宮成も救われたと考えることができます。人を殺害するという行為をしてしまった宮成を観音さまが身代わりになったことで宮成が罪人にならずにすみました。被害に巻き込まれた人も罪を犯そうとした人も救うという観音さまの慈悲の心をあらわした逸話だと私は考えています。」

「この観音さまの霊験が広まり、観音霊場を巡拝していた花山法皇が穴太寺にも訪れたといいます。このことから、穴太寺も西国三十三カ所巡礼の札所として知られるようになりました。鎌倉時代には一遍上人が穴太寺に滞在したと伝えられていますし、室町時代には幕府から所領を安堵されたくさんの人々が訪れるお寺として繁栄していたそうです。しかしながら、戦国時代になると明智光秀による丹波攻めの前哨基地となった亀山城の築城の用材として穴太寺の建物が転用されてしまったようで荒廃してしまったようです。その後、江戸時代になると再興の勧進が実り、現在に伝えられているお堂が再建されていきました。」

「それでは、歴史をご案内したところで境内をまわっていきましょう。」

丹波地方屈指の名庭園が広がる

穴穂師に続いていくと美しい庭園が見えてきます。
「現在皆さんがいる場所は円応院と呼ばれる建物でして、棟札によりますと穴太寺を江戸時代に中興した行廣が延宝5年(1677)に造営した建物になります。庭園に面したこちらの部分は屈指の出来栄えでして、欄間や装飾などが非常に手の込んだつくりとなっています。そのようなことから丹波地域を代表する建築として、京都府の登録文化財に指定されています。」
「建物にも見とれてしまいますが、特に見ていただきたいのがこちらの庭園です。建物の南側に築かれたこちらの庭園は、左奥に見える多宝塔を借景として取り入れ、この景色を基準として山を築き、岩や樹木を配置しています。また多宝塔の方向からこちら側に舟が向かって切るように、手前の池に岩を配置していることもポイントですね。」

建物の縁側で庭園を眺めていると心地よい風が通り抜け、いつまでもここで時を過ごしたい気持ちになります。日常を離れ、鳥のさえずりや水の音に包まれる至高の空間が広がっていました。

庭園を堪能した学生たちは、建物に展示してある展示品に注目します。
「こちらは幕末や明治時代に活躍した孝明天皇や明治天皇にゆかりのある御物を展示しています。実は幕末から明治時代にかけて宮中につとめていた女官のおひとりが穴太寺の信者さんでして、その方からご寄進いただいたことでこのように展示しております。」
「また、こちらの部屋には穴太寺縁起に描かれた往時の穴太寺の景観を描いていただいた襖絵があります。ひときわ大きく描かれている建物が本堂です。また、先ほど庭園から眺めた多宝塔もありますね。このように現在の境内と往時の境内を見比べることができるのもおもしろいと思います。」

「それでは渡り廊下を通って、ご本尊さまがおまつりされる本堂へと歩みを進めていきましょう。」

色鮮やかな天井絵に彩られる丹波地方随一の建築

渡り廊下を進んでいくと、ひときわ大きい建物にたどり着きました。
「こちらが穴太寺の本堂になります。こちらは享保20年(1742)に再建された建物になります。先ほど江戸時代に穴太寺を中興した行廣さんというお坊さんが円応院を造立したとお話ししましたが、行廣さんが造立した本堂は残念ながら焼失してしまい、その後に再建された建物になります。桁行・梁行ともに5間のお堂で丹波地方において最大規模のお堂になります。」
「こちらの本堂で注目していただきたいのは、天井に描かれた天井絵です。ぜひ見上げてみてください。」

ご住職のご案内に従い天井を見上げると、そこには格子状に区切られたスペース1つ1つに華やかな絵が描かれていました。

「このように格子状の天井を格天井といいます。そしてその格子一つ一つに様々な絵が描かれることがあります。例えば、比叡山の根本中堂の天井にも草花が描かれていますね。それではこの穴太寺の天井絵も草花が描かれているのかと思いますが、穴太寺の天井絵はそれだけではないのです。こちらの絵をご覧ください。」

お住職の指さす方向の天井絵を見てみると、サルとカニが描かれた天井絵があります。
「サルとカニが登場するお話といえばみなさん思い浮かびますね。そうです、「さるかに合戦」の場面を絵に描いています。この描かれている場面は熟した柿がたわわに実る木にサルが登っていることから、柿を独り占めしている場面でしょうか。草花だけではなくこうしたお話を題材とした絵も描かれていることが穴太寺の天井絵の特色であると思います。」

ここで学生からこの絵はどのような人が描いたのかと質問が飛びます。

「いい質問ですね。それではこちらの天井絵をご覧ください。」

ご住職が指さす方向の天井には、墨で描かれた竹を背景に枠で囲まれている天井絵があることに気が付きます。

「この天井絵には中心に描いた画家の名前が記されています。狩野幸信と読めるでしょうか?横には宝暦2年と記されているので、その時代に狩野派の絵師が描いたということが分かります。また、下部にはこの絵を依頼した施主の名前まで記してあることが興味深いですね。いずれにせよ、草花を描いて本堂内を荘厳するだけでなくユーモラスな天井絵を描いているのは、観音さまにお参りする人々がすこしでも楽しんでほしいという絵師の気持ちが表れているのかもしれませんね。」

