古の毘沙門天が眠る、役行者開山の古刹「本山寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

古の毘沙門天が眠る、役行者開山の古刹「本山寺」を訪ねる

 大阪府高槻市にある天台宗北山霊雲院本山寺は、役小角(えんのおづぬ)によって開かれた、毘沙門天をご本尊とするお寺です。今回は第57世ご住職の百済多聞さんに本山寺をご案内いただくとともに、このお寺に眠る仏様の魅力について教えていただきました。普段入ることや拝むことのできない、特別な場所にもご案内していただきました。

お寺の歴史

 その昔、役行者がこのあたりに五色の彩雲がたなびくのを見て、この地にきて行をして毘沙門天を感じられ、かやの木に毘沙門天像を刻んだことで本山寺は開山されたといわれています。そして、宝亀5年(774)に開成皇子(かいじょうおうじ)が行者の徳を慕い、お堂を創建なされたとされています。その後天正10年(1582)に、山崎の合戦の兵火により焼失しましたが、慶長8年(1603)に豊臣秀頼が諸堂を造営し、宝永元年(1704)には五代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院の援助で大改修が行われ、現在の姿になりました。
 本山寺は大都市大阪の高槻市にあるとは思えない静かな場所で、歴史と自然が織りなす美しい景観が広がります。この古刹は、訪れる人々に心の安らぎと深い歴史の香りを感じさせる場所です。

お寺に安置されている仏様の紹介

 本山寺はポンポン山山塊の標高約640mの山中に位置するお寺です。本堂では様々な仏様を拝むことができます。

ご本尊・毘沙門天王

 本堂の奥にはご本尊である毘沙門天王がおられます。こちらの像は役行者手づから彫られたものと言われており、年3回ほどしか御開帳しない秘仏となっています。ご本尊の両脇には、吉祥天女と善膩師童子が侍する姿で立っておられます。毘沙門天像は天正10年の山崎の合戦の兵火により本堂が焼失した際、当時の住職が「ご本尊まで失うわけにはいかない」との思いで首から上だけをお寺の外に持ち出し、頭部のみ戦火を免れました。その後、持ち出した頭部と、後の時代に掘られた胴体とを組み合わせて今のお姿になられました。
 本像は明治時代までは国宝に指定されていましたが、今は国の重要文化財に登録されています。重厚でありながらも体に沿って流れるようなしっかりとした鎧を纏われており、身に降りかかる厄を寄せ付けない、大変力強いお姿をされていました。

兜跋毘沙門天

 本堂の中央には兜跋毘沙門天がおられます。毘沙門天の中でも古い様式で、中国から伝来した時のそのままのお姿をされています。毘沙門天像は邪鬼を足で踏んだ状態で立っているのが一般的ですが、本像では邪鬼の上に地天がいて、地天が毘沙門天をお支えする形で立たれているのが特徴です。毘沙門天が身に纏われている鎧も唐の時代のものです。前方を見つめ、力強くまっすぐ立つお姿には、見る人を勇気づける不思議な力を感じることができました。
 また、兜跋毘沙門天像はお厨子も特徴的です。お厨子は徳川家の力を借りて作成されたものだとされており、徳川の家紋が入っています。また、三宝は桂昌院がおいでになった時に御前膳具として使っていた一部であり、こちらも同じく桂昌院の家紋が入っていました。

不動尊・大日如来

 本堂左側には撫で仏のお福さん、不動尊、大日如来(金剛界)がおられます。平安中期作の不動尊像は厨子を閉じた状態で保管されていたため、保存状態がよく、当時の彩色も残っています。こちらの不動尊像は高槻市の重要文化財に認定されています。また、不動尊像の前には護摩壇が置かれており、年に2回護摩を焚かれるそうです。
 大日如来像は山ふもとにある川久保の廃寺になったお寺より、村人の願いで本山寺に持ってこられた仏様です。板光背に直接絵が描かれている古いつくりの仏様であるため、本山寺にある仏像の中で一番古い時代の平安初期の仏様ではないかと言われています。しかし、平安時代は、元々お釈迦様や阿弥陀さんだったものを寄せ集めて一体の仏様にすることもよくあったため、本当に平安初期作のものであるかは不明だそうです。平安時代のものとは思えないほど板光背の絵が緻密に描かれていて、見事な職人技に感激しました。また仏様のお姿も厳しさと心の広さを併せ持った荘厳な表情と姿勢をされており、どんな願いも一心に受け止めてくれるような温かみを強く感じました。
 実はこの仏様、一度他のお寺に移されそうになったことがあるようです。そのお寺というのが比叡山延暦寺で、大講堂が火事で焼失した際に、本尊としてこちらの大日如来像をお譲りいただけないかと先代住職に連絡があったそうなのです。その当時の本山寺の信者さんに「それだけはアカン」と念押しされ、お譲りするのをお断りしたため、現在でも本山寺に祀られているそうですよ。

宇賀神王・歓喜天(聖天)

