関東の天台宗修行道場として栄えた「東叡山泉福寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

関東の天台宗修行道場として栄えた「東叡山泉福寺」を訪ねる

 埼玉県桶川市の荒川河川敷に位置する泉福寺は、慈覚大師円仁によって開山された歴史ある寺院です。その後鎌倉時代に中興され、関東における天台宗の修行道場として栄えており、東の延暦寺として東叡山の山号を有しています。今回の訪問では、その格式高い寺院を守り伝える清水英雄ご住職にご案内いただきました。

泉福寺とは

 このお寺は東叡山勅願院円頓房泉福寺といいます。東叡山という山号は、東の比叡山という意味です。円頓房は、天台宗の円頓戒という戒を授けることのできる修行の場という意味です。もう一つ勅願院という名が付けられていますが、これは天皇の詔の寺という意味です。勅願寺はほかにも多くあるのですが、勅願院という名前がついているお寺はありません。後の江戸時代に、徳川家が50石の領地を下さるという話もあったのですが、天皇家との代々の繋がりを重視して受けつけなかったという歴史があります。徳川家としては、このお寺を役所の代わりとして活用したかったのだと思います。それをお断りした結果できたお寺が、上野の寛永寺になります。その仲立ちをしたのが川越の喜多院になります。5石と4万坪の領地をいただき15代の御朱印が残されているのですが、ご位牌も含め葵の御門は一切受け付けなかったという特殊な歴史のある寺院です。

泉福寺の開山伝説

 当寺の開山は、829年になります。開山にまつわる言い伝えを申しますと、昔々この場所には草が生い茂っており、その中に多くの魚が捕れる大きな池がありました。ここに住む農民は、その魚を食べたり売ったりして生活していました。
あるときいつものように魚を捕りに行くと、見かけない人がいました。農民はその人に名前を訪ねると、「河宰」と名乗りました。川のことを司る宰相のような人であったのだと思います。その人は過去にこの場所が仏が説法を行った聖地であるにも関わらず、この地を汚してしまっている現状を嘆き、池の中に身を投じました。するとたちまちに風雲が起こり、波が激しくなり大蛇が現れました。以後この地の人々は大蛇による多くの被害にあい、疫病も蔓延して苦しんでいたことから、淳和天皇が天長年間に詔を出して、慈覚大師円仁に大蛇の討伐と疫病の回復を命じました。
 円仁は延暦寺根本中堂の薬師如来に祈願して自ら薬師如来像を造り、これをもってこの地に来られました。そして円仁は、このお寺がある柏原を治めていた雨沼将監という人に案内してもらい、池のそばに持ってきた薬師如来像をまつり、その場所の土で薬師如来像を造りました。
土で造った薬師如来像は工人に姿を変え、自分と同じ姿の薬師如来を1体が2体、2体が4体といったように薬師如来が造られ、一夜にして千体もの薬師如来像が造られました。そのあと朝には疫病を除くことを願い、夕方には大蛇の害を除くことを祈りました。また仏像を池に投じたり、紺紙に金泥で写経をしたり、大般若読経を転読したりしました。そうしていると、一人の老人が涙していました。
円仁はその老人に訊ねると、私はこの里の守護神であるといいました。里の人々が聖地を汚していることから、蛇に姿を変えて目を覚まさせようとしていたのだといいました。今円仁さんが来られ、願いが叶いつつあります。この場所に教えを広める場所を造って、迷える人々を救ってほしい。そのための手伝いは行うといって姿を消してしまいました。それ以来、蛇害や疫病はなくなりました。円仁は更に地蔵菩薩、阿弥陀像を彫られおまつりし、薬師堂やお寺を守護する白山・山王・氷川・稲荷といった祠を勧請してお堂を整備しました。
 お寺の並木の近くに石塔が置かれている場所があります。この場所は根本堂と呼ばれておりまして、ここに元々お堂があり、その後に今の場所にお堂の場所が移されたようです。

