いろり端
探訪「1200年の魅力交流」
日牟礼八幡神社上社の別当寺院であった「興隆寺」と、久里氏の守り本尊をまつる「東照寺」を訪ねる
滋賀県近江八幡市の日牟礼八幡宮の近くに位置する「興隆寺」は、聖徳太子によって開基された日牟礼八幡神社上社の別当寺院として建てられました。時代の渦に飲まれながらも、天台宗の教えを後世に守りつないでこられた寺院でした。今回の訪問では、橋野英昭ご住職に興隆寺と兼務をされている「東照寺」をご案内いただきました。
興隆寺の歴史について
このお寺の開基は聖徳太子であると伝えられ、推古天皇の二十七年三月に八幡神社上社の別当寺院として、日牟礼八幡山の大平に建てられました。その後は比叡山延暦寺正覚院末に属することとなります。天正9年(1580)の文章によると、本堂・妙光寺・炎摩堂・連光寺の諸堂の他にも建物のある大きな寺院で、当時はこの場所から少し離れた八幡山の中腹にありました。八幡神社の別当寺院として位が高かったのです。今日お伺いされた願成就寺とは深い関係があり願成就寺は八幡神社下社の別当寺院でした。
室町時代の文安3年(1446)に後光厳天皇が行幸にいらした際には、警護武士の屯所にもなりました。比叡山焼き討ちの前の永禄年間には、叡山山門派の修験道の寺ともなり、その頃は京都若王寺の末寺になっていました。
室町時代の文安3年(1446)に後光厳天皇が行幸にいらした際には、警護武士の屯所にもなりました。比叡山焼き討ちの前の永禄年間には、叡山山門派の修験道の寺ともなり、その頃は京都若王寺の末寺になっていました。
元亀2年(1571)の織田信長による比叡山焼き討ちの時には、この寺も信長に攻められたといわれております。その時に今のお寺のある場所から見える山の一つである北之庄山の中腹に浄土宗として宗派を変えて、このお寺が維持されました。天正4年(1576)に織田信長が安土城を築き城下町に寺院を再興するにあたり、興隆寺にあった弥勒堂という大きなお堂を解体移築して安土に常楽寺が建立されました。現在は浄厳院という浄土宗の寺院で、弥勒堂だった建物も残っております。
寛永10年(1633)に僧淋下坊というお坊さんが、檀信徒とともに運動を起こし、この多賀の地に天台宗として再興され今に至っております。昔はこの周辺には天台宗の寺院が多かったのですが、織田信長の焼き討ち以降はほとんどが浄土宗に宗派を変えており、天台宗の寺院は少なくなっております。日牟礼山という山号に神社との関係の名残を残しておりますが、現在は神社との関係はほとんどなくなっております。
寛永10年(1633)に僧淋下坊というお坊さんが、檀信徒とともに運動を起こし、この多賀の地に天台宗として再興され今に至っております。昔はこの周辺には天台宗の寺院が多かったのですが、織田信長の焼き討ち以降はほとんどが浄土宗に宗派を変えており、天台宗の寺院は少なくなっております。日牟礼山という山号に神社との関係の名残を残しておりますが、現在は神社との関係はほとんどなくなっております。
興隆寺本尊大日如来
このお寺のご本尊は胎蔵界の大日如来といいまして、頭には宝冠を着け、お腹の前で掌を上に向け両親指をつける法界定印という手の形をしています。大日如来には、金剛界大日如来と胎蔵界大日如来の二種類があります。
金剛界は宇宙や知恵を表す仏さまで、胎蔵界は母親の胎内のような優しさやこの世の利を表す仏さまです。このお寺の本尊の大日如来像は平安時代末期に造られた仏さまになります。
金剛界は宇宙や知恵を表す仏さまで、胎蔵界は母親の胎内のような優しさやこの世の利を表す仏さまです。このお寺の本尊の大日如来像は平安時代末期に造られた仏さまになります。
大日如来の周りにあるお像は、本来とは異なった菩薩の組み合わせで並んでいたりしております。焼き討ちにあっていることもあり、古いお像は残っていないのですが、そんな中で守られてきた大切なお像です。