 本堂右側には歓喜天、宇賀神王、刀八毘沙門天がおられます。歓喜天は男女双身のお姿をされており、その姿は究極に完成された大宇宙そのものを表すとされています。どの神仏よりも強力な現世利益があると言われ、絶大な力を持っているためほとんどのお寺で秘仏とされ、そのお姿を直接拝めるお寺はほとんどありません。もしお厨子を開ける場合は、他の仏様のお厨子をすべて閉じ、特別な聖天供を厳修しなければ御開帳できないため、本山寺でもお厨子を開けたことはないそうです。しかし、ご住職さんの話によると、聖天さんのお厨子の扉がなぜか時々開いていることがあるそうです。偶然なのか、聖天さんご自身の力なのか、それとも信者さんの願いがとどいたのか真相は誰も知ることができませんが、この不思議な力を感じさせるエピソードはとても興味深い内容でした。
 興味深い話は他にもあります。先程不動明王像の時に述べた護摩壇をよく見ると、側面に大根の絵が描かれているのです。大根は身体健全、夫婦和合を表わしたものとされており、 この大根は心身を清浄にする聖天さんの「おはたらき」を象徴するものとして、聖天さんのご供養に欠かせないお供物とされています。
 このことから、本山寺にあるこの護摩壇は今では不動明王さんに護摩を焚く目的で利用されていますが、かつては聖天さんに護摩を焚く壇として利用されていたことが分かります。今では聖天さんに護摩を焚くことはないそうですが、聖天護摩では「あの女性と結婚させてほしい」などのようなドロドロしたような内容のお願いを聖天さんに届ける目的でも使用されていたことがあったようです。
 宇賀神王像は木でできたお厨子の中におられます。頭部は老翁で、お身体はとぐろを巻いた蛇のお姿をされています。そのため、お厨子の前に大量の卵の御供えがありました。本山寺の宇賀神王像は頭部が老翁の姿をしていますが、女性のお顔をされているものもあるそうです。宇賀神王は水の神である宇賀弁才天の頭の上におられる神様で、主に日本の中世以降に信仰されていました。本山寺の宇賀神王像は能面を彫っていた職人の手で作られたものと言われています。実際にお顔を見ていると、神聖でありながらも不気味な雰囲気もあり、自分が頭の中で考えていることを見透かされているかのような、形容しがたい不思議な感覚を覚えました。
 本山寺の宇賀神王像に関しても興味深いお話があります。なんと「天皇陛下の水に関連した神様のご研究の資料に、本山寺の宇賀神王像を使用させてくれないか。」と宮内庁から連絡があったそうです。電話がかかってきた当初、ご住職はその電話が本当に宮内庁からの電話なのか信じることが出来なかったと仰っていました。天皇陛下をはじめとする多くの人を魅了する宇賀神王は、これからも多くの人の人生に影響を与えていくと思います。

八代将軍・足利義政の渭原紫石葡萄文日月硯

 本堂での取材を終えて庫裏にご案内いただくと、渭原紫石葡萄文日月硯という550年ほど前の歴史的美術的価値の高い硯を見せていただきました。
 渭原石とは鴨緑江の支流の渭原江の川底より採取した石で、紫とベージュの二層からなる天然石に彫刻技巧が凝らされ、荘厳な雰囲気を醸し出しています。墨を磨る墨堂と墨汁をためておく墨池を太陽と三日月に見 立てた「日月硯」は、渭原紫石硯においてしばしば見られるものだそうです。
 周りには葡萄の蔓がめぐらされ、猿にリス、蜂、蛙、バッタなど、動物の営みが活き活きと描写されています。右手前の猿たちは蜂そのものや蜂の巣を棒で弄る図や葡萄の葉の反りなど、細部に至るまで工夫が行き届き、まるで硯とは思えないほどでした。
 細かく見ていくと、動物や虫の動きにユーモアが溢れており、全体を見ても細部を見ても、見る人を飽きさせない作品なので、学生たちは魅了され、数十分の間目が離せないほど夢中になってしまいました。
 室町時代は日本において朝鮮文化への関心が高まった時期であり、八代将軍・足利義政がさまざまな芸術文化へ 傾注したほか、慈照寺(銀閣寺)の造営など、 東山文化の形成に寄与されました。 本硯は東山文化における朝鮮国との関わりを考える上で資料的価値が高く、作品の品格は伝存する渭原紫石硯においても随一だと思いました。

参加学生の感想

 出身が大阪の自分は、大阪にこんなにも自然豊かで、深い歴史のあるお寺があるということに驚きました。歴史や文化財というものは、今までそこに関わってきた全ての人の想いを汲み取り、未来に紡いでいくことで守られていくものだと思います。変化のスピードの早い大阪という場所で、本山寺が100年後も人の心の支えとして変わらず残り続けていけるように、お寺の魅力を発信し続けていきたいと思いました。この度はお招きしていただき、本当にありがとうございました。

(文・立命館大学理工学部3年)
本山寺
大阪府高槻市原3298