絶対秘仏のご本尊と33年に一度御開帳される観音さま

「天井ばかり見上げていると首が痛くなってしまいますね。それでは、本堂の中央に並ぶ3つの厨子に注目してください。」

「こちらの厨子の内部には、ご本尊である薬師如来像、西国三十三カ所巡礼の札所本尊である聖観世音菩薩立像、お前立の聖観世音菩薩立像がそれぞれおまつりされています。ご本尊の薬師如来像は中央のお厨子に、札所本尊である聖観世音菩薩立像は向かって左側のお厨子に、お前立の観音さまは向かって右側のお厨子の中におまつりされています。ご本尊さまは絶対秘仏であるため、また札所本尊の観音さまは33年に一度の御開帳の秘仏であるため、通常厨子の扉は閉まっていますが、お前立の観音さまのお姿はいつでも拝めるように扉を開けております。また、お前立の観音さまの前には、先ほどお話した宇治宮成とその奥さまのお像を安置しております。それではどうぞお参りください。」

お参りを終えると学生から絶対秘仏のご本尊の姿について質問が飛びます。

「ご本尊のお薬師さまは絶対秘仏ですから、わたしもその姿をはっきりと拝んだことはありません。しかしながらお寺に伝わるところによりますと坐像でなんと2体いらっしゃるそうです。また、絶対秘仏ということですが、明治の時代におそらく扉が一度だけ開かれたと伝えられています。明治時代、岡倉天心やフェノロサといった方々が日本全国の社寺に伝わる文化財を調査していました。この穴太寺も例外ではなく、丹波地方の調査では穴太寺がその会場として場所を貸していたそうです。その際、このご本尊のお厨子の扉を開けて調査が行われたとお寺では伝わっています。しかしながら、そのときの詳細はわかりません。」

「正確なご本尊さまの姿はわかりませんが、本堂の外側には懸仏として坐像のお薬師さんがおまつりされています。いつのころかご本尊さまのお姿を直接お参りしたお坊さんもいたのかもしれませんね。」

「ご本尊さまのお姿を拝することはできませんが、本堂に珍しい仏さまをおまつりしていますので、ぜひ拝してください。」

ご住職のご案内に従い歩みを続けます。

霊夢により発見された等身大のお釈迦さま

ご住職に続いていくと、布団のなかにお像が横たわっている光景が目に入ってきました。
「こちらのお像は釈迦如来大涅槃像といいまして、その名の通り、お釈迦さまが涅槃にはいられたまさにその様子を彫刻であらわしています。詳しい調査はされていないのではっきりとはしていないのですが、専門家の方にお聞きすると鎌倉時代に造像された仏さまではないかと考えられています。」

「この仏さまが発見されたときのお話が伝えられています。明治29年(1896)、当時の穴太寺の住職と孫娘の病気平癒のために日々穴太寺にお参りしていた信者さんがこのお像に関する霊夢をみます。この霊夢に従い穴太寺を探すと、本堂の屋根裏からこのお釈迦さまが姿をあらわしたといいます。さらに、このお釈迦さまを今の場所におまつりすると孫娘の病気はたちまち完治したといいます。そうしたことから、自分の体の悪いところと同じ部分を撫でるとお釈迦様のご利益をいただけるという信仰が生まれ、現在もたくさんの参拝者が訪れています。お釈迦さまにかけられている布団も季節ごとに信者の方が寄進していただき、今は夏用の布団になっています。」

「記録上でもこのお像は明治時代に発見されるまでその存在が知られていませんでした。江戸時代に記された本堂の指図が残っているのですが、他の仏さまは記されているにも関わらず、そこにもこのお像のことは記されていません。いつから穴太寺におまつりされているのか、どなたが造像したのかまったく明らかになっていない謎の多い仏さまです。」

「せっかくですので、布団をめくっていただき自分の悪い箇所をなでてご利益をいただいてください。」

ご住職のご案内に従い、思い思いの部分を撫でる学生たちでした。

参加学生の感想

穴太寺を巡っていると、絶え間なく参拝者の方が訪れていることに気が付きます。西国巡礼を行っている方々や観光客、そして毎日のお参りに訪れる地元の方々。穴太寺に訪れる方々は穴太寺におまつりされている仏さまとご縁を結び、再び穴太寺にお参りする方も多いとお聞きします。本堂内には寄進を示すお札が数多くかけられています。これは、また穴太寺の仏さまにお参りしたいという気持ちを訪れる皆さんが自然と抱く環境が穴太寺にはあり、穴太寺の仏さまと訪れる方々との関係が持続的であることを示しているのではないかと思います。一過的な関係ではなく、仏さまと持続的な関係を結ぶことのできる空間が伝えられていることこそが穴太寺の魅力なのだと感じました。

(文・立命館生命科学部 博士1年)
穴太寺
〒621-0029 京都府亀岡市曽我部町穴太東辻46