復興された「福林寺」と修復された本尊木造十一面観音立像を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

復興された「福林寺」と修復された本尊木造十一面観音立像を訪ねる

福林寺は桓武天皇の勅願により伝教大師最澄が開いたと伝えられる古刹。滋賀県守山市木浜町に位置し、境内には本堂・庫裏・表門・地蔵が立ち並び、本堂奥に御本尊「木造十一面観音立像」が安置されています。今回は高木慈恵ご住職にご案内いただきました。

伝教大師最澄により開かれた古刹

「平安の初めに伝教大師最澄が根本中堂建立の用材を求めて甲賀の仙之庄に出向かれた折、三上山の麓で随光を放つ霊木を発見しました。一刀三礼のもと刻まれた十一面観音をご本尊として開創されたのが、福林寺の始まりです。元は野洲市にあり今でも史跡が遺されています。戦国時代に兵火にあったことで、ご本尊を運び出し現在の地で再興したという歴史があります。当時は七堂伽藍があったとされています。1571年(元亀2)に信長による焼討があり焼失しました。」

多くの方々に支えられた福林寺復興の軌跡

 重要文化財を所有し、古くから信仰の対象であった福林寺ですが、近年までは廃寺同然で、境内は荒れ果て堂の床は抜け落ち、仏様も傷ついた状態で地に伏していたそうです。
「何しろお金がなく、兄弟で琵琶湖に魚をとりに行き、御百姓さんから少しの野菜をいただき、質素な生活をしていました。小さい家で、障子を閉めても大きな隙間が空いてしまっていましたね。そこに追い打ちをかけたのが、阪神淡路大震災。傾いていた庫裡が一層傾きました。軒につっかえ棒をしてしのぎました。お堂も甚だ損傷がひどく、空が見える状態でした。本堂再建に、熱い思いを抱き続けました。その一念が、村民や信徒達の心を動かし、1975年31歳の時復興の運びになりました。翌1985年8月完成いたしました。工事の期間中は手間稼ぎのために大工さんのお手伝いをしました。また、瓦屋さんが屋根をふかれる時には、泥土を足で踏んで整えバケツに入れてそり屋根を駆け上がり、職人さんの手元まで運びました。1300年の歴史あるお寺を未来へ継いでいく。それが自分の職責である。そのように考えて今日まで進んできました。」
特別に見せていただいたお写真

ご苦労されたころの写真をみせていただくと、その軌跡がどれだけ大変だったのかを感じさせられました。

復興した本堂に祀られるお前立の十一面観音立像

「本堂の正面にあるのはお前立の十一面観音立像です。これは1987年(昭和62)9月2日に寄進頂いたもので、十年養生した木曾檜で造られています。私が36歳の時、寄進された方がこちらに来られてしばらく私と話しました。その時に「住職、望みをかなえてやる。」と言って別れました。それ以降、音沙汰がなく、3年が経った頃「できた。」と連絡があり、十一面観音様を安置いただきました。」
「お地蔵様は子安延命地蔵菩薩です。腹帯のご祈祷などにも来られています。また右側には伝教大師、左は元三大師像を祀っています。これは第253世山田恵諦天台座主の甥の方が33体造られた元三大師像で、1つ目は山田座主がおられた瑞応院に祀り、2つ目がこちらに祀られている大師像になります。」

左:子安延命地蔵菩薩 中央:伝教大師像 右:元三大師像

御本尊・平安時代の木造十一面観音立像

兵火を逃れたご本尊が100年ぶりに保存修理を終えたとあり、まだ御開帳はされていないとのことですが、特別にご拝顔させていただけることとなり、本堂裏手の収蔵庫へご案内いただきました。
奥へ行くと大きな扉の奥に、美しい十一面観音様が祀られていました。
「中央にお祀りされているのが、福林寺のご本尊、木造十一面観音立像です。国の重要文化財に指定されています。造立された時代は、いまより1000年以上昔、平安時代中期・後期だと考えられていて、伝教大師最澄様が刻まれたと伝わっております。
お像の表面が彩色されていることにお気づきかと思います。これは造立された当時の彩色が残っているそうです。しかしながら、1000年以上昔の彩色です。残念ながら近年、彩色が剥落してしまったりしていました。ですので、多くのご支援をいただき、昨年1年間お像の修復を行っていました。また、修復した箇所は彩色だけではありません。今回、お像の右側にあったへこみと胸の部分、また十一あるお顔の不具合を修復いたしました。」

「実は井上靖氏の小説『星と祭』を通してご本尊の魅力をたくさんの人々に広めていただきました。こちらのご本尊十一面観音様は小説の中で「天平の貴人」と例えられ、日本一のべっぴんさんと書いていただいています。1975年頃の小説ですが、今もこの小説を読んで、ご本尊様にお参りに来てくださる方がたくさんいらっしゃいます。」


鎌倉時代の宝塔

本堂に向かって右手側に大きくて立派な二基の宝塔についてもお話しいただきました。

「こちらは鎌倉時代に造られた石造りの宝塔です。こちらも国指定の重要美術品です。こちらの宝塔を建立したのは、鎌倉時代の武将佐々木高綱公と伝わっております。これらの石塔にはある逸話が残っています。」

「時は平安時代から鎌倉時代に移り変わろうとする12世紀後半。日本が平家勢と源氏勢に大きく二分され、たくさんの戦があった時代です。
たくさんの武将が群雄割拠する中、源氏勢に佐々木高綱公という武将がいました。高綱公が戦に出陣する際に、この2基の宝塔を建立したと伝わっています。そしてこの宝塔を建立して出陣した戦というのが、かの有名な『宇治川の合戦』です。『宇治川の合戦』にて、佐々木高綱公は梶原景時の息子・梶原景季と先陣を競い合い見事先陣を勝ち取りました。その様子は『平家物語』の名場面として古典芸能や絵画で数多く表現されています。」

ご住職は宝塔を見るツアーなどもあるとお話しくださいました。

平安時代の阿弥陀如来坐像も修復

最後に阿弥陀堂にもご案内いただきました。
中央には光背の無い阿弥陀仏さまが祀られていました。

「阿弥陀堂には平安時代と考えられる阿弥陀如来坐像を祀っています。2016年から約1年に渡り修復いたしました。こちらは、信長の焼き討ちの際に難を逃れたお像でしたが、修復する以前は雨漏りするお堂で横たわっていました。今はこのように美しいお姿で安置されました。
実は現在こちらの阿弥陀仏様の光背と(阿弥陀如来像の両脇にひかえる)脇侍を制作中です。原寸で仏師に下絵を描いていただいたものを祀っています。阿弥陀仏様にふさわしいものとなるようこだわって造っています。」

参加大学生の感想

ご住職の信念と多大なる努力によって復興された福林寺が、これから数十年、数百年あり続けるよう、後世に語り継いでいくことが私達の役割と感じました。
また、私も今持っている志をしっかりと心に留め、邁進していこうと、再び決意しました。

(文・立命館大学文学部2年)
福林寺
〒524-0104滋賀県守山市木浜町2011