最澄さんの造像した薬師如来・千手観音像に始まる大牟田の古刹「普光寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

最澄さんの造像した薬師如来・千手観音像に始まる大牟田の古刹「普光寺」を訪ねる

福岡県大牟田市三池山に位置する「普光寺」は、最澄さんの造像した薬師如来像と千手観音像をおまつりしたことに始まります。境内には「臥龍梅(がりゅうばい)」という一本の木から大きく広がる梅の木があり、近隣のみならず幅広い地域から多くの人々が集まる地域に根差したお寺です。例年より早く梅の花が終わりかけた3月初めに訪問させていただきました。今回案内していただいたのは、中川原照寛住職です。

普光寺の歴史

「普光寺の歴史は、今から1200年ほど前まで遡ります。最澄さんは中国へと渡る前の季節調節の間に九州の様々な場所を訪れ、薬師如来像を造っていたそうです。この場所にも薬師如来の像を安置しようとしたら、千手観音が自分も共にまつってほしいと現れました。そのため、祠に薬師如来と千手観音をともにおまつりしました。」
「その後国守であった嵯峨天皇の皇孫、三毛中納言源師親にお堂を建ててくれないかと 夢枕でお告げがありました。来てみると実際にまつられていたため、15年ほどかけお寺を造営しました。建物ができ誰に初代のご住職になってもらうか思案していたところ、後に第三代天台座主になられる円仁さんが最澄さんと同じく中国へ渡るために九州に来ていたため、お願いし開山として招きました。その後地震や土砂崩れによって被害を受けましたが、そのたびに復興され、現在に至っています。」

「もとは三池山自体が普光寺として信仰されていました。明治時代の廃仏毀釈によって、現在のお寺の範囲となりました。この周辺は5つの地区に分かれています。この5つの地区のルーツを辿ると、京都から来た技術集団が住み着いた場所であるとされています。現在でも大牟田周辺には、この技術集団が関わった石橋が残っています。この場所は大牟田の中で一番古い場所であり、一番高い場所になります。」

一本の木から大きく広がる樹齢450年の梅の木「臥龍梅」

「臥龍梅は樹齢450年にもなる梅の木です。臥龍梅の見頃は、例年3月の始めになります。今年は1週間ほど見頃が早く、すでに枝切りが始まっています。なぜこの場所が梅の名所となっているか老僧に尋ねると、漢方薬として中国からもたらされたのではないかとおっしゃっていました。そこから花もきれいだということで、花を愛でるようになったのだと思います。臥龍梅は一本の木が大きく広がっているのですが、ユーモアのあるご住職が現れ伸ばしていき、何代にも渡り受け継がれ今のような形になったのだと思います。県の天然記念物として指定される文化財であるのですが、生き物であり形が変わるため剪定のたびに報告書を提出します。毎年剪定するため、形状は住職によって個性が現れます。現在の梅の形は先代の形で、先々代は竹を組み上から押さえて平たくしていたそうです。江戸時代の名所案内の中に蜘蛛が地を這うような梅があるとの記載があり、そのころから梅の名所であったようです。観梅の時期には多くの人々が訪れ、多い時で20日間ほどの間で1万人ぐらいが訪れます。」

「この山には大蛇が住んでいたという伝説も残っています。その蛇に人身御供として殿様の娘か庄屋の娘が連れて行かれていました。あるとき娘がかわいがっていたサワガニが助けに来て、その大蛇を切ったことにより血だまりの池が3つできました。それはこの山の名である三池山の由来となっています。山頂にはお宮さんがあり、お寺の境内にも下社があります。臥龍梅はその大蛇を表しているともいわれます。」
「境内には、太宰府天満宮の飛梅もあります。先代の住職が、太宰府天満宮の神主の方と繋がりがあり、何かあったときの種の保存のためにお互いにそれぞれの梅の木を一本ずつ持とうという話になったそうです。そのため太宰府天満宮にも臥龍梅の木があるようです。」

普光寺観音堂

「普光寺にも以前は本堂があったのですが、今はなくなってしまい普光寺に残る最古の建築が観音堂です。このお堂と同じような建物は福岡県内で3つほどあるのですが、他の2つは改変が加えられており、原形を留める貴重な建築です。本堂にはきれいな彩色が多く残されています。お堂自体とその中にある厨子は同じ設えではないと考えられており、江戸時代末から明治時代にかけてのお寺が衰退したときに山内にある諸堂で使える部材を集めてこのお堂を作ったと考えられています。そのため、厨子の上部がお堂に収まりきっておらず、厨子の両翼が一杯いっぱいとなっています。厨子は出したくても出せない状況になっています。」

「観音堂はたくさんの人が入ってお祈りするのではなく、殿様一人か二人が入ってお祈りしていたお堂であったようです。この場所は立花家が領主であったのですが、山に近く山伏もおり国境付近であることから情報交換の場になっていたと思われ、お堂はそのような場として適していたようです。現在このお堂では、毎月1日と第一日曜日にお参り会を行っています。」
「また、堂内には大友家や立花家等様々な種類の家紋があり、家紋の宝庫となっています。徳川将軍家のご位牌もあるのですが、なぜここにあるのかわかっていません。この山の下に三池藩の殿様の菩提寺があるのですが3代目からで、それまではこの普光寺が菩提寺でした。郷土史家の方からは、殿様のお寺が下に移されたことで、その上にある普光寺の位置づけとして将軍家をおまつりするようにしたのではないかとおっしゃっていました。」

