春の桜と七不思議で名高い「珊瑚寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

春の桜と七不思議で名高い「珊瑚寺」を訪ねる

2022年7月3日 訪問
 群馬県の名峰・赤城山の南西麓に、石井山三光院珊瑚寺があります。東国花の百ヶ寺の1つに数えられ、春には100本余りのソメイヨシノが咲き誇り、境内を淡紅色に染め上げます。極彩色の彫刻が美しい地蔵堂、上州七福神の恵比寿天もお祀りしており、観光の方も足を運びます。今回は内田堯重ご住職に寺の歴史を伺い、珊瑚寺の七不思議を巡りながら境内をご案内していただきました。
「珊瑚寺は1200年以上前の大同2年(807年)に、日光山を開いた勝道上人が開創した寺です。当時は三鈷寺と書きました。密教法具の三鈷杵(さんこしょ)が由来でしょうから、伝教大師様が唐から密教を持ち帰られる前の雑密や山岳信仰の影響が強い寺だったと思われます。近くの赤城山も修験道場でしたから、この寺を拠点にしたかも知れません」
その後、約390年間の記録はありません。恐らく荒れ果てた無住寺になっていたと思われます。鎌倉時代の建久6年(1195年)頃、勝道上人の旧跡を慕って尼僧がやってきます。
「NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場した鎌倉武士・梶原景時の女と記録にあるので、妻または娘がこの地に地蔵菩薩を祀る御堂を建て、源頼朝や景時の菩提を弔ったそうです。しばらく尼僧が住職を務めたため、尼寺という印象が付いたようです。室町時代になると、八崎城主の長尾景仲が、曹洞宗の月江上人を住職に迎えて諸堂を整備します。しばらく曹洞宗の禅寺になり、およそ30年間(3代)に渡って管理します。そして、文明3年(1471)頃に天台宗に改宗し、寺号も珊瑚寺に改めました」
江戸時代の明暦年間(1655年〜1658年)に青柳大師・龍蔵寺の末寺になり、文化6年(1809)には上野・寛永寺の直末寺になっています。この頃は前橋藩主からも篤く信仰され、七堂伽藍を有したそうです。
境内には曹洞宗時代の石碑が現存します。改宗すると、前宗派の遺構は破棄されることもあるようですが、大切に守ってきたところに歴代住職の寛容な人柄が伝わってきます。近年、曹洞宗の学僧がこの遺構を知り、強い興味を示したそうです。
ところで、北関東の群馬県はいわゆる“海なし県”です。なぜ、海の宝物である珊瑚の文字が当てられたのでしょうか。
「諸説ありますが、実は珊瑚寺はこの寺のほかに、三重県多気町、大阪府大阪市天王寺区、和歌山県和歌山市鷹匠町と合計4ヶ寺あります。和歌山は和歌山城主の桑山重晴が崇敬し〝珊瑚の数珠〟を奉納したと聞きましたが、私は三重、大阪、和歌山の珊瑚寺が観音様を御本尊にお祀りしていることに関係があると考えています。観音経に7つの宝として琥珀や真珠とともに珊瑚が挙げられているからです。

御本尊「阿弥陀如来」

先ほどもお話ししましたが、私どもの寺は鎌倉時代から御本尊は地蔵菩薩でした。曹洞宗時代に釈迦如来をお祀りしたかもしれませんが、観音経との関係は考えにくいですよね。また、現在の御本尊・阿弥陀如来は昭和12年(1937年)の本堂焼失後、昭和26年(1951年)に再建した時からお祀りしています。珍しい半跏坐のお姿なのですがどのようなご縁でいらしたのかは定かではなく、こちらも含めてもっと調べたいと思っています」

境内をご案内いただきました

地蔵堂は宝暦4年(1754)に前橋藩主が再建したもので、前年に日光東照宮の大改修で集められた最先端の技術を持つ宮大工が腕を振るったようです。棟札によると大工棟梁は下野国芳賀郡興能村の黒崎勝右衛門とあり、富岡市の妙義神社、太田市の尾島賀茂神社を手がけた千本(せんぼ)彫工の関与も考えられます。

「平成31年(2019年)に屋根を改修する際に、彫刻も見やすく彩色しました。注目は南側の角の左右にある霊獣・白澤(はくたく)です。中国の語り伝えでは、人間の言葉を理解し万物に精通するそうで、江戸時代は厄除けとして道中のお守りにも用いられています。珊瑚寺は群馬県内で唯一白澤の彫刻を見ることができるお寺です」

