九州最古の木造建築である大堂(阿弥陀堂)、「富貴寺」を訪ねる
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探訪「1200年の魅力交流」

九州最古の木造建築である大堂(阿弥陀堂)、「富貴寺」を訪ねる

九州地方の観光ガイドや教科書でも紹介されることの多い大分県豊後高田市にある「蓮華山富貴寺」。国宝である大堂は九州最古の木造建築として国宝に指定されているほか、内陣に祀られている阿弥陀如来像も重要文化財になっています。
九州地方では数少ない阿弥陀堂として多くの観光客が集まる富貴寺ですが、六郷満山の寺院の多くが、摩崖仏や「修正鬼会」などの「動」のイメージがあるのに対し、鄙びた山中の「静」なる佇まいが、約900年前の建立から何ら変わることなく、今に伝わっているのは奇跡ともいえます。

六郷満山でも異彩を放つ富貴寺の縁起は、この地から20キロほど離れた宇佐神宮にあるといいます。河野英信ご住職に国宝の大堂にご案内いただき、お話を伺いました。

「国宝の大堂はよく観光案内でも紹介されるので、参拝された方から『本堂ですよね?』と聞かれることがよくあります。実際に本堂はあるのですが、現在は山の下に位置する場所にあって、改修工事をしている真っ最中です。本堂もそうですが、周辺の民家がある地域に、かつては僧侶の屋敷がありました。当時の記録では9棟の屋敷があったそうで、総称して『富貴寺』と呼ばれていました。ただ、昔は植物の『蕗』の字があてられていたそうです。
富貴寺は創建当初、僧侶の生活拠点だったわけですが、元をたどると、富貴寺から20キロほど離れた場所にある宇佐神宮に行きつきます。全国にある八幡様の総本社発祥の地が宇佐八幡様で、かつては国家の一大事があると、『宇佐使い』が来て、八幡様のお告げを朝廷にお伝えして、国家の進路を決めていました。
宇佐神宮は、仏教をいち早く取り入れることで神仏習合発祥の地といわれていますが、その境内には弥勒寺というお寺がありました。つまり国東半島一帯は、宇佐神宮=弥勒寺のお坊さんたちの修行の山でもあり、寺の土地・寺領でもあったという訳です。

古文書によれば、国東半島の平野部をお宮さんの敷地とし、弥勒寺はより山奥を寺領として活動していました。当時の僧侶は山の開拓者の役割を兼ねていたようで、『~の岩屋』というような呼称が一般的でした。つまり谷奥にある岩屋を基点として、少し山を下った平地にお寺やお宮があり、麓には集落がある。そうした国東半島に点在する岩屋を中心として開拓されたコミュニティが六郷満山を形成していたのです。
ただ、この大堂は僧侶の屋敷ではありませんでした。この建築の造りは、阿弥陀様を本尊として修行する常行三昧堂の流れをくんでいます。平安時代の終わりに浄土思想、末法思想が伝わってくると、日本で阿弥陀仏信仰が拡がっていきます。恵心僧都 源信の『往生要集』などにより、その教えは九州にも伝わってきた。
そうした中で、末法思想の時代は阿弥陀仏にすがるしかないと、有力者たちはこぞって阿弥陀堂を建てました。ところが阿弥陀堂を建てるといっても、その手本となるお堂がない。そこで天台宗の僧侶が修行する場所である常行三昧堂を真似て阿弥陀堂が数多く造られたわけです。

富貴寺は仁聞菩薩によって、718年に開基されていますが、このお堂が正確にはいつ建てられたのかは、よくわかっていません。ただ、約800年前に宇佐八幡宮の大宮司だった宇佐公通が残した記録の中に、『蕗の阿弥陀寺は、先祖累代の祈願をしてきた寺である、この度糸永領という荘園のうち一町歩反を新たに分け与える』といった内容です。つまり、宇佐神宮の先祖代々の供養を担っていたのです。このことからも約900年前に、大宮司が、極楽往生を願うために造ったと考えるのが順当でしょう」
創建時から宇佐神宮の庇護を受けていた富貴寺にとって悩ましかったのが、豊後や筑後を支配した大友氏による押領でした。自給自足に近い生活を送っていた僧侶たちは田畑を取り上げられたり収奪されることで、六郷満山の寺院は16世紀以降、急速に衰退していきました。さらに追い打ちをかけたのが、神仏分離による廃仏毀釈だったといいます。