火事から奇跡的に残った弥勒仏
本堂の前にあるお堂は、弥勒仏をまつる弥勒堂になります。弥勒菩薩は釈迦が亡くなってから56億7000万年後に衆生を救うために下界に降りてこられるという仏さまで、今は兜率天で修行をなされているとされています。
弥勒仏坐像は一木造りの像で、平安時代末期の像です。平成に火災が発生し、中の弥勒像も被害にあってしまいました。そのため、もとは木の色がそのまま見えるお像だったのですが、真っ黒くなってしまっております。
黒くはなってしまっているのですが、不思議とお顔の表情や衣の表現等がよく残りました。現在は県指定の文化財になっております。
弥勒仏坐像は一木造りの像で、平安時代末期の像です。平成に火災が発生し、中の弥勒像も被害にあってしまいました。そのため、もとは木の色がそのまま見えるお像だったのですが、真っ黒くなってしまっております。
黒くはなってしまっているのですが、不思議とお顔の表情や衣の表現等がよく残りました。現在は県指定の文化財になっております。
久里氏の守り本尊薬師如来像を地域で守る「東照寺」
興隆寺の隣にあるお寺が、東照寺にあります。この中央におまつりされているお像が、東照寺の本尊である薬師如来立像です。この像には寺伝として、水茎岡山城の城主であった九里家に伝わった守り本尊であると伝えられています。天正9年(1581)12月20日に九里兵部少輔は安土の観音城へ行く道すがら、織田信長の家臣である柴田勝家の伏兵に襲われて橋のところで討ち死にしたとされています。その時に背負っていたお像がこの薬師如来像で、この薬師如来像は川に流されてしまいます。その後にこの里の百姓が川の中から光るこの薬師如来像を発見し、祠を建てました。そのあと東照寺が建つとその像が東照寺に移され、本尊となったといわれております。
市に文化財の調査をしてもらいましたところ、実際にはこの像は江戸時代に造られた像のようで、戦国時代の寺伝とは時代が違っているようです。この寺伝が本当かどうかは分からないのですが、久里氏の守り本尊であるとされて今まで大切に守られ、信仰されてきたお像になります。
今までは毎月1日にこの周辺の地域の人が30人近くがここに集まって、拝むということが行われておりましたが、新型コロナがあってからはそういった集まりもなくなってしまいました。
今までは毎月1日にこの周辺の地域の人が30人近くがここに集まって、拝むということが行われておりましたが、新型コロナがあってからはそういった集まりもなくなってしまいました。
参加学生の感想
ご住職の案内の中でもとは山の上にあった大寺院であったのが、信長の焼き討ちの被害にあったり、火事によって弥勒堂が火事によって焼けてしまっていたりと多くの出来事を乗り越えて今に至る寺院であることを聞きました。弥勒像を拝見させていただいたとき、黒く炭化してしまっている姿からは火事による影響が表れているものの、姿としたら比較的よく残っており、衣の表現や顔の表情が伺える現状は奇跡のようにも感じました。このような多くの困難を乗り越え現在にも残り篤く信仰されていることは奇跡のようですが、多くの人々の祈りを集め多くの人々の救いになっていた場所であったからこそ、興隆寺というお寺が守り伝えられ、近年でも再び弥勒仏をまつるお堂が再建されているのだと感じました。またそれにはご住職をはじめとした歴々の僧侶の皆様の熱い信仰と想いがあったからこそ、周りの人々を動かし、今に至っているのだと思いました。(文・奈良大学博士前期一年)
興隆寺
〒523-0821 滋賀県近江八幡市多賀町667
〒523-0821 滋賀県近江八幡市多賀町667
人から人へと紡がれてきた
大切な想いや魅力について語り合う
地域で育まれてきた歴史や文化を語り合い、
新しい価値と出会います