いろり端
探訪「1200年の魅力交流」
円山神社とともに歩んできた宮寺「寶珠寺」を訪ねる


寶珠寺の歴史

火災等にあったため、創建は残念ながらわかっていません。宝暦4年(1754)に澄堯大和尚によって中興開基されたことはわかっています。
このお寺は宮寺ともいい、ここ寶珠寺まで上がってこられた階段をさらに上ったところにあります円山神社の別当であります。円山神社にも当然宮司さんがいらっしゃいましたが、別当が円山神社の管理を行い、その下で宮司さんが神社の管理を行っていました。

明治時代に入り、神仏分離の影響を受け、以前あった寶珠寺の所領はすべて円山神社に移ってしまいました。ただお堂だけは寶珠寺として現在まで守られ続けています。神仏分離の際に、その当時おられた円山神社の住職は還俗し僧侶から俗人になり、そこから無住の期間が長く続きました。天台宗に出ている届け出によると、昭和2年から私の師僧がこのお寺に入ったことで無住の寺院でなくなったことがわかります。師僧は、西国霊場として有名な長命寺山内の金乗院住職の弟子でした。ご縁があって師僧がこの寶珠寺を任され、現在に至っています。」
寶珠寺で守られつづけている毘沙門天立像


ご本尊の毘沙門天立像はクスノキと思われる広葉樹材による一木造で平安末期の像です。像高は100㎝程で、一部に虫食い等が見られますがきれいに守られてきています。当初は彩色が施されていたようです。毘沙門天は四天王としておまつりされているときは多聞天としておまつりされていますが、単独の場合は毘沙門天としておまつりされます。平安時代末期の像であることもあり、穏やかな表情をしていますね。

「ご本尊の毘沙門天立像がおまつりされている収蔵庫の前には、寶珠寺の本堂があります。この本堂は江戸時代の弘化4年(1847)に造立されたことが棟札からわかっています。堂内には南北朝時代の地蔵菩薩坐像や桃山時代と思われる地蔵菩薩立像懸仏といった多くの寺宝が戦乱の火の粉から守られ、現在も篤く信仰されています。」


南北朝時代に造られた地蔵菩薩坐像
「地蔵菩薩坐像は、像底の一部が不鮮明であるため一部解読不明な部分があるのですが、地蔵菩薩坐像の像底に書かれている墨書によって「院□」(□は解読不明)という仏師によって貞治2年(1363)に造られたことがわかります。細かく誰かはわからないのですが、院派といわれる仏師集団に造られた地蔵菩薩です。文和4年(1355)正月には、占領されていた京都を奪還すべく攻め上がるときに、足利尊氏らとともに後光厳天皇が武佐から円山山麓へ遷座しています。円山のこうした歴史的な背景によって京都との結びつきを強めたと考えられており、このような地蔵菩薩像がこの地でお祀りされていたのだと思われます。」
参加大学生の感想

訪問させていただいた日に円山神社のお祭りの準備を地域の皆様が行っていたのですが、ご住職と皆様が気軽にお話をされているのをみて、このような地域の人々や周辺の寺院、円山神社等様々な「繋がり」を大切にされている寺院であるからこそ、この地で守っていきたいという声があがり、現在もこの地で篤く信仰されてきているのだと思いました。
(文・奈良大学博士前期一年)
寶珠寺
〒523-0805滋賀県近江八幡市円山町170-2
〒523-0805滋賀県近江八幡市円山町170-2

人から人へと紡がれてきた
大切な想いや魅力について語り合う
地域で育まれてきた歴史や文化を語り合い、
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