「文化財の保護というのは、実に難しいと実感しています。明治40年にこの大堂が特別保護建造物に指定されたときですら、村の集会所に使われていたりとか、堂内で子供が遊んでいたり、浮浪者が寝泊まりしていたという状況だったようです。文化財指定を受けてからは建物全てをいったん解体して、建物の3分の1にあたる箇所を修復しています。
さらに戦時中の昭和20年(1945年)4月に今度は、米軍機による空襲を受けています。その時には500キロ爆弾が16発着弾し、最も近いものでは、お堂から10メートルほどの距離の場所で爆発し、その爆風で屋根、扉が壊れたものの、時代が時代でしたからすぐに修理ができなかったそうです。富貴寺も空き寺になりました。
その後、先代の院主がこちらのお寺に来たのですが、経済的な問題もあり大変苦労されたそうです。その矢先に、文化財に造詣の深い方から、大堂を買いたいという申し出があったこともあったようです。そこで、その時の知事だった細田徳寿さんが、官選で選ばれたこともあり、国に掛け合って、修復のための補助金を早く出してほしいと依頼したことで事なきを得たそうです。

この1948年~50年(昭和23年~25年)が最新の大修理となり、大堂は今に至ります。また1965年(昭和40年)には行基瓦葺の改修も行っています。屋根に使われている行基互は奈良の元興寺の極楽堂と、兵庫県有馬の浄土寺、その2カ所しか今は使われていません。行基瓦です。瓦が古い形式の瓦、行基瓦だったのでそれを再現しています。本瓦の方が比較的新しい建築物に用いられていることからも、この大堂の古さがわかると思います。
ただ、こうした経緯から参拝者の方の中には、大堂が外見的にはあまり古く感じない方もいるかもしれません。一方で、内部に参拝するとから木の色が経年劣化して古く見える。知らない人が壁画を見るとカビが生えていると勘違いする人もいるかもしれません。こちらのお堂は、900年近く経っております。九州から岡山県あたりでは一番古いです。日本で17番目になるでしょうか。建物全体が国宝になっております。板壁の絵も薄くはなっていますが、900年前に描かれたものがそのまま残っているということで、絵画という部門で重要文化財という指定を受けています。


国宝の大堂の内陣に祀られているのが、高さ約85センチの榧材の寄せ木造による阿弥陀如来像です。榧は碁盤や将棋盤に使われるもので、普段脇待はいないのですが、本堂の改修をしている関係で、本堂の阿弥陀三尊像の脇待をしている勢至菩薩像と観世音菩薩像が大堂に来ています。明治から大正にかけての大改修の前は脇侍2体も大堂に安置されていました」
古刹ならではの悩みとしては文化財保護の問題が挙げられます。富貴寺では、壁面にびっしりと描かれていた極楽浄土の世界は、今ではほとんど風化して肉眼で見ることは難しくなっています。現時点で大堂壁画は建物全体が国宝になっているほか、壁の絵画は重要文化財に指定されるなど、その美術的な重要性は非常に高く評価されているだけに、慎重かつ迅速な修復が望まれています。一方で、文化財の公開の是非を巡っても様々な意見が百家争鳴の様相だとか。この問題について、当事者である河野住職も「ひとくくりで決めつけるのは難しい」と説明します。


「壁画ですが、トータルでは500ほど描かれているという話です。壁画の内容をかいつまんで説明しますと、内陣の後壁には浄土変相図が、四方の壁には五十仏、4本の支点柱には胎蔵界曼荼羅の中心部が描かれているそうです。
例えば、支点柱は外側には仏様が描かれていますが、ほとんど今は肉眼で見ることができません。そこで、懐中電灯で光を当てますと、華の模様が浮かび上がってきます。これは柱に模様を彫ったわけではなく、絵の成分でこのように光の加減で見えるようです。調査によれば、4本の柱に74体の仏様が描かれているそうです。

後ろ壁の浄土変相図は、いわゆる極楽浄土が書き込まれています。壁の上部と下部にそれぞれ建物が書かれていて、回廊でつながっている構図になっています。さらに中央に須弥壇があり、阿弥陀三尊が鎮座してます。周囲には様々な菩薩が取り囲んでいます。98年には、実物大の再現図が作成され、大分県の歴史博物館で鑑賞することが可能です。
壁の四方には、四方神仏と東に薬師如来、南は釈迦如来、西は阿弥陀如来、北は不鮮明ですが、奈良の法相宗の影響で弥勒仏が描かれているとみられています。ご覧のように、堂内の絵画はかなり傷んでいるというのが実際のところです。

