都を見守る大仏・毘盧遮那仏をまつる「方広寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

都を見守る大仏・毘盧遮那仏をまつる方広寺を訪ねる

三十三間堂や国立博物館など様々な寺院や文化施設が並ぶ七条通の東部。世界中からたくさんの人々が訪れる有名なこの地には、かつて日本一の大きさを誇ったという大仏が造立されていました。多くの戦乱や天災に巻き込まれながらも大仏や大仏にゆかりの深い豊臣家に対する人々の気持ちを守り伝える方広寺をご案内いただきました。

豊臣秀吉による大仏造立

「ようこそ方広寺へお越しくださいました。」
学生を出迎えてくださったのは、方広寺のご住職である木ノ下寂優師です。

「まずは、大仏と方広寺の波瀾万丈な歴史を皆さんにご案内したいと思います。」
「方広寺の歴史は今からおよそ400年前、この地に大仏が造立されたこととともに始まります。その中心となった人物こそが皆さんご存じの豊臣秀吉公です。」

「天下を統一した豊臣秀吉公は、そのことを多くの人々に示すために、都に大仏の造立を計画しました。大仏の建立地はいくつか候補があったようですが、最終的に現在の方広寺や豊国神社、京都国立博物館がある一帯に決定したそうです。」

「豊臣秀吉公が大仏を建立することを計画し始めたのが、1586年頃だとされています。その約10年後の1595年、ついに大仏と大仏殿のほとんどの工事が完了したと伝わっています。その際大仏は木造で造立され、大仏をおさめる巨大な大仏殿の建立のために、日本全国から巨木や巨石がこの地に運び込まれ整備されました。現在の鹿児島一帯の大名である島津家は世界遺産で有名な屋久島から巨大な屋久杉を運んだそうです。また、加賀の前田家は建物の土台となる巨石を運び込んだと聞いています。その巨石の運搬に莫大な費用がかかり前田家にとって大きな負担となったことから、その巨石からは涙が落ちるという逸話もあります。現在もこの巨石は残っており『泣き石』として知られています。」
「しかしながら、大仏に天災が襲いかかります。翌年の1596年、京都一帯を慶長伏見地震が襲います。京都一帯に多数の被害を与えたこの地震により、大仏殿は無事でしたが、木造であった大仏は損壊してしまいました。」

「そのため、豊臣秀吉公は空になってしまった大仏殿に霊験あらたかな仏像を安置しようとしました。このとき白羽の矢がたったのが、現在の長野県にある善光寺のご本尊でした。多くの戦乱に巻き込まれ数々の地に移されていた善光寺のご本尊ですが、豊臣秀吉公の願いにより7日間をかけて都へと運ばれました。当時から善光寺のご本尊は霊験あらたかなお像として有名でしたので、大仏殿に安置されるとたくさんの人々が参拝に訪れたそうです。しかしながら、このとき豊臣秀吉公が病に倒れ、そのまま亡くなってしまいます。1598年のことです。豊臣秀吉公の死と善光寺のご本尊の安置のタイミングが近かったため、都では豊臣秀吉公の死が善光寺のご本尊のたたりによるものだと噂が流れたそうです。その影響もあり、善光寺のご本尊は長野の善光寺へ返還されました。」

秀吉の遺志を受け継ぐ豊臣秀頼と德川家康

「善光寺のご本尊が善光寺へ帰られたため、豊臣秀吉公が建立した大仏殿の内部は仏さまがいない空間となっていたそうです。やはりこの状態は良くないということで、豊臣秀吉公の跡を継いだ豊臣秀頼公は大仏を再興しようとしました。その際、木造ではすぐ壊れてしまうということで奈良の大仏のように銅造での再興を計画したそうです。つまり、木造の大仏殿の中で銅の大仏を建立していたということです。かなり危険な作業ということがわかりますよね。皆さんがそのように感じるように、やはり事故が起こってしまいます。1603年大仏造立中の失火が大仏殿に燃え移り、豊臣秀吉公が建立した大仏殿、再興していた大仏も含めて全焼してしまいます。」
「大仏殿までも燃えてしまい、大仏造立はゼロからのスタートとなってしまいました。しかしながら、当時力を蓄えていた德川家康公をはじめ数々の大名・人々の支援もあり、ついに大仏と大仏殿の建立がなされました。1612年頃だとされています。大仏は銅製、大仏殿は世界的にみても最大級の建物であったそうです。その2年後の1614年、今も境内に残りその後の歴史に大きな影響を及ぼす巨大な梵鐘、いわゆる『国家安康の鐘』が完成します。」