普光寺観音堂にまつられる様々な仏像

「お堂の中に薬師如来像と千手観音像を共にまつっています。お厨子の中に秘仏の千手観音像がおまつりされており、お厨子の外には脇侍として不動明王像・毘沙門天像がまつられています。この3体は一体として造られたと考えられています。近年不動明王像・毘沙門天像を修理した際に江戸時代の修理銘が出てきています。」
「薬師如来像は平安時代に造られた像で県指定文化財となっています。以前は漆箔で覆われていたそうです。背中付近には現在でも金箔が残っています。」

「仁王像はもとは山門にあったのですが、老朽化したためこちらに移してきました。三池藩の殿様の子供が健やかに育つようにとの思いを込めて寄進されたことが、体内の銘からわかりました。この像の作者は運慶9代を名乗る「康永」という室町時代の仏師で、他には和歌山県東光寺不動明王像、愛媛県雲門寺釈迦三尊像を造っているようです。吽形像は首から下が火災にあい、修復が加えられています。この像も危うくお焚き上げされそうになったのですが、寺総代が一度専門家にみてもらったほうがいいのではないですかとの声が上がり、みてもらうと貴重なことがわかり現在に残されています。」

普光寺で守られる多くの文化財

普光寺には、観音堂に安置されている文化財のほか、九州唯一であるとされ正長二年(1429)に京都の仏師によって造られたことがわかる県指定の円仁坐像や当時流行した天然痘撲滅のために造られた江戸時代の大日如来坐像、県指定の南北朝時代の不動明王板碑等多くの文化財が残されていました。
「大牟田市の指定文化財の7~8割は、当山に集中しています。ただ予算はつかず、諸々の規制がかかる問題もあります。これからのお寺は維持できず、廃寺や統合が行われることが多くなっていくと思います。近隣のお寺の市指定を受けた仏像があり、50年以上空き家でお堂がつぶれかかっているため普光寺で預かろうかという話がありましたが、文化財の市町村を渡る移動が困難で断念したということがあります。
仏像は礼拝対象であるという本来の意味を考えると、これからどのようにして文化財を守っていくことが正解であるのかをしっかりと考えていく必要があるのだと思います。」
「これからの時代は選択していくことが重要であるのだと考えています。老僧と話したことがあるのですが、仏教にしろお寺にしろ0から始まったものであるのだから、0に戻ることも選択肢なのだよねと。残すものとそうじゃないものの選択をしていく必要がある。選択していくことでの後悔というものはどの時代にも必ずあると思うのですが、今の時代はその考える時間が短くなってしまっている。その中でどう後悔することをなくしていくことができるのか、どうすれば守っていくことができるのかしっかりと考えていかなければならないと思っています。」

「当寺が残っているのは地元が大事にしてくれていることが、強いです。そのため様々なイベントが行われています。地元との協力があるからこそ、今のお寺があるのだと思っています。また当寺は信者さん・地域の方・フアンといったさまざまな方々によって支えていただいているため、いい意味で上下関係がありません。そのため聞きたいことを自由に話してもらえるお寺となっています。そこでさまざまなお話を伺うのですが、お寺もこれから変わっていかなければならないのだと思います。」
「幸せという形のとらえ方が多様になってきた現在には、お寺も時代に合わせて変わっていく必要があるのだと思います。仏教は伝統のあるものとされていますが、伝来した当時は最先端なものでありました。革新と保守という考えはともにあり、その中で、更新していくことが重要であるのだと思います。当寺でも写経会や座禅会を始めました。これは周りの人々からの提案で始めたものであり、お寺だからと言ってすべて否定せず、これからも新たなものにチャレンジしていきたいと思います。」

参加大学生の感想

ご住職に普光寺を案内していただくと、様々なお話を伺う中で、お寺という存在が地域とともにあるものであり、協力しあって今があるのだと強く感じました。仏像というものが現在にまで残り守られているのには、信仰の対象であったためであり、多くの思いが込められているのだと思います。それを後世に伝えていくためには、ただ文化財としての古さ・貴重さだけでない「信仰の対象」であることも重要であり、その両輪をうまく回していくことが必要であるのだと感じました。
普光寺からは有明海等広い範囲を望むことができました。なぜこの場所で最澄さんがこの場所で仏像を刻んだのか、なぜ円仁さんを招きいれることができたのか。大牟田の高い場所にある普光寺に実際に訪れてみると、様々な人々を思い仏像を造ったり、お寺を興したりして救いたいという思いとともにその先にある中国へ渡り、新たな仏教を学びより多くの人々を救いたいというそわそわした気持ちがあったように感じました。
 写経会や座禅会を周りの人々からの提案により始められ、これからも新たなものにチャレンジしていきたいということを伺いました。様々な人々の話を聞き、それを実行していく。こういったことが人々の心を動かしていき、協力の輪が広がっていくのだと思いました。

(文・奈良大学文学部4回生)
普光寺
〒837-0922福岡県大牟田市今山2538