大宰府政庁初代長官が創建した筑紫野市の古刹「武藏寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

大宰府政庁初代長官が創建した筑紫野市の古刹「武藏寺」を訪ねる

福岡県筑紫野市に位置する「武藏寺(ぶぞうじ)」は、7世紀半ばに大宰府政庁の初代長官である蘇我日向臣身刺によって建立された寺院です。菅原道真が無罪を訴えた天拝山や経塚があり、多くの人々が篤く信仰し、現代にまで積み重なりながら受け継がれている寺院であることを感じることができます。今回案内していただいたのは、井上隆照住職です。

武藏寺の歴史

「武藏寺は大宰府の長官であった蘇我日向臣身刺によって、蘇我氏の氏寺として建立されたとされています。大宰府政庁は、大化5年(649)に蘇我日向臣身刺が初代の長官として大宰師に任じられたことに始まるとされており、武藏寺もその頃の7世紀中頃の創建です。武藏寺という名は、身刺(みさし)から付けられています。このお寺は「今昔物語集」や「梁塵秘抄」にも出てきており、それだけ大きく栄えていたことがうかがえると思います。今わかっているだけで、私は91代目の住職となります。」
「この付近には太宰府の観世音寺をはじめ多くの古代寺院がありましたが、多くは廃寺となっているので戦乱や廃仏毀釈の中よく生き残った寺院であると思います。それにはそれぞれの時代の守ってきた人々のおかげであるのだと強く感じます。それは宿命のようなもので、このお寺を無くしてはいけない、壊れたものも直し私たちの支えとしたいという数多の人々の力が伝わり、この武藏寺が存続され今に継承されてきているのだと感じています。」

武藏寺縁起と伝説

「武藏寺縁起(絵図)として、江戸時代前期から中期ぐらいに定應という僧侶が書き写したとされているものが、県指定の文化財として残されています。縁起の一幅目には武蔵寺の当時の様子を描き、二幅目からは武藏寺の縁起としての物語が表されます。縁起の中では、名が藤原虎麿として伝説が残されています。蘇我氏が滅び藤原の時代になったときに蘇我氏の名が憚られたことにより藤原虎麿として名を変えられ、由来が残ったであろうと思われます。
境内には藤原の名がなくなることにちなみ「藤」を植えたため、1000年を超える樹齢の藤の木が生えています。藤が咲く間はお寺も同時に栄え、民たちもともに安穏に過ごせるようにと願いが込められています。今でも毎年藤祭りが行われますが、これは創建を祝う祭りでもあります。明治時代にはこの藤の木を見に訪れた五卿の1人である東久世通禧が
~ふじなみの はなになれつつみやびとの むかしのいろにそでをそめけり~
と詠っています。」
「縁起の物語では、この地域に火の玉が飛び回るということから始まります。虎麿は、民衆の安寧を守るために弓矢を持ち火の玉を退治しに行き、仕留めました。その夜、夢枕に十二神将の一人、摩虎羅大将が現れてこう言いました。『弓矢で射た火の玉は、薬師如来の宿った霊木の精である。火の玉となったのも薬師如来の縁によるもので民衆を救い導くためなのだ。その霊木で薬師如来・十二神将像を造り、お堂を建てなさい。』
翌朝仕留めたものを確認すると、椿の木に矢が刺さっていました。虎麿は夢枕のお告げ通りに急いで京都から仏師を呼び、霊木から薬師如来・十二神将像を造らせ、堂宇を建てたことが起源とされています。」

「三幅目には、現代と同じく疫病が流行し、虎麿の娘が病に侵されてしまったため、お薬師様の夢のお告げにより二日市温泉を発見し、そのお湯に浸からせるとたちまち病気が治ったことが描かれています。今は二日市温泉と呼ばれているのですが、以前は薬師湯と呼ばれていました。」