「梵鐘の表面には世界の太平を願う文が記載されていました。その文には『国家安康』と『君臣豊楽』という文言が登場します。当時、この2つの文言が問題となりました。德川家康公を象徴する『家康』という文字が分断されているとともに、『君臣豊』の部分が『豊臣が君主』と読み取れるため、德川家康公を呪う文言ではないかということでした。このことがきっかけになったのかはわかりませんが、1614年の11月大阪の陣が発生し、翌年1615年に豊臣家は滅亡します。」

「豊臣家が滅亡した後、豊臣家とゆかりの深かった大仏殿や方広寺に少なからず影響はあったかもしれません。しかしながら、大阪の陣のきっかけになったとも言われる梵鐘も豊臣秀頼公が建立した大仏、大仏殿も破却されることはありませんでした。この豊臣秀頼公が建立した大仏は1662年頃まで残っていたと聞いています。」
「先程ご案内したとおり、豊臣秀頼公が建立した大仏は1662年頃まで残っていたと考えられています。しかしながら、1662年頃に近畿地方一帯を大地震が襲いました。その影響で大仏は損壊ししてしまったそうです。大仏の再興事業は迅速に進み1667年に大仏が木造で再興されました。一説には、この時に損壊した大仏の部材は、『寛永通宝』という貨幣に鋳直されたと伝わっています。大仏の部材を使用した寛永通宝には『文』という文字が刻印され、現在も多く残っているようです。是非みなさんも探してみてくださいね。」

「1667年に木造で再興された大仏は1798年まで現存していました。1798年、大仏殿に雷が落ち、残念ながら大仏殿・大仏ともに全焼してしまったそうです。その後、1801年に大仏の10分の1の大きさの毘盧遮那仏が造立されました。この時に造立されたお像が現在の方広寺のご本尊となっています。さらに、その30年後、一般の方々の間で大仏を復興しようとする運動がなされました。そして、1843年、肩から上の大仏が人々の寄進により造立されました。この肩から上の大仏は近年まで伝えられていましたが、残念ながら1973年火災で焼失してしまいました。」

「このように大仏、そして方広寺は数多くの天災に襲われながらも復興され今日まで守り伝えられてきました。今ご案内した長大な歴史を示す文化財が数多く伝えられていますので、皆さんに実際に見ていただきたいと思います。」

ご住職のその言葉に従い、まずは方広寺の本堂へと歩みを進めます。

かつての大仏の姿を感じさせる文化財の数々

本堂の右手側の部屋に案内された学生達。こちらには、厨子に入った銅製のお像が安置されています。
「こちらのお像は、『眉間籠り仏』といいます。その名前の通り、大仏の眉間の中におさめられていた仏さまになります。先程1612年頃に完成した豊臣秀頼公による大仏は銅で鋳造されたとお話ししましたね。つまり、大仏の内側は大きな空間が広がっているということになります。その大きな空間の眉間、ちょうど大仏の白毫の裏手にこの仏さまはおさめられていたと聞いています。先程お話ししたとおり、この像をおさめていた大仏は1662年頃に自身で倒壊してしまいました。この仏さまは倒壊した大仏から救い出されたそうです。お像の背後の部分をよく見てみるとひしゃげていますね。この部分は大仏が倒壊したことの名残です。」

「このお像、像高がおよそ50 cmほどの大きさです。簡単に移動できると思いますよね。しかし、実際の所、ものすごく重いのです。到底私一人だけでは移動することができません。大の大人が4人がかりで持ち上げて移動するくらいがちょうど良い重さです。この場所に移動するときには、力自慢の男性2人にご協力いただきました。眉間にあった仏さまがかなりの重量とのことなので、秀頼公が造立した大仏の圧倒的な大きさが伝わると思います。」