白澤のほか、龍や麒麟、獅子、象、獏、鷹、犀、十二支など、多彩な動物が見られます。壁には中国の教えを描いた彫刻もあります。その1つ「布袋尊の袋を引く唐子」は、布袋尊と4人の子供が戯れる図柄ですが、布袋尊の足首の向きが反対に見え、時の前橋藩主が激怒したという伝説も残ります。
煌びやかな外観とは対照的に堂内はシンプルです。内陣には子育て地蔵菩薩、不動明王、毘沙門天が祀られています。

境内に点在する「珊瑚寺の七不思議」

地蔵堂前の石穴に薬師如来をお祀りした「穴薬師」がありました。
「お薬師様は弘法大師(空海)の作といわれ、石穴の外にお祀りしても、夜になると元の場所に戻ってしまうことから、穴薬師と呼ばれています。地元の郷土史研究者によると、弘法大師がこの地での布教した際に苦戦したことから、穴薬師の話ができたそうです。近くの鍋割山にも弘法大師の伝説があります。弘法大師は100の谷がある場所に、修行の霊場を開こうと赤城山を探索するのですが、残り1つが見つからずに断念します。その時に、投げ捨てた鍋が割れて、山頂に覆いかぶさったのが鍋割山だそうです」
穴薬師から少し先にある「不動の滝」は、不動明王のお告げをの夢を見た三代吉が作り始めたといいますが、難行し思案に暮れていると、不動明王が現れて瞬く間に完成させたそうです。

地蔵堂の東側には「鏡池」と「赤面観音」がありました。
「鏡池は開創時からあるといわれ、日照りの時も大水の時も水量は一定です。中央に鎮座する如意輪観音は赤面観音と呼ばれ、願いを込めて水をかけます。観音様の顔が赤く染まると願いは叶うそうです。右手で頬杖をつく姿から、昔は歯痛のご利益があるとも言われました」
 
地蔵堂の後方、稲荷堂の参道には「涙の梅」があります。梶原景時の妻あるいは娘が、旅の道中で杖にした梅の枝を差したところ、根付いたと伝わります。ある月夜の晩に、住職が根元にある坐禅石の上で座禅を組んでいると、その姿に感銘を受けたのか、梅の木から涙のような露がしたたり落ちてきたそうです。念仏を唱えながら、木の周りを3周すると同じ現象が起きとるとも言われています。
残り2つは「臥牛石(がぎゅうせき)」と「乳房の銀杏」です。臥牛石は参道入口にあり、人々が願いをかけると牛に姿を替えて、信州善光寺へ代参したそうです。
「乳房の銀杏は枝から垂れ下がった気根が乳房に見えることから命名されたようです。この木の枝で箸を作り、ご飯を食べるとお母さんの乳がよく出ると言われています。我が家もお世話になりました」

ご住職のお話のおかげで、見どころの多い境内がより魅力的に感じられました。

参加大学生の感想

海なし県の群馬になぜ「珊瑚」と名のつくお寺があるのだろうと驚きましたが、仏具の「三鈷」が転じて「珊瑚」となったという説もあるそうで、名前一つにしてもエピソードがあって面白いです。
珊瑚寺のご住職は、もともと学校の先生をされていた方だそうで、後に大学院に進学し、群馬県の天台宗寺院の歴史地理について研究をされたそうです。伝教大師、慈覚大師そして勝道上人を開山とする伝承を持つ寺院の分布傾向を分析されたとのことで、非常に興味深い研究だと感じました。勝道上人が影響を及ぼした地域の歴史を学び伝えていくことも、お寺が果たしてきた重要な役割なのだなと改めて感じました。
そんなご住職に珊瑚寺の歴史についても詳しく教えていただき、禅宗寺院だったころの歴史やその時代の石碑なども見せていただきました。珊瑚寺にゆかりがあるとされる源頼朝や鎌倉幕府初期の有力御家人、梶原景時ゆかりの石塔も残されています。近年修復された地蔵堂には彩り豊かな彫刻が施され、江戸時代の姿を今に伝えてくれています。珊瑚寺の七不思議は、探しながら境内を回ると非常に楽しいと思います。次は春に訪れて、境内の満開の桜を見に行ってみたいと思います。
珊瑚寺
〒371-0105 群馬県前橋市富士見町石井1227