若狭に春を告げる、神宮寺の「お水送り」に参列して
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探訪「1200年の魅力交流」

若狭に春を告げる、神宮寺の「お水送り」に参列して

「お水送り」とは

 古代より交通の要衝として発展し、奈良や京都といった中心地域ともゆかりの深い若狭地域。中でも現在の小浜市には貴重な文化財を残す寺院が数多くあり、若狭に花開いた豊かな仏教文化が色濃く伝えられています。

 そんな小浜市にはたくさんの伝統的なお祭りも残されていますが、その中でもよく知られているのが、毎年3月2日に行われる神宮寺の「お水送り」です。「お水送り」は奈良東大寺で3月に行われる「お水取り」との関わりが深い行事で、その由来は奈良時代にまで遡ると伝えられています。
 天平勝宝4年、東大寺の盧遮那仏(大仏)開眼に即し、二月堂で大願を祈り修二会を創始された実忠和尚は、法会に際して神明帳を読み、天地四方の神々に行会の守護と福祐を請われ、全国の神々が次々と影向されますが、若狭の遠敷(小丹生)明神(おにゅうみょうじん)だけが漁に時を忘れ遅参されたと伝えます、その法会に大いに感じられた明神は、二月堂本尊の観音さまにお供えする「御香水」を献上する事を約束し、黒白の鵜を使い若狭から奈良まで水を導かせました。東大寺二月堂にはこの香水が湧く「若狭井」が残され、修二会の中でこの香水を汲み上げる儀式は「お水取り」と呼ばれています。この香水を若狭から奈良へと送る行事こそが、神宮寺に伝わる「お水送り」なのです。
 今回はそんな「お水送り」を含む修二会に参列させていただく貴重な機会をいただき、神宮寺を訪問しました。

神宮寺の歴史と伽藍

神宮寺は寺伝によれば、和銅七年(714)開創、元明帝発願、元正帝勅願、開祖は和朝臣赤麿公(僧名-滑元)、若狭國比古神の神託を承け建立され、当初は神願寺と呼称されていました。
平安末に始まる下剋上の風潮は、諸国に無法の嵐を吹き荒らし、当寺院の山内も荒廃して行きましたが、鎌倉時代の顛倒社寺領興行令と若狭国衙税所の四地領寄進により再興され、本堂の南に祭祀され来た若狭国比古神二座一社の神殿は、上下宮(若狭彦神社.若狭姫神社)の奥之院と位置付けられ、神願寺はその別当寺として、一州の根本寺故に、根本神宮寺と改称されたと云われています。
鎌倉幕府の七大寺七大社の祈願所ともなるが、南北朝から室町と続く戦乱の世に幾多の法難を経て、現代に残る二棟の重要文化財の内、北門は鎌倉時代末期の建築、仁王像の胎内に南北朝時代の至徳二年(1385)の銘があり、本堂(重文)は天文二十二年(1553)越前守護職朝倉義景公の幇助を得て再興されました。

奈良朝以来約1300年以上、失った堂舎は多いものの、悠久の時を経ても、未だ伝えさせようとするエネルギーは強く、北門から本堂への長い参道の両脇に、二十五坊舎跡が水田となり広がり、御神体山を背景とするその景観は、かつての雄大な、古代神仏混淆の祈願道場を彷彿とさせます。

地方を代表する大きなこの本堂が、お水送りを含む、修二会の舞台となります。須弥壇上の内々陣は三部屋に区切られ、中央には御本尊の薬師如来が、向かって左側には観音さま、右側は神様が祀られた神号軸が掛かる勧請座、当に神様と仏様が同居する内陣であり、
古い神仏混淆の祈りの形を残しています。
神宮寺には、明治の神仏分離で無くなった神殿、その跡地に建てられた収蔵庫には、今も鎌倉末の作と考えられている男神像・女神像(若狭国比古・比女)が祭祀されており、こちらも国の重要文化財(非公開)になっています。

法会に参列して

 「お水送り」を含む、神宮寺の修二会は、ほぼ1日を通して行われています。
 お昼前にはまず神宮寺の前を流れる遠敷川の上流にある下根来八幡宮で神事が行われます。
午後に入るとまず、本堂前にて魔除けの弓打ち神事と奉納弓射大会が行われます。地域の弓道家のみなさんが集う場となっているようで、たくさんの方が大会に参加されていました。
 その後、見学はできませんでしたが、15時半ごろから本堂で法華懺法(ほっけせんぽう)という『法華経』の教えに基づき、人々の罪を懺悔することで罪を滅する儀式が行われていました。
 夕方になり境内が暗くなってくると、夜に行われる松明行列に参列するためにたくさんの方々が集まってきました。日曜日だったこともあり、境内は参列者でいっぱいになりました。
 今回は18時から始まる「薬師悔過法」を特別に外陣から聴聞させていただき、松明が振りかざされる達陀(だったん)の様子を間近で見学しました。外陣で座って待っていると、法螺貝の音とともに僧侶と修験者の方々が入堂し、内陣の灯りだけが堂内を照らす厳かな雰囲気の中で法会が始まりました。神々を招いて行われる神仏習合の儀式で、この儀式を通して閼伽井の水が「香水」へと変わるそうです。法要の最後の達陀では八天の神々が登場し、火天が松明を振って魔を払い、水天が香水を散いて浄めが行われました。大きな松明が間近で振られる様子はとても迫力がありました。

 松明は外へと運ばれると、修験者の方々による魔除けの儀式が行われ、本堂前に設けられた大護摩壇に火が灯されます。大きな炎が上がると境内は一気に熱い空気で満ち、魔を除ける炎の力を肌で感じました。
 大護摩が終わると、参列の人々が各々願い事を記した松明を護摩壇の火から灯して、約2km離れたお水送りの舞台、「鵜の瀬」へと運んでいきます。遠敷明神が若狭から奈良へと通じる水路を作った際、黒と白の鵜が飛び立ったことから、若狭側の送り口を「鵜の瀬」と呼ぶそうです。たくさんの参列者の松明が作り上げる光の道は、奈良時代から現代に至るまで1200年以上、この「お水送り」が受け継がれてきた長い道のりが眼に見える形で現れたかのようで感動しました。

 鵜の瀬では参列者の松明が炊き上げられて人々の願いが捧げられるとともに、最後に香水が奈良に送られる送水神事が行われ、神宮寺の修二会は終わります。
 お水送りが終わると若狭地域に春が来ると言われています。それほどまでにお水送りは若狭の人々の生活のサイクルに深く根付いたものなのでしょう。1200年以上続く祈りの歴史に触れさせていただけた、非常に貴重な機会となりました。
(文・京都大学大学院2回生)
若狭神宮寺
〒917-0244福井県小浜市神宮寺30-4