毎日のお護摩で人々に寄り添う「神峯山寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

毎日のお護摩で人々に寄り添う「神峯山寺」を訪ねる

6月に入った最初の土曜日。大阪府高槻市の山の中、青紅葉が輝く木漏れ日を浴びながら向かった先は、日本最初の毘沙門天安置の霊場として知られる古刹、神峯山寺です。その歴史をたどれば平安時代にまで遡ります。

聖徳太子が創建した古刹

「それぞれ仏さんに歴史がありますよね。仏教美術として仏像を見ることも大事ですが、まずどういう経緯があって、その仏さんがそのお寺にいらっしゃるかという背景を知ることが一番大事なんです。」
そう言って神峯山寺を案内してくださったのは、ご住職の近藤孝道さんです。
三体いるという御本尊にしっかりお勤めをした後、神峯山寺についてお話していただきました。

拝仏という考え方

「昔は医療が発達してないから、病気や怪我等の苦しい事があると仏さんに頼る、全てを任せるのが当たり前でした。平和で医療が発達している現代と違って、その仏さんに入っている念が全く違いますよね。
そのため神峯山寺では拝観っていうのを一切してません。”拝仏”といって、まずしっかりお勤めをしてから”仏様を拝む”ということを1番大事にしています。」

連続護摩祈願

「麓にある化城院というお堂で毎日『毘沙門不動護摩』というお護摩を焚いています。1日1座、僧侶の修行として行っていますが、護摩法要にはどなたでもご参列いただけます。2011年より連続祈願を始め、2024年11月4日には連続5,000日を達成します。10年以上毎日護摩を焚くことで、檀家さんが中心のお寺だったのが、今では土日はもちろん平日でも祈願に訪れる信者さんがかなり増えました。」

「最近では若い世代の人たちも様々な悩みを抱えて神峯山寺にいらっしゃいますよ。護摩に参列された方は皆さんスッキリとした顔で帰られます。これから先も悩みや願い事がある方がいつでも気軽にお参りができる場であり続けたいですね。」

 初めは、そんなことをしても誰も来ないのではという声もあったそうですが、その声がご住職の心に火をつけたようです。今では多くの方にとって心の拠り所となっているお寺であることが分かりました。言うは易く行うは難し、ご住職の揺るがない信念に感動してしまいました。

神峯山寺の歴史

「今から約1300年前に奈良県の葛城山で修行していた役行者(えんのぎょうじゃ)という方がいらっしゃいました。お坊さんではなく、山に入って歩くことで山から力をいただいて自分の霊能力を高めていく仙人のような方です。役行者は修行中に神峯山までやって来ました。神峯山寺に着くと、この山を守っている金毘羅童子(こんぴらどうし)という神さまが現れ、1つの霊木から4体の毘沙門天を出現させました。そこに役行者が魂を入れると四方に飛んでいったという伝説があります。その4体の毘沙門天は神峯山寺、本山寺、奈良の朝護孫子寺、京都の鞍馬寺にそれぞれ飛んで行ったと言われています。

お寺によって諸説ありますが、『神峯山寺縁起』には信貴山、鞍馬、本山、神峯山が一緒の毘沙門天だと記され、全てのお寺が日本最初の毘沙門天だと謳っています。おそらく同時期に毘沙門天信仰ができたんだと思いますね。ただ、役行者が魂を入れた4体の毘沙門天は現存しないと言われています。」

神峯山寺の3つの御本尊

「現在、神峯山寺には3体のご本尊の毘沙門天が祀られています。まず、第一の御本尊は本堂内陣の厨子に入っておられます。寅の年・寅の月・寅の日・寅の刻に毘沙門天が舞い降りてきたという伝説があるため、12年に一度、寅年にご開帳しています。厨子には毘沙門天と奥様にあたる吉祥天女、お子様に当たる善膩師童子(ぜんにしどうし)の三体が祀られていることから家内安全や子宝子授などのご利益があります。」
「中内陣に祀られる第二の御本尊は、双身毘沙門天(そうしんびしゃもんてん)と呼ばれる2つの体を持つ毘沙門天です。非常に霊験の強い毘沙門天のため、絶対秘仏であり限られた修行僧しか拝むことができません。双身毘沙門天は人間がもつ正義と闇の両方を持って拝むことで強靭な力が発揮されます。ただ、命を助けてもくれますが相手を倒すこともできるので、そのような強い願いをかけるのであれば必死になって拝まないと拝む者自身の命を取られてしまう恐れがあります。それぐらい拝むのが難しい毘沙門天だと伝わっているのが、第二の御本尊の双身毘沙門天です。」
「第三の御本尊は内内陣に祀られる兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)です。毎年11月23日の秋のお祭りの際にご開帳します。兜跋毘沙門天像は、地天女が毘沙門天を支える造形が一般的ですが神峯山寺の兜跋毘沙門天は邪気を踏んでいます。その姿は第一の御本尊に似ているため、当初から祀られていた像は消失し、新たに造られた像だと考えられています。
かつては武神として信仰が強かった兜跋毘沙門天ですが、現在では商売繁盛など、現世利益の福の神としても多くの方がお参りにいらっしゃいます。」