「こちらの中央におまつりされている仏さまが方広寺のご本尊・毘盧遮那仏になります。先程お話しした歴史の中では、1801年に造立された、往時の10分の1の大きさで造立されたお像になります。10分の1の大きさといえども大きな仏さまですので、かなりの迫力がありますよね。こちらの本堂はかつて妙法院門跡を構成していた日厳院というお寺の客殿を移築した建物と伝わっています。建物自体の建立は1600年代初頭とも言われ、明治の初めに方広寺の本堂として移築されたといいます。その際、この毘盧遮那仏をおまつりするために屋根の高さや内部空間を大きく変更したと聞いています。ですので、毘盧遮那仏の迫力を大いに体感できるかと思います。」
「それでは、ここでご本尊に近づいてみてください。」
ご住職の言葉に従い、学生達はご本尊に近づきます。

「毘盧遮那仏が座っている蓮の台を蓮台と言います。その外側に半球が数珠状に並んでいますね。この部分の大きさを覚えておいてください。それでは次の部屋に進みましょう。」
3番目の部屋に歩みを進めると、大きな金属片や瓦が展示してあります。

「先程の数珠状の部分の大きさ覚えていますか?それでは、あの数珠状の部分と似ている金属片がこの部屋にあるのですが探してみましょう。」
展示している金属片を探す学生達。すると、金属片の中に数十倍の大きさの似た形状の金属片を見つけました。

「そうです。こちらがあの数珠状の部分と同じ箇所ですね。こちらに展示しているものは、先程ご紹介した眉間籠り仏がおさめられていた大仏、つまり秀頼公が造立した大仏や大仏をおさめていた大仏殿を構成していた金属片や瓦になります。このように比べてみると往時の大仏の大きさがわかりますね。」

「こちらに展示してあるものは、大仏殿の四隅の軒先につるされていた『風鐸(ふうたく)』というものです。鐘のような構造をしているので、風が吹くと中にある『舌(ぜつ、風招とも)』とよばれる部品が風鐸にあたり音色を奏でるそうです。この舌も残っていまして、あちらの机の上に展示してあります。音を奏でると言いましたが、この大きさですから果たして風が吹いて音を奏でたのか、疑問に思ってもいます。かつて秀頼公が建てた大仏殿にはこの風鐸が8つ吊されていたそうです。この大きな金属をいくつも吊すことが可能なのですから、当時の技術力はすごいですよね。」

「実はこちらに展示してある金属片は一部にすぎません。その他の遺物は鐘楼の内部に置いてあります。本当は建物の中に移動して展示したいのですが、それぞれがものすごく重く運ぶことができないのです。みなさんが今ご覧いただいている遺物は、なんどか人力で運べたものになります。それでは、ちょうど鐘楼の話も出ましたので、残りの遺物と『国家安康の鐘』の所へ歩みを進めましょう。」

豊臣家に対する崇敬の気持ちがあふれる『国家安康の鐘』と鐘楼

本堂を出て鐘楼の内側へ特別に入れていただきました。
大きな梵鐘の真下に入るとこの鐘の大きさに圧倒されました!

「先程お話ししたとおり、鐘楼の中には運ぶことのできなかった大仏殿や大仏の遺物、そして有名な『国家安康の鐘』があります。見ていただくとおり、この鐘はかなりの大きさになります。方広寺のこの鐘、知恩院の梵鐘、東大寺の梵鐘と合わせて日本三大梵鐘とも言われているそうです。それでは、どのようにしてこの巨大な梵鐘を造ったのでしょうか?実は正確に解明はされてはいないそうですが、ヒントとなる痕跡が2つ梵鐘に残されています。」
「まず1つめです。梵鐘の表面を見てみると縦と横に線が入っていることに気がつきませんか?実はこの線は梵鐘を形作る複数のパーツを接合した部分だと考えられているそうです。一般的に梵鐘には継ぎ目がないイメージがあると思いますので、この線が見られるのは巨大な方広寺の梵鐘だからこそなのかもしれません。」
「続いて2つめです。梵鐘の上の部分に茶色いシミのようなものが見えませんか?一見汚れのように見えますが、実は梵鐘の骨組みなのだそうです。ほとんど知られていないことですが、方広寺の梵鐘の内部には骨組みがあり、その骨組みに従って形作られています。このくらい巨大な梵鐘を造立するために当時の職人さんが工夫を凝らしたことが伝わってきますね。」

