坂東三十三霊場の第12番札所「慈恩寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

坂東三十三霊場の第12番札所「慈恩寺」を訪ねる

岩槻人形で有名な埼玉県さいたま市岩槻区。そんな岩槻区には、令和6年に創建1200年を迎える古刹・慈恩寺が伽藍を構えています。坂東三十三霊場の第12番札所として多くの参拝者が訪れる慈恩寺には、1200年間の歴史と信仰を今に伝える様々な文化が伝えられています。日差しが夏らしくなってきた6月中旬、そのような慈恩寺を学生たちが訪問しました。

開創1200年を迎える古刹

「慈恩寺の歴史は、ちょうど1200年前、慈覚大師円仁さまにより始まります。慈覚大師さまは、下野国出身ですから、距離が近いこの地においても天台の教えを広める布教活動を行ったと伝え聞いています。」

「お寺を創建するにあたり、慈覚大師様は千手観音さまを造立したといいます。この千手観音様が慈恩寺のご本尊として大いに信仰を集めたそうです。そして、慈恩寺一帯の風景は、慈覚大師が留学された長安の大慈恩寺の風景と似ていることから、建立したお寺の名前を『慈恩寺』と定めたと伝えられています。このように、慈覚大師とゆかりが深く霊験あらたかな観音さまがおまつりされていることから、慈恩寺は多くの僧侶や参拝者が集いました。」
「時は流れ中世になると、関東においても観音さまへの信仰が高まり、霊験あらたかな観音さまを巡る巡礼が人気を博します。ここ慈恩寺も霊験のある観音さまとして有名でしたので、その巡礼を構成する寺院の一つとなりました。この巡礼こそが、現在も続いている坂東三十三霊場です。現在も多くの方が巡礼者として慈恩寺を参拝していただき、本堂には江戸時代に奉納された奉納額がいくつか掛けられています。」

「坂東三十三霊場を構成するお寺となったことで、中世の慈恩寺は広大な境内と建物を有していたと記録されています。往時の慈恩寺には、塔頭が66坊存在していたことが書物に記載されています。これほどまでの塔頭があったということは、僧侶の方もたくさん修行をされていたということですから、その当時の慈恩寺がいかに栄え、信仰を集めていたかがわかりますね。」

「その後江戸時代になると、慈恩寺に危機が訪れます。寛永11年(1634)、本堂が焼失してしまったのです。そのとき、慈覚大師さまが造立したとされるご本尊さまも焼失してしまいました。その際、当時徳川家康公のブレーンとして大いに活躍していた天海大僧正のご助力をいただき、比叡山の南光坊より千手観音さまをお迎えし、ご本尊となりました。このお像が現在おまつりされている千手観音さまとなっております。通常は秘仏であるため、お姿は厨子の中ですが、開創1200年を記念して、令和6年3月20日から9月23日まで御開帳しております。ご縁がありましたらどうぞご参拝ください。」
「また、この慈恩寺は、徳川家康公が埋葬された日光山への参詣道である『日光御成道』の沿道に伽藍を構えているため、徳川家康公に参拝する将軍の方々が慈恩寺にも参拝に訪れました。このようなご縁から将軍家より所領が寄進され、そのことを記す文書が現在も伝わっております。」

「今までお話ししたことが慈恩寺の歴史となります。慈恩寺の境内には、歴史を今に伝える仏さまや建物などが残されていますので、巡っていきましょう。」

江戸時代に再建された雄大な本堂とご本尊・千手観音さま

「こちらが慈恩寺の本堂になります。先ほど寛永11年に焼失したとお話ししましたね。その後再建されましたが、残念ながら文政11年(1828)、天保7年(1835)に焼失してしまいます。現在の本堂は天保14年(1842)に再建された建物で、創建当初は寄棟造の建物でしたが、昭和12年(1937)に現在のような建物に改修されました。ご覧いただいてお分かりの通り、非常にきれいな彩色が施されている建物であると思います。これは、平成27年から平成28年にかけて70年ぶりの修復が行われたためです。建立当初の輝きがよみがえり、威風堂々として雄大な建物として多くの参拝者の皆さまに親しまれております。」

「先ほどお話しした通り、今年は慈恩寺が開創されてから1200年の記念の年となっております。このことを記念して9月23日までご本尊さまをご開帳しております。どうぞ本堂の中へお入りいただきお参りください。」
ご案内に従い本堂の内部へと足を踏み入れます。
すると、金色に光り輝く千手観音さまを中心にたくさんの仏さまがおまつりされる空間が広がっていました。
「本堂中央におまつりされる仏さまがご本尊・千手観音さまになります。先ほどお話ししたとおり、江戸時代に焼失してしまった慈覚大師作の観音さまに代わり、天海大僧正にご寄進いただいた観音さまです。通常は秘仏としておまつりしているため、当初の美しい彩色が残り、金色に光り輝く美しいお姿の観音さまです。」

