地域によって守られる奈良時代からの古刹「願福寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

地域によって守られる奈良時代からの古刹「願福寺」を訪ねる

 近江八幡市に位置する「願福寺」は、奈良時代に行基によって開山されたと伝わる古刹の寺院です。大きな寺院でありましたが、現在では重要文化財に指定される薬師如来坐像とそれをまつるお堂というこじんまりした寺院です。この古刹は、地域のみなさまの熱意や使命感といったものによって守られてきた寺院でした。今回案内していただいたのは、願福寺の総代の川口さんです。

願福寺の歴史

 このお寺は奈良時代の天平年間に行基によって開基された古刹であると伝えられており、以前は元福寺と言いました。
この場所の土の中からは、奈良時代の製作とみられる布目瓦が出士しています。奈良時代の興盛していた頃は、僧房がたくさん並ぶ巨大な寺院であったようです。史料としては奈良時代の願福寺を記すものはなく、詳しく分からないことも多いのですが、出土する史料と行基による開基という寺伝は大きく開きはないようです。このお寺がある加茂という地域には「寺内」と称する一区があり、これは加茂という地域が願福寺の境内であったということを示しています。

長命寺の史料に願福寺に関わる史料が3通残されています。そこから願福寺の中世の様子を伺うことができます。最も古い史料としては、鎌倉時代の文永3年(1266)12月に書かれた史料になります。南北朝時代の応永元年(1368)の史料には、このお寺のある加茂の人、次郎太夫という人の田地の売却証文において、船木郷内、元福寺の御領と記されています。船木郷加茂庄は、「荘園志加茂社領」という書類の中に説かれています。また室町時代の応永25年(1418)の史料には、「重覚」という僧の権利書において、元福寺御領内と記されています。これらの史料に元福寺と記されていることや史料内に其の御領内とあることからは、普通の小さな寺院ではなく、権威ある大きな寺院であったことが伺えると思います。戦国時代に、兵火にさらされたことでしばらく衰退してしまいましたが、その後再興が行われたようです。

数十年前の私たちが小さなときまでは、お寺として立派なお堂が建ち、塀に囲まれた立派なお寺でした。時代とともに整備が行われ、今の小さなお堂の本堂となっています。

願福寺本堂と本尊薬師如来坐像

4 年程前の令和2年に、傷んだお像やお堂の修理が完了しました。
本尊の薬師如来像は、平安時代後期の像で座っている大きさで140㎝程の大きな像です。平安時代後期の像ならではの穏やかなお姿で、重要文化財に指定されていることもあり、国や県・市等からご支援いただき修復することができました。

修復以前は江戸時代の新しい金箔が貼られた金びかな状態でした。痛みが進んでいたことから、京都国立博物館にあります美術院にて意見を伺いながら修復を行いました。外された漆箔の下地の紙張りの裏側からは、享保7年(1722)の銘が記されていました。
本尊をまつるお堂は、今の現代の建築技法によって造られました。以前は瓦茸きの寺院として大きなお堂が建てられていました。大きな台風が来たときに屋根の瓦が落ちてしまっていたこともあり、今のお堂に建て変えられました。

このお寺を守る地域の集まり「薬師講」

修理の際に、この素晴らしいお像を将来に渡ってぜひお守りしていってくださいと宿題をいただきました。1月、2月、8月、12月の8日の日に八日薬師講ということで、お勤めを行っております。お寺を守っていくために、この地域では60歳ぐらいになるとお寺を守る集まりが作られております。
天台宗のお寺ですが、長く兼務の寺院で薬師講も私たち総代が順番に導師を務めております。3人の総代がおり、そのほかに60歳を超えると入ることになっている集まりに2人います。その計5人でお寺を回しております。この形で長い間、お寺が守られてきております。

参加学生の感想

小さなお堂の中に入ると、お厨子いっぱいの大きさのお像が安置されており、驚きました。近年修理されたお像やお堂からは、きれいでこれからも大切に守っていきたいという決意のようなものを感じました。地域の方中心でこのお堂を守っていくことは、とても大変なことだと思います。きれいに修復が行われたお像からは、落ち着き優しく微笑んでいるように感じられ、地域の人々にこれからも大切に守ってもらえる喜びが現れているように感じました。

(文・奈良大学博士前期一年)
願福寺
〒523-0058 滋賀県近江八幡市加茂町441