本堂のお薬師さまと十二神将像

「お厨子の中に秘仏で、1.8ⅿぐらいの薬師如来像をまつり、その周りに平安時代から鎌倉時代とされる十二神将像がまつられます。本尊の薬師如来像は、虎麿が射った椿の木から彫りだしています。そして大きな木であったため、その周りの12本の枝から十二神将像を彫ったとされています。ご本尊のご開帳は年に3日間あり、藤祭りが行われる4月、二日市温泉が発見されたとされ瓜封じの法要が行われる7月の土用の丑の日、一年間のお経を埋める経筒埋納法要が行われる11月第一日曜日に行われます。」
「本堂は400年前ほどの建物で、平成5年に改修が行われました。祈願寺であったため、元より小さいお堂でした。改修の際に広げられた部分には、多くの人々に般若心経を書いていただいた板を天井にはめています。それによりお堂に入ることでお経に守られ、仏教に守られ、お薬師さんに守られているようで、お堂入っただけで心が清まるとなっています。
元の堂宇の部分は以前のまま残され、そこには詩が書かれています。修理が行われたときに、江戸時代の落書きが見つかり「小工」と記されていました。建物を建てる人として「大工」は知られていますが、大工だけでなく小工もいたようですね。」

「ここは神仏習合の色が濃い寺院で、境内には様々な仏さまが安置されています。特に虎麿は地蔵菩薩の化身とされているため、多くの地蔵菩薩がおまつりされています。」

境内に残る祈りの痕跡「経塚」

「このお寺には経塚が発見されました。出土した経筒には寛治八年(1094)の銘が書かれているものも含まれていました。こういった出土品を見ても武藏寺の歴史の深さを感じますね。経塚は武藏寺の山の頂上は残されており、海抜100ⅿほどあります。山の高い場所から、仏の力が大きく広がるようにとの思いが込められていたのだと思います。経筒の数点には母の供養のためと書かれ、髪の毛が入っているものもありました。経筒には経典を収める意味合いだけでなく、供養の願いを込める意味もあったようです。経塚から出土したものは今は筑紫野市歴史博物館へ寄託されています。」
「近くには菅原道真が冤罪を訴えた天拝山があります。800年ぐらいは天判山という名でしたが、道真がこの山で天を仰いだ山として天拝山なりました。またその際に身を清めるために使った「紫藤の滝」もあります。道真がこの大宰府に流されてからの書物を読ませていただいたのですが、ほとんど悔やみ節でした。その時代に翻弄され京都に帰りたい、私は無実だということを辛抱強く訴え続けた辛かった2年であると思います。そういった2年であったから天拝山があり、武藏寺に訪れた足跡があるのだと思います。」

参加大学生の感想

武藏寺の創建が7世紀の蘇我日向臣身刺まで遡る歴史を持っていることを聞き、驚きました。また平安時代後期の経塚から多くの貴重な品
が出土していることを聞き、この地が多くの人々に長い間脈々と信仰され続けてきた年月を感じることができ考え深かったです。

ご住職に武藏寺を案内していただき、様々なお話をお伺いしている中で、武藏寺の縁起にある火の玉は悪いことであったのが、よいことに変わっていく。自分の守る民を助けようとしなければ、薬師如来との縁はなかった。どんな人に出会うか・どんな場面で会うのか・出会ったときにその人が素晴らしいと感じられるかは縁によるものであり、その縁を結ぶには自分自身が高めていく必要があるとおっしゃっていました。本堂の中の十二神将像を拝見させていただくと、古い十二神将像が修理を加えられながらもこれだけきれいに現代に伝わっていることに驚かされました。武藏寺に行き、お薬師さまや仏教の教えと縁を結びたいという人々が長い間とだえることなくいたからこそ、武藏寺が栄え多くのモノが大切に守られてきたことを感じられるとともに、お寺と参拝に来られる人々を繋ぐ武藏寺のご住職の皆様の人柄によってより多くの人々が縁を結ぶことができていたのだと感じました。
(文・奈良大学文学部4回生)
武藏寺
〒818-0052福岡県筑紫野市武蔵621