関東天台の中心としての泉福寺

 鎌倉時代、鎌倉に幕府ができました。それに伴い関東で天台の教えを広めるべく、文暦元年(1234)に信尊上人が、その弟子である廣日・海日・廣海・尊海等とともにこのお寺に来られました。信尊はこのお寺を中興した他、代々から続く教えを「河田谷相承十九通」としてこの地でまとめました。その教えを尊海等に授けており、そこから発展し関東天台の再興が行われていきました。このお寺は、教育大学のような学問所なのです。関東天台の中心として興隆し、この場所で育った僧侶の方々は関東一円の天台宗寺院に広がっていることに加え、身延山の日蓮宗の僧侶等もこの場所で修行を行っていました。そのようなことから寛文元年(1243)に後嵯峨天皇から、東叡山勅願院の勅額を賜っております。
 頼山陽の『日本外史』では、永禄三年(1560)に上杉謙信が岩槻城の北条氏康との戦いを行うために、2万の兵を引き連れ武蔵国泉福寺に陣を張ったと書かれています。今の泉福寺の規模では2万の兵を収容することはできないのですが、当時のお寺の境内はものすごく大きく、このお寺がある川田谷という昔の村の端から端までが当山の境内でした。今このお寺の前に荒川が流れていますが、大正時代までは荒川がこのお寺の外堀でした。門の前の並木にその面影を残しているのですが、二重の堀に囲まれていていました。川下の橋の近くに泉福寺がある桶川市と隣の上尾市の市境があるのですが、その場所までがこのお寺の境内で23の塔頭があったとされ、2万人の兵がそこに陣を張ることもできたことが分かると思います。
 このお寺は格式が高かったことから世襲ではなく、僧正寺とも呼ばれ僧正になった人がこのお寺を継いでいました。僧正には正式には55歳以上でないとなることができず、高齢の方が住職となるため短い期間で代替わりが行われていました。代替わりで新たな住職を探すことは難しく空き寺になってしまっていた期間もありました。私の父親は俗人であったのですがこのお寺のお手伝いをしていた関係から昭和28年にここの住職になり、私は住職になるつもりはなかったものの色々あり仏教の大学に入ることになりました。
 私がこのお寺に来たときは荒れており、コウモリが飛び野良猫の巣となっているお化け屋敷状態で、人間の住むところではありませんでした。私が29歳のときに先代が亡くなってしまったため、私は継ぐことのできる年齢ではありませんした。そこからより勉強をして35歳で紫の衣を着られるような形となり、今までこのお寺を守ってきています。かつてはたくさんの末寺を持つ大地主であったため生活することができたのですが、戦後は独立採算で行うようになったため、末寺さんがそれぞれ仕事を行い本寺であるこのお寺は仕事がなくなり大きなお葬式に行くぐらいになってしまいました。そのため私も東京の学校に勤めて生活していました。

多くの人の想いが集まる本堂

 このお堂は宝暦二年(17539)に再建されたと伝えられております。大正時代にお堂を茅葺きから瓦葺きに変える際、むき出しで工事を行ったためシミができていたりしていたのですが、金剛組に修理を依頼して江戸時代の建物なのですが、きれいな状態になっております。30㎝ぐらい床が下がっていたり、一番重要な柱がシロアリによってダメになってしまったりしていました。一部の柱は古い柱の表面を覆い新しくみせています。
本堂の修理は、このお寺の総代さん55人の方々が檀家さんを回ってお金を集めてくださったことで修理を行うことができました。申し込みの形にしてお金を集めたのですが、予定より多くの金額を集めることができ、本堂に加えてほかのお堂等も修理することができました。本当にありがたいの一言です。
 ご本尊は秘仏の地蔵菩薩像です。一代の住職が一度しか拝めないお像となっています。この本堂をきれいにしたときに開帳を行いました。等身大より少し小さい像です。
 本堂向かって左側は護摩を焚く場所となっており、伝教大師像と慈覚大師像をともにおまつりしています。毎年護摩は、元日の午前0時に除夜の鐘が終わってからと1月5日、4月8日の花祭りに行っています。花祭りの日には数百人ぐらいの多くの参拝の方が来られます。
 一つの本堂の中で滅罪と祈願を一緒に行うことは、本当はできないことなのです。滅罪は自分の罪障を消していくことで、祈願はお願いすることであるため目的が異なっており、建物を別にしなくてはなりません。このお堂は一緒に行えるようになっているのですが、これは御修法などの格式のある護摩を焚きながら法要を行うという儀式がこのお寺で許されているため、このような形になっております。
 本堂に御籠が残されています。これは川越の喜多院や中院に行く際に、22人の行列を組んでいました。その時に使われた御籠です。行列は途中、川越市に位置する一乘院に寄ってから川越に向かっていました。江戸時代には川越のお寺は葵の御紋で、このお寺は菊の御紋で少し距離はできたのですが、学問的には同じであったため強い繋がりがありました。

