「そばの町・坂本」の由来とは

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「そばの町・坂本」の由来とは

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インタビューご協力:株式会社山本そば製粉 代表取締役専務 山本健二さん

坂本とそばとのつながり①:千日の修行にも耐えうる身体づくり

滋賀県大津市坂本は比叡山の門前町(もんぜんまち)で、その昔延暦寺のお坊さんが修行での断食明けにまかないとして蕎麦をふるまったことから始まったと聞いています。延暦寺では千日回峰行の満行後、八千枚、十万枚護摩供(ごまく)の前行として、護摩供における仏さまへの供物である五穀(米・大麦・小麦・大豆・小豆)と塩を断つそうです。そばは五穀に入らないため、護摩供ではそばを食することで塩抜きができ、身体がやけどしてしまうほどの熱を防げるようで、つまり当時そばは護摩供に耐えうる食品として重宝されていました。

坂本とそばとのつながり②:収穫の救世主そば

蕎麦は米に代わる救荒作物として人々の生活を支えたと聞いています。というのは、米は生産に半年かかってしまいますが、蕎麦は3ヶ月でできることから、米がとれない時に早く収穫できる効率の良い代替物として重宝されていたようです。とはいえ、ちゃんと実をとろうとすると寒暖差が必要だったりもしますが、およそ90日で実になります。
元々は九州での生産が盛んでしたが、近年の調達源は北海道になっているようです。のちに政府からの政策が打たれ、麦や米に代わり次に売れるものとして北海道の蕎麦が注目されてきたのは約40年くらい前だったと思います。それまではまとまった地での栽培より、個人が各場所で育てるのにとどまっていました。
なお武田信玄が修行のお供として持ち歩いていたのが蕎麦の実であったと言われています。武田信玄が上杉謙信と戦った、川中島(かわなかじま)の戦いの絵に描かれている背景の白い花は、実は蕎麦畑だったようですよ。近くにあるいぶきも蕎麦の発祥の地でした。元々米がうまく獲れなかったため、悪天候になれば蕎麦に代えていました。ただし初めに渡したのは誰なのかは定かではありません。伝教大師(でんぎょうだいし)なのか、その弟子なのかはどうもわかりません・・・(笑)
=編集後記=
築210年にもなる合掌造りの建物内で日々仕事をされている山本さん。「約40年前にこの家を譲り受けました。そのとき、こね鉢や麺棒も残っていて蕎麦づくりの形跡がありました。『古いものは大事にせよ』とよく言われますが、やはり『良いもの(おいしいもの)は残る』ということですね。」と言って微笑まれる姿が印象的でした。
=追記=

■『そばくい木像』のお話

そばと比叡山のつながりとして有名な逸話に「そばくい木像」というお話しがあります。
浄土真宗の開祖、親鸞聖人(しんらんしょうにん)がまだ29歳で範宴(はんねん)と呼ばれていた頃、仏心を得ようと毎夜山を下って京の都、烏丸六角にある六角堂へお参りし、明け方になっては戻ってくるということを100日間続けていたそうです。その彼の姿を見て他の弟子僧たちは「京の都のどこかに待女がいるのでは…」と噂になりました。ある夜、師がその真相を確かめるべく、皆を集め一人一人の名を呼びました。「範宴(はんねん)」を呼んだら「はい」と声が聞こえ、和尚はその声に一安心し、その後皆にそばがふるまわれました。しかし翌朝範宴の朝帰りが見つかり、それでは昨夜返事をしたのは誰だ、ということになりました。
ところが、そこで見つかったのは範宴が彫った彼そっくりの木像で、口には昨夜ふるまったそばが付いていました。この木像は「そばくい木像」と言われ、今も比叡山の東塔(とうどう)にある大乗院に現存しています。(参考:硲慈弘『伝説の比叡山』近江屋書店/1928年)

 

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