天台宗五ケ室門跡「青蓮院門跡」を訪ねる
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いろり端

探訪「1200年の魅力交流」

天台宗五ケ室門跡「青蓮院門跡」を訪ねる

 青蓮院門跡、その由来は、伝教大師最澄が比叡山に開いた住坊「青蓮坊」が始まりとされています。その後、皇室ゆかりの寺院として、現在も多くの人を惹きつけています。

 しかし、その知名度に対して、初めてお参りすると、意外とこじんまりとした印象を受けるかもしれません。かつて、儒学者の貝原益軒(かいばら えきけん)も「御殿」と呼んでいたように、明治になるまで皇室の子弟にあたる親王が門主を務めていただけに、寺院としてよりも、生活の場所としての隅々まで行き届いた美学を感じることができます。その特徴を一言で言い表すならば、「寺院と御所」。
 また、古き良き遺構を大切に保存しつつも、常に新しい挑戦を怠らない。そんな寺院であると伺って実感しました。

 まず、門をくぐって目に飛び込んでくるのは、京都市の天然記念物にも指定されている樹齢800年を超えるといわれる大楠。その手植えは浄土真宗の宗祖である親鸞聖人がしたとされています。
 青蓮院は天台宗の寺院にありながら、浄土真宗の開祖である親鸞聖人が9歳で得度した場所であることから、大変ありがたい場所として、浄土真宗の門徒の信仰も集めています。現在も得度した際の剃髪が「植髪堂」として境外仏堂として建立されているほか、境内にある親鸞聖人の童形像に参拝する人も少なくありません。

 そして凛とした佇まいで我々を出迎えてくれたのは、大玄関と宸殿。大玄関の内部には孝明天皇ご使用の輿が陳列され、その格式の高さから歴史の重みを感じさせます。入口から渡り廊下を通って華頂殿へ。ここで目を見張るのは、モダンな蓮の襖絵が実に外のお庭とマッチします。作者は京都出身の絵師・木村英輝氏。額絵には「三十六歌仙」が飾られ、まさに平安と現代が見事に融合した空間となっています。
 華頂殿から広がる絶景は、相阿弥が作った庭園です。回遊式になっており、庭の中心には龍心池が配され、池の中央には龍の背を思わせる大きな石も置かれています。しばし、時間を忘れて長居したくなる空間で普段なら観光客でにぎわうこの場所も、案内されたときは、貸し切り状態。かつて、ここで過ごされたであろう古の人たちに思いを馳せます。

 さらに廊下を奥に進むとあるのが、小御所です。門主が日常的な対面の場所として使用した荘厳な雰囲気を今も保ち続けています。中でも金箔が今もきれいに残っている松の襖絵はもとより、宸殿の濱松図襖は国の重要文化財にも選ばれるほどの傑作。徳川秀忠公の娘が後水尾天皇に入内した時に持参したもので、後に青蓮院の宸殿に飾られるようになったそうです。

 その後、案内されたのが令和3年になって復興されたという「聖天堂」。解説には「明治政府の廃仏毀釈により売却された聖天堂をこのたび復興した」とあります。階段を上がると、当時の歓喜天とともに観音像がお祀りされています。

 日本三大不動のひとつである国宝「青不動」の正式名称は「絹本着色 不動明王二童子像」です。平安時代中期の作と言われ、本堂には複製画がお祀りされており、その姿は今のところ、リアルな複製画で拝むしかありません。とはいえ、その圧倒的な迫力は、1000年の時を経ても今も我々の心に迫るものがあります。

執事長の東伏見光晋さんから学生にお言葉を頂きました。

 最澄さんは死に臨んで「我が志を述べよ」という言葉を残されました。また、そのお言葉を私たちは自分自身に課しています。ですから、このたびはこの様に当院をご紹介いただきましたが、もちろん寺院の紹介も必要かつ大事ではありますが、私たちが先ず述べるべきは最澄さんのお言葉であると考えています。ただし、宗祖の「志を述べる」ことは容易ではなく大変難しいものです。なぜなら、そのお言葉を理解し、感じ得た上で、お話を聞いてくださる方にも理解いただけるように「述べる」ことが求められるからです。

 皆さんには、天台宗や各寺院の歴史や文化以上に「志」を学んでいただきたいと願います。また、それを学び得たなら周りの方にも広めてください。それから、其々がご自身の「志」を述べられるようになりますことを願っております。
青蓮院門跡
〒605-0035 京都府京都市東山区粟田口三条坊町69-1