梵鐘にまつわる2つの逸話

「実はこの梵鐘には大坂の陣のエピソードだけでなく、たくさんの逸話が残されています。今回そのうちの2つをご紹介したいと思います。1つめは梵鐘を構成する金属成分についてです。この方広寺の梵鐘、いつ誰が言い始めたのかはわからないのですが、金が全体の2%含まれているというお話がありました。なんでも、金が含まれているほうが鐘の音が良くなるのだそう。この梵鐘、全体の重量が82トンありますから、その2%となるとかなりの金が含まれていることになります。ロマンがありますよね。そこで、実際のところどうなのかと、文化庁の方が来られた時に聞いてみました。」

「その結果、残念ながら金はほとんど含まれず、そのお話は嘘っぱちとのことでした。少しがっかりしましたね。そのような逸話が生まれると言うことですから、どのような形であれ、この梵鐘が人々に注目されていたということですね。」

「その結果、残念ながら金はほとんど含まれず、そのお話は嘘っぱちとのことでした。少しがっかりしましたね。そのような逸話が生まれると言うことですから、どのような形であれ、この梵鐘が人々に注目されていたということですね。」
「2つめのお話ですが、それは梵鐘の内側になります。今ではほとんど見えないですが、実は梵鐘の内側にはびっしりと墨書きが記されているそうです。いつの頃の墨書きかはわかりませんが、おそらく参拝に訪れた人々が書いていったものだと思います。いつか赤外線カメラで調査したいと考えているところです。そのようななかで、2つめのお話というのは、内側に横向きの女性の横顔があらわれているというお話があります。それは今も見ることができて、梵鐘の上の部分をみると横顔らしき形がぼんやりと見ることができます。伝えるところによると、豊臣家とゆかりのある鐘ですので、豊臣秀頼公の母君である淀君の横顔とも言われています。そのようなお話が伝わっているということは、人々が豊臣家に対する気持ちをこの鐘に向けていたということなのでしょうね。」

鐘楼の歴史

「梵鐘のお話をしてきましたが、ぜひ梵鐘を吊す鐘楼にも注目して頂きたいです。この鐘楼は明治17年に建立された建物になります。堂々たる立ち姿で内部の天井には極彩色の絵画が飾られていることから、よく梵鐘と同じ時代の建物だと思われているのですが、実は違うのです。そのように思われる理由の一つ、明治に造られたと思えない極彩色の絵画に彩られる天井ですが、こちらは明治の時代のものではありません。なんと、豊臣家が滅亡するより前の時代、伏見城を彩っていた遺材の一部を使っています。伏見城内のいる女官達がお化粧をする場所の天井であったと伝わっています。明治17年に鐘楼を再建する際に、豊臣家にゆかりのある鐘をつるすとのことで、個人の方から寄進をいただいたと伝わっています。また、完成後最初に鐘を打つために現在のお金で数千万円の寄進をいただいたというお話も残っています。伝えるところによると、どちらの方も豊臣家に対して崇敬の気持ちを強くもっていたと聞いています。江戸から明治に時代が移ろうなかでお寺は苦境に立たされましたが、方広寺はそうした方々の助力をいただけたからこそお寺の歴史をつなぐことができました。非常にありがたいことです。」

「このように明治までの時代の移ろいを乗り越えてきた梵鐘や鐘楼ですが、やはり太平洋戦争の時にも存亡の危機に陥っています。太平洋戦争の際、全国のお寺で梵鐘か金属品が供出されたことは皆さんご存じだと思います。方広寺も例外ではなく、当時軍人の方が方広寺を訪れ調査をしたそうです。しかしながら、方広寺の梵鐘や大仏・大仏殿の金属片は供出されなかったといいます。なぜ供出されなかったのでしょうか。」