重要文化財阿弥陀如来坐像と阿弥陀堂

 このお堂は、現在は収蔵庫に移されている阿弥陀さまをまつっていたお堂になります。阿弥陀如来坐像は、重要文化財に指定されております。定印を結んだ坐像で、この像の胎内には弘長2年(1262)の銘があります。この銘は修復の年代であるともいわれ、平安時代の作ではないかといわれています。
阿弥陀堂は安永二年(1773)に再建されており、欄間の透かし彫りの後ろには天明四年(1784)に彫られたとの銘が残されています。内陣には須弥壇があるのですが、収蔵庫にまつられている状態のまま阿弥陀さまをここにあったことを想定するとお像の位置が高すぎて見上げるようになってしまいます。台座と光背は時代が異なるので、別にあったお像のものを今は合わせているのかもしれません。

 以前は荒れ放題になっており、今の60代の方はここでかくれんぼ等をして遊んでいたようです。このお寺の目の前にホンダエアポートという軽飛行機の飛行場があるのですが、かつては桶川飛行学校という陸軍の施設で、今の飛行場は学校の練習等で用いられた滑走路が用いられています。戦時中はこの阿弥陀堂の中で、兵隊の方々が寝泊まりしていることがありました。コロナ前は学校の総合学習の時間や地元の企業の方がこの場所を使って真っ暗にして座禅を行っていたりしていました。

珍しい石でできた仁王像を安置する仁王門

 寛文二年(1662)に再建された仁王門です。この仁王門に彫られた龍には、逸話が残っています。この周辺は農家が多く、雨が降らないことに困っていたことから龍を下ろして雨乞いをすると、雨が降りだしたためお酒飲んで喜んでいました。そしたら龍もお酒を飲んだらしく、今度は雨が止まず洪水になってしまいました。龍が暴れているために洪水になっているのであろうと、龍の彫刻を縛りつけたため、縛り龍や括り龍と呼ばれています。

 仁王門の中に安置されている仁王像は、あまり見られない石でできた仁王像になります。このお像は、もとは浅草寺にまつられるために造られたとされる伝承があります。秩父で造られたこのお像を、荒川を使って浅草寺に持っていく予定であったものが、何らかの所以があってこの地にまつられるようになったといわれています。

 また浅草寺の本尊の観音さまは漁師の網に引っかかったとされていますけれど、伝説としてもとは河田谷の観音さまだったものが荒川から流れ、浅草に行ったというものがあります。時代としては合わないのですが、交換が行われたというおとぎ話のような伝説です。

 ご住職にお話しを聞いていると80歳を超えおられるとのことでしたが、とても元気で生き生きとしておりました。その秘訣をお伺いしました。
「お寺には今の大学と同じように官寺・公寺・私寺という3種類があり、泉福寺は官寺という国のお寺であったため明治時代には資金の支援がありました。それ以降の支援がなくなってからは、お坊さんの養成道場という格式はあるのですが、食べていくには大変な寺院です。格式の高い寺院で末寺が法事等を行うため、このお寺には仕事がありませんでした。そのため学校に勤めながら、お寺のことや、そのほか様々なことを二足、三足のわらじで活動していました。そう多くの仕事をやっていても、それが当たり前になっていき大変と感じなっていき、仕事をやっていくことが楽しくなっていくのです。
 仕事に追われているのが、病気にならないコツで、動かないとダメなのだと思いますね(笑)。
以前あるところで老人という言葉をやめましょうといったことがあります。老人という言葉が、人をダメにするのだと思っています。年を追うことは悲観することではありません。体が働けるうちは働いていくことで、社会に繋がっていく。それが大切だと思っています。」

参加学生の感想

 この地が関東における天台宗の道場であり、ここから関東一円の天台宗の僧侶、身延山の日蓮宗の僧侶等多くの方々が羽ばたいていったことを聞き驚きました。関東にも多くの天台宗寺院がありますが、ここから育っていったことを考えると感慨深いと思いました。
 ご住職の説明を聞いている中で、何としてでもこの泉福寺が歩んできた歴史や文化を守っていきたいという思いが強いように感じました。格式の高いお寺だからこその時代や制度のあおりを受け、ご住職がこのお寺に入ったときは大分荒廃してしまっていたことを伺いました。そんな中で、今のようなきれいな本堂や仏さまが守られてきているのには、ご住職の熱意と人柄によるものであり、それによってこのお寺を守っていきたいという多くの人々が集まったのだと感じました。

(文・奈良大学博士前期一年)
泉福寺
埼玉県桶川市川田谷2012