本来なら木材の上に絵を描いていますので、剥落防止のために合成樹脂の塗料でコーティングするのが一般的です。ところが、堂内の湿度によって木は膨張しますので、膨張できない合成樹脂のコーティング剤を使用すると、絵の具が剥がれてしまう恐れがあるので、文化財の現在の状態にあった剥落防止剤を用意する必要がありますが、いまだ実現には至っていません。
中には文化財保護の観点から、公開せずに収蔵庫などにしまって、複製をかわりに展示すればいいのではという声もあります。
文化財の保存を優先すべきか、信仰を優先すべきかと考えますと、複製を展示するのは、信仰とかみ合わない部分がでてくるなあと個人的には思っています。公開と保存については、文化財には必ずついて回る問題で、本物を公開しなくなったとたんに、誰もこなくなってしまっては、それこそ寺の存在理由が問われかねません。頑なに信仰の立場で、何百年も絶対に公開しませんという秘仏という存在は意味あることだと思いますが、大堂は秘仏とは違いますから。できれば修復を進めながら公開を継続出来たらと考えています。

今後は、大堂に国の助成で消火栓設備の計画を進めています。これはセンサーが反応すると霧が出る仕組みです。あくまで中ではなく外からの山の火事の対策ですが、堂内でも火の気を使わなくなるかもしれません。私自身はロウソク・線香はいいでしょうと言っていますし、本堂の中では護摩を焚いていますけれど今後の成り行きしだいです。こうした信仰と文化財保護の兼ね合いは、今後も寺の運営を考える上では、避けては通れませんね」
2014年には、歌手の福山雅治が出演したCMのロケ地としても使用され話題を呼んだ富貴寺。六郷満山有数の古刹という伝統を受け継ぎながらも様々なチャレンジを続ける富貴寺の試みはこれからも続くことになりそうだ。


参加大学生の感想

富貴寺は六郷満山の中では本山末寺に属する寺院である。富貴寺という名前は植物の蕗という地名に由来しているそうで、もともとは六つの坊で構成される寺院であったが、現在はそのうちの一つである院主坊(現在の富貴寺本堂)のみが残っていて、富貴寺の名を現在に伝えている。

富貴寺には国宝の大堂というお堂があることで非常に有名で、平安時代の浄土教に関係する建築として高校の歴史の教科書にも載っているほどである。瓦は古式の行基葺で、ここからも古い建築であることが窺える。この大堂は常行三昧堂の形式をとっており、浄土教の信仰の在り方が天台宗にルーツを持つことを示すものと考えることもできるだろう。記録によれば少なくとも900年ほど前にはこのお堂が建っていいたそうで、棟札からは南北朝時代に修理されたことが分かる。
宇佐神宮の衰退ともにこの地にあった坊も衰退していき、村の集会所や浮浪者の宿泊場として活用されていたそうで、地域の人々に活用されてきた寺の歴史がうかがえる。明治期に文化財指定を受けた際に修理がなされたものの、太平洋戦争の時には空襲の被害に遭い、屋根に穴が開いてしまったのだが、無住の寺院となってしまっていたために修理もできなかったそうだ。戦争による文化財への被害を考えるうえでも興味深い事例であると思う。

戦後に先代住職(現住職の父)が入ったのちには、実業家がこの大堂を買いに来たこともあったそうだが、当時の大分県知事の反対で回避され、その際に修復が行われたそうだ。お寺の関係者だけではなく、涙ぐましい努力でこのお堂が守られてきたことが分かる。
堂内にはこれも国重文の阿弥陀如来像が祀られており、大堂と同じ榧(かや)の木材で造られており、大堂造営時からの尊像であることが分かる。お堂と仏像を同じ木材のセットで造っているのはとても興味深い。
また、堂内の壁や柱、梁に残されている絵画も、壁画として重要文化財となっていて、密教曼荼羅や極楽浄土に関する絵が残されている。絵画からは当時の芸術だけでなく、仏教思想やそのルーツを推測することもできるということで、貴重な遺構である。
国宝の大堂の他に、国東半島に特徴的な石造物もたくさん残されていることも魅力だろう。鎌倉時代から室町時代の笠塔婆や石殿なども多く残されている。

棟札に南北朝時代に修理を行ったことが記録されている学頭僧祐禅の七回忌に造立された板碑も残されており、建物の歴史と石造文化財の歴史がリンクしているのも面白い。
富貴寺にはお堂、仏像、絵画と平安時代の姿がセットで残されているだけではなく、六所権現や修行の場である岩屋の遺構や石像文化財といった六郷満山文化を体験できるものがたくさん残っている。国東半島に根付く文化は、近畿の国家や大寺院に主導されてきた文化とはまた違って、自然や地域の人々とのかかわりが深いところに魅力があると思う。富貴寺はそんな国東文化を満喫できるスポットというべきであろう。
富貴寺
〒879-0841 大分県豊後高田市田染蕗2395

六郷満山お寺巡りの様子(記事)