「それは、豊臣家に対する崇敬の気持ちを傷つけたくなかったからということが理由の一つだそうです。明治に寄進していただいた方々のように、たくさんの方々が豊臣家に対する崇敬の気持ちを持っていたそうです。それは華族の方々だけでなく、一般の方々も含めてでした。さすがの軍人もそうした人々の気持ちを無視することはできなかったようです。そうしたことを踏まえると、方広寺や方広寺に伝わる文化財は豊臣家に対する崇敬の気持ちにより守られてきたとも言えると思います。このようにして伝えられてきた文化を未来へ引き継いでいきたいと考えています。」
「それでは最後に、方広寺と縁の深い豊臣家と比叡山を開いた伝教大師との関係を示すお堂をご案内いたします。」

ご住職のご案内に従い、本堂の隣にある大黒堂へと歩みを進めます。

伝教大師自作の大黒天をおまつりする大黒堂

「こちらの大黒堂のご本尊は、伝教大師が彫ったと伝わる大黒天像になります。豊臣秀吉の念持仏であった仏さまであると伝わっています。念持仏ということなので、非常に小さな仏さまです。」

「こちらのお像、明治の時代までは秘仏として厨子の扉は閉められていたようです。しかし、明治に時代が変わり、また、鐘楼が建立されるなどして方広寺の伽藍が整備されたこともあり、明治の頃からは厨子の扉は開けています。明治に扉を開けた時には、あふれんばかりの人々がお参りに訪れたと伝わっています。今回、特別に通常よりも近づいてお参りしていただけたらと思います。」

ご住職のご案内に感謝しながら、大黒天像のもとへ歩みを進めます。
「中央、一段高い場所にあるお厨子の中におまつりしているお像が伝教大師の造立と伝えられている大黒天像です。やはり念持仏ということで非常に小さなお像です。よく見てみると、甲冑を身につける勇ましい姿をしていますね。このお姿もこのお像の特徴です。」

「小さなお像の前におまつりされてる大きな大黒天像がお前立ちのお像になります。秘仏であったころの名残ですね。そして向かって左側には弁財天立像、右手側には毘沙門天立像がおまつりされています。大黒天を中心に弁財天と毘沙門天が脇をかためるこの独特な配置から、『三天合形の大黒天』とも呼ばれます。ちょうど皆さんの上にそのように記された桐の形をした扁額が掲げられています。」

「そして、さらに向かって右側には、智証大師円珍によって造立したと伝わる不動明王坐像、左手の厨子の中には如意輪観音像がおまつりされています。どちらも古い時代のお像と聞いています。」
「仏さまがおまつりされている部屋の天井には、明治・大正時代の画家・吉川霊華による神龍図が掲げられていました。しかしながら、雨漏りにより痛んでしまうことを防ぐために天井から取り外し軸装しました。特別公開の時に、毘盧遮那仏の脇で公開をしています。迫力のある絵ですので、特別公開の折には是非来てくださいね。」

時間が過ぎるのを忘れるほど、学生達とご住職との楽しい交流は続きました。ご住職のお話の中には、豊臣家に対する人々の気持ちが大切にされてきたこと、そしてその気持ちがあるからこそ、歴史の荒波を乗り越え、各時代を示す文化財が守り伝えられてきたことが込められていました。これから先の未来へも方広寺に伝わる文化を伝えたいと願う学生達でした。

参加大学生の感想

かつて京都にあった大仏の巨大さに驚くとともに、人々の豊臣家に対するあつい崇拝の気持ちを強く感じました。歴史の授業でかつて京都に大仏が存在していたことは知っていましたが、鐘楼内や本堂の内部に展示してあった大仏殿の遺物を実際に見てみると、奈良の大仏を超えるとされる京都の大仏、そして大仏殿の巨大さが感じられました。また、大仏殿を建立されるために周囲が整備され、かつて大仏の参道であった道が今もその名残として実際の道路として使われていることに驚きました。明治17年、豊臣家にゆかりのある人々の手により、豊臣家とゆかりのある伏見城の天井板を使用して鐘楼が建てられ、鐘がおさめられたとご住職から伺いました。教科書に写真が掲載され誰しもが見覚えのある方広寺の梵鐘が現在まで伝わるなかで激動の歴史をたどってきたことに驚くと共に、豊臣家に対する気持ちが数百年の時を超えて受けつがれてきたことに感動しました。

(文・立命館大学生博士1年)
方広寺
京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町527-2