「また、千手観音さまの両脇には、観音さまの眷属である二十八部衆のお像がおまつりされています。通常は壁面の壇上におまつりしていますが、ご開帳を記念してお像の修復を行い皆さまがより近くでお参りしていただけるように壇からおろしております。それぞれのお像が個性豊かな表情をされており、お参りいただいた参拝者の方々から親しまれている仏さまです。」
「また本堂の内陣には、かつての祭礼のときに実際に使用されていた巨大な獅子頭を安置しています。祭礼の時には、この巨大な獅子頭を担いで獅子舞が行われていたそうですから、祭礼の壮麗さが伝わってきますね。このほかには、鎌倉時代に造立されたと考えられている広目天立像や江戸時代造立と考えられている閻魔大王像や奪衣婆像、天井には狩野派の絵師が描いた迫力ある龍の天井絵など様々な仏さまや絵画がおまつりされています。いつの時代も信仰を集めた慈恩寺の歴史を物語る仏さまだと思います。」

様々な仏さまにお参りした学生たちに、慈恩寺の方から声がかかります。

「こちらの本堂も1200年の慈恩寺の歴史を物語る建物ですが、さらに慈恩寺を代表する場所がありますので、最後にご案内いたします。」

中国から分骨された玄奘三蔵のご遺骨をまつる玄奘塔

本堂のある慈恩寺の境内の中心から歩いて5分ほど。
小高い丘の上にそびえ立つ巨大な石塔に到着しました。

「こちらの石塔は『玄奘塔』と称される塔になります。その名の通り、経典を求めて天竺まで旅をし、西遊記のモデルとなった中国の高僧、玄奘三蔵をおまつりする塔です。こちらの塔には、中国で発見された玄奘三蔵のご遺骨がおさめられております。」

「それではなぜ玄奘三蔵のご遺骨が日本で、それも慈恩寺におまつりされているのでしょうか。そこには、奇跡的なご縁が重なり慈恩寺へとお越しになった数々のエピソードが隠されています。」
「玄奘三蔵を巡るご縁は、昭和17年(1942)に玄奘三蔵のご遺骨が南京市郊外で発見されたことに始まります。ご遺骨の発見後、南京市で盛大な式典が行われ、中国政府を含む各国政府代表が集いました。この式典の際、中国側から日本仏教界に向けてご遺骨の一部が分骨され贈呈されたそうです。」
「その後、贈呈されたご遺骨は東京の増上寺や蕨市の三学院などでおまつりされていましたが、太平洋戦争の戦火を避けるとともに玄奘三蔵とゆかりに深い大慈恩寺に風景が似ていることから『慈恩寺』と名付けられたという逸話も残されているこちらの慈恩寺でおまつりされることになりました。その後戦争が終わり、ご遺骨が戦利品とされるのではないかという議論がありましたが、当時の中国政府のトップである蔣介石主席から『日本でおまつりし、日中友好の象徴としてほしい』との言葉をいただき、引き続き日本でも玄奘三蔵の遺徳を顕彰することになりました。」

「現在のこの巨大な石塔は、もともと東武鉄道を創業家である根津家が仏教聖地の造立するために用意していた石塔でした。そこで、根津家の方々に玄奘三蔵を顕彰するための石塔造立のお話をしたところ、この巨大な石塔をご寄進いただきました。その後、戦後の混乱する世情の中、たくさんの方々のご寄進やご助力により整備が進み、昭和25年に完成しました。石塔の外観は当時を代表する建築家・伊藤忠太氏、ご遺骨をおさめる佐波利の壺は著名な彫刻家である朝倉文夫氏により手がけられました。当時を代表する方々が多く携わる一大プロジェクトであったことがお分かりいただけると思います。」
「最後になりますが、大きく分けて慈恩寺には観音さまの聖地としての側面と玄奘三蔵をおまつりする側面の2つの側面があります。どちらもご参拝の方々やご信仰いただいている方々、たくさんの人々のご助力により慈恩寺の歴史や文化は紡がれてきました。このような先人たちのお気持ちを大切にし、これからの未来にも慈恩寺の歴史や文化を伝えていくことができるように頑張っていきたいと考えています。」

参加学生の感想

今回の慈恩寺様への訪問では、絶え間なく訪れる参拝者の姿が印象に残っています。坂東三十三霊場の札所としてたくさんの方々がご本尊の観音さまへ参拝に訪れているだけでなく、国籍を問わず、玄奘三蔵にお参りする方々が数多くいらっしゃいました。日本の人々だけでなく、世界中の人々の拠り所となっている慈恩寺の姿に感動しました。

(文 立命館生命科学部 博士2年)
慈恩寺
〒339-0009  埼玉県さいたま市岩槻区慈恩寺139