高槻の龍神

「大日如来の前に鏡が祀られているのは神仏習合の名残です。この山の地の主である金毘羅飯綱大権現( こんぴらいいづなだいごんげん)を祀っています。また、川の氾濫を鎮めるために水の神様を勧請したという謂われがあったり、下の村では神峯山の峰を龍の背になぞらえ、山全体が村を見守る龍神として信仰されています。昔からお寺の行事やお祝い事になると境内に雨が降ることが多いのですが、神峯山寺では雨が降ると龍神さんが喜んでいるって表現するんですよ。」

人をつないだ阿弥陀如来

「平安時代後期に造像され、国の重要文化財に指定された阿弥陀如来です。
この阿弥陀さんには面白いストーリーがあります。鎌倉時代、村に橘之助下というという大地主が住んでいました。その橘之助下がある日、不治の病にかかってしまい、命がなくなるという思いから、阿弥陀さんに極楽浄土に連れていってほしいという願いで神峯山寺にお参りに通っていました。そうしてしばらくすると病気が治ったんですね。

そして彼は感謝の気持ちで神峯山寺の僧侶になり、さらに信仰を深め、その後家族全員が出家をしたという話が神峯山寺縁起には書かれています。それ以外にもさまざまなエピソードが残るこの阿弥陀さんは、命を守ってくれる仏様として長く神峯山寺で信仰されています。」

中興の祖、開成皇子

「この周辺は開成皇子(かいじょうおうじ)が中興の祖として大きくしたお寺がたくさんあります。長岡京から平安時代にかけ、天皇の勅願所として北摂地域にたくさんのお寺が建てられました。神峯山寺も天皇家の菊の紋や毘沙門菊甲紋を頂戴しました。
ただ、織田信長による比叡山焼き討ちの際に、ここも焼き討ちされるなど、歴史の流れと共に神峯山寺も栄枯盛衰を繰り返してきました。しかし、どんな時代でも常に祈りを絶やさず信仰し続けられたからこそ、“今” に繋がっているんだと思います。」

国境を越えても変わらない祈り

「カトリックやプロテスタントといったキリスト教は神が信仰の対象であるため何もお祀りしないのですが、ギリシャ正教会はイコン[聖教画]を祀るんだそうです。」

周りの仏像とは全くの異色ぶりでなぜここにそのイコンがあるのか話し合っていた時に近藤ご住職が詳しく説明してくださいました
「セルビア中東戦争がひどい状況だった頃、日本はセルビアに多くの支援をしていました。その時セルビアで日本大使をされていた方が、セルビアを離れる際にセルビアの人々からお礼として渡されたものがこちらのイコンです。
このイコンには、「戦争を早く終わらせてください。」という人々の願いが込められているわけです。実は、その大使をされていた方は神峯山寺とも深くご縁がある方で、「神峯山寺にお祀りしてください。」と寄贈されました。
たとえキリスト教のイコンだとしても、仏像と同じく人々の思いがこもった信仰の対象です。仏教では“全てのものが仏になる”という考えがあります。なので、キリストも仏なんですね。だからここにお祀りし、皆様にも拝んでいただけるようにしています。」
海外の方はすごい信仰熱心というか、日本の文化を大事にしてくれる方が多いそうです。
私たち日本人は宗教に関して関心が薄い傾向に少なからずあって、もし自分の宗教が何か聞かれた時、神峯山寺に訪れる前の私は絶対答えられなかったと思います。

学生の感想

「自分の心の中に仏さんがいる宗教です。誰でも心の中には仏がいて、それを大事に育てていくのが仏教です。」
ご住職はこう教えてくださいました。
想い・祈りは国も宗教をこえて人々をつなぐ力があるなら、私はこれからもこの記事を機会に想いを伝えていけたらいいなと強く思います。

帰り際に寄った化城院はお護摩を炊き終わった後でしたが、護摩のいい香りが漂っていました。いつまでも身体に残っています。

(文・奈良大学4年生)
神峯山寺
大阪府